9

「しっかりつかまってろ!」ルドウィンは、ユナを前に乗せ、全速力で愛馬を飛ばした。
「みんな、わたしのせいだわ……」
「水晶を盗まれたのはこっちの落ち度だ。悪かった」ルドウィンがユナの背中でいう。
 風を切って駆けるなか、彼女を包むように手綱をとる彼の身体は温かく、その声は先ほどよりやさしかったが、いまのユナには、どんなものも慰めにはならなかった。
 ルシナンに行くにしろ行かないにしろ、クレナにいてはいけなかったのだ。
 少し前、セイルが灰色の騎士たちを見たといって、おびえたことがあった。あの午後、セイルは本当に見ていたのだ。
 ||もしここにそんな奴が現れたら、わたしがセイルを守ってあげる||
 ||ほんと?||
 ||ほんとよ。約束する||
 ごめんね、セイル。本当にごめん。何度も心でいいながら、ユナは、涙でかすむ瞳で、ひたすら行く手を見つめていた。
 
 リーヴェイン杉の森を抜けると、視界が開けた。
 緑に囲まれた丘の街。石造りの建物が、やわらかな新緑と調和して、その頂には優美な城が輝いている。
 ウォルダナの都エステラ。
 ユナは息を呑む。こんなときでなければ、どんなに胸が高鳴ったことだろう。
 丘のふもとにさしかかったアリドリアスは、速度を緩めることなく、曲がりくねった石畳の坂道を駆け上がる。美しい馬なのに、少しもひと目をひかずに、行き交う馬車や馬、人びとのあいだを縫ってゆく。
「誰もあなたが王子だって気づかないのね」ちょっと振り返り、ユナはいった。
「初めて会ったとき、きみは気づいた?」
 ユナは言葉につまる。
「人が目に留めるのは、王家の馬飾りやきらびやかな衣装だ。それと、どんなところでも目立たずに行くコツがあるのさ」
「どんなコツ?」
「気配を消すんだ」
 
 城門を駆け抜け、ゆるやかな坂を登り切ったところで、アリドリアスはぴたりと止まった。すぐに、馬丁とおぼしき少年が駆け寄ってくる。
 ルドウィンは、さっと降り立ってユナを降ろすと、全身から玉の汗を噴き出して湯気をもうもうと立てている愛馬の首を、ねぎらうようにやさしく叩いた。
「水と飼い葉をたっぷりやってくれ」少年に手綱を渡し、「正午過ぎに出発する」
「かしこまりました」少年はこたえた。
 ユナの前には、クリーム色を帯びた石造りのルデュセイア城が、文字通りそびえたっていた。近くで見ると、美しいというより荘厳で、ユナはただ言葉もなく仰ぎ見る。
「行くぞ」ルドウィンにうながされ、ユナは広い大理石の階段を上がった。
 円柱の脇に居並ぶ衛兵がいっせいに敬礼をする。
「ルドウィンさま!」ダンスパーティにいた側近が走ってきた。
「心配かけたな、サザレ。彼女は無事だ。着替えられるよう、部屋に案内してやってくれ」
「ヒューディはどこ?」ユナは聞く。「彼に会わせて」
「あとだ」ルドウィンはいった。「まずは国王に会ってもらう」
 
 着替えのすんだユナは、王の間に案内された。部屋の前では、すでにルドウィンが待っていた。
「ずっとよくなったな」質素な生成りの服を見下ろし、ルドウィンはいう。
 ユナに用意された衣装は、膝がやっと隠れる長さで、共布のサッシュベルトがなかったら、まるで侍女のネグリジェだ。実のところそうではないかとユナは疑った。
「こんなの好きじゃない」彼女は文句をいった。
「旅には動きやすい服が一番だ」ルドウィンは彼女の気持ちをまったく汲まずに、満足そうにいう。「さあ、カルザスが待っているよ」
 国王カルザスは長年病床にあった。王妃はルドウィンとふたりの王女を残してとうに亡くなり、王女たちは、それぞれ地方の公爵に嫁いでいる。
 ユナは、てんがいのついた大きなベッドの脇に通された。天蓋からは金糸で縁どった深紅のベルベットのカーテンが下がり、なかば開いたそのカーテンのあいだから、横たわる国王の姿が見えた。
 侍女がカーテンを開け、ルドウィンが近くによって身をかがめる。
「父上、こちらにいる娘がユリディケです」
「陛下」ユナはひざまずき、こうべを垂れた。
「ユリディケ」国王は、その弱った身体のどこからでるのかと思えるほど、はりのある深い声でいった。「よく来てくれた。さあ、顔を見せておくれ」
 ユナはゆっくりと顔を上げる。
 ルドウィンと同じ濃い瞳が、まっすぐに彼女を見つめていた。はくはつと白いひげにおおわれた顔には、無数のしわが刻まれ、一国のあるじとしての長年の労苦を物語っているが、その瞳には、いまだ衰えぬ力強い光があり、それがユナの心を激しく打った。
 カルザスの人徳はウォルダナ中の人びとが知るところだったが、それが真実であることを彼女は悟った。カルザスこそ、誠の王だった。
「ユリディケ。ルシタナの再来である娘よ。なるほどそなたは美しい。その澄んだ瞳が、真の勇気とやさしさを宿しているのが、わたしには、はっきりと見える」
 ユナは恥じ入った。自分はそんな人間ではない。国王はわたしを買いかぶっている||。口を開こうとしたユナを、王はさえぎった。
「世界はかつてない崩壊の縁に立っている。いつの時代にも、暗黒はひそやかにゆっくりと、内側からむしばんでゆくものだ。
 わたしは地の果ての小国で、病の床にある老人に過ぎない。しかし、ここで静かに休んでいると、めまぐるしく動いている者には見えぬものが見えてくるのだ。
 これまでは、ささいな紛争はあれども、人は互いを尊重し、平和に共存する道を選んできた。しかしいま、融和より分裂を、連帯より対立を、平和より戦争を望む声が、いたるところで高まっている。
 テタイアの内戦はその現れであろう。少数の不満分子が、人の心に巣くう不安や不満をあおり立てている。いったんきいでて、流れ始めた水は、みるみる大きな流れとなり、せき止めるのが難しいものだ。
 このような時代に、神がそなたに与えた道は、長く険しい。ゆくてには、思いもかけぬ試練が待っていよう」
 旅の行く末を暗示するかのように、王の瞳に厳しい光が浮かぶ。ユナは息を呑んだ。
「よいかな、ユリディケ。真実は、時として隠されておる。その澄んだ瞳で、世の中をよく見ることだ。真実を求めれば、神は必ずそなたのそばにいる。そのことを、よく覚えておくのだよ」
「はい、陛下」王を見つめ、静かにこたえる。
 王はほほえみ、それから、限りなくあたたかなまなざしを彼女に注いだ。
「ユリディケ。そなたはウォルダナの宝だ」
 ユナは、そのまなざしにこたえるすべを知らなかった。身も心も揺さぶられ、そのあとどうやって下がったかも覚えていない。
 気がつくと、ルドウィンが王のかたわらにひざまずき、こういっていた。
「父上。参謀本部に着いたら使いを走らせます。テタイアに援軍を送ってもらうことになるでしょう。軍のことはサザレに一任していきます。民間で義勇軍を募るという話も聞きました。彼らの助けも必要になるでしょう。あとのことは、ドレセンに頼んであります」
 ドレセンはルドウィンの従弟で、王の妹の息子である。ルシナンの王族と結婚し、すでに男の子をもうけていた。
「必ず戻るつもりです」わずかな間があった。「しかし、万が一の場合には、ドレセンを後継者に」
 カルザス王は黙したまま息子を見つめた。その瞳には、いましがたユナを見つめたときとは別の光が宿っていた。