8

 目を覚ますと、隣の寝台は空だった。
 ユナは窓に目をやる。レースのカーテンを透かして、澄んだ夜明けの空が見えた。
 昨夜の出来事は、すべて夢だったのではないか。一瞬、ほのかな期待を抱いたけれど、身体を起こそうとするとあちこちが痛み、青あざや擦り傷があった。
 よみがえってくる記憶を押しやり、着替えをすませて外に出る。少し熱っぽい身体に、朝の冷たい空気が染みた。
 今朝は伯父が馬の世話をしてくれるといっていた。レアナも手伝っているのだろう。そう思って馬小屋に行くと、馬房の掃除はすっかり終わり、伯父が馬にブラシをかけていた。
「おはよう、ロデス伯父さん」
「ユナ」伯父は心配そうな顔で、「起きなくてよかったのに」
「目が覚めちゃった」ユナはにっこりしてみせる。
 レアナはその先の鶏小屋にいた。挨拶を交わし、互いに言葉少なに鶏の世話をする。
 母屋に戻ると、伯母がバスケットに焼き菓子を詰めていた。
「レアナ。学校の行きに水車小屋に寄ってくれない? ゆうべ送ってくださったときにパスターさんに渡そうと思って、こさえておいたの」
「イルナ伯母さん、わたしが行ってくる」
「いいわよ、ユナ」レアナがいう。「大して遠回りじゃないもの」
 あなたには王子との約束があるでしょう? レアナの瞳はそういっていた。ユナも瞳でこたえる。まだ時間はあるわ。それから、声に出していった。
「いいの。気晴らしに歩きたいから」
「じゃあ、ユナに頼みましょう」伯母はいう。「それにしても、何日もいたわけじゃないのに、ヒューディがいないと、なんだかぽっかり穴が空いたようね。ルシナンの知り合いと会ったからって、一緒に帰ってしまうなんて。せめて荷物を取りに寄ってくれたら、さよならのひとこともいえたのに」
「そうね、母さん。いま思えば、引き止めればよかった。でも、ゆうべはみんな、ひどいパニックだったし、ユナとわたしも、自分たちのことで精いっぱいで……」
 伯母は黙ってうなずき、娘たちの無事を今一度感謝するように、長いため息をつく。
「イルナ伯母さん」ユナは務めて明るい声でいった。「荷物を置いていったってことは、きっと戻ってくるってことよ」
 
 ユナはレアナより先に家を出た。途中までは同じ道だが、朝食もそこそこに出てきたのだった。気をつけてね、ユナ。そういって彼女を見つめたまっすぐなまなざしが胸を刺す。
 レアナには話してないけれど、どうしてもルシナンに行く気にはなれなかった。自分が伝説にかかわっているとは思えないし、ルドウィン王子のこともいまだに信じ切れない。
 だけど、レアナだったらきっと行く。
 ||いわせてもらえば、お嬢さん。こっちだって信じたかないよ。きみのような娘がルシタナの生まれかわりだなんて、どこでどう間違ったか、天に聞きたいくらいだ。もっと謙虚で、聡明で、真の勇気と優しさをそなえた女性であるべきなのにね||
 ルドウィンのいうとおりだ。ルシタナの生まれかわりは、レアナのような人であるべきだったのだ。
 小さな丘を越えると、朝の光にきらきらと輝く川と、水車小屋が見えてきた。水の流れる音と、水車が回る陽気な音に、少しだけ心がなごむ。
 水車小屋に着いて扉を叩くと、すぐにその扉が開いた。
「やあ、ユナ。おはよう」
「おはよう、パスターさん。ゆうべはごめんなさい。言伝気がついた?」
「ああ、気づいたよ。パーティで知り合った男に送ってもらったんだって? レアナには決まった相手がいるようだから」パスターさんは片目をつむり、「その幸運な男性はおまえさんのお相手かな?」
 昨夜の言伝には、パーティで知り合った人に送ってもらって帰ってきたとのみ書いておいた。ほかのことは、いずれ村の誰かから伝わるだろう。ユナは軽く肩をすくめ、バスケットを差しだす。
「イルナ伯母さんからことづかってきたの」
「おっ」パスターさんは、かけてあるナプキンをちらっとめくり、「うまそうだな。ありがとう。かみさんの大好物だ。いまペベットの農場だが、きっと喜ぶよ」
「馬のお産?」ユナは聞く。
 パスターさんの奥さんは村の助産婦だが、難産の動物の出産に立ち合うことも多い。興奮する動物を魔法のようになだめて、無事に子を取りあげるので、ことお産に関しては、隣村にいる獣医より頼りにされている。
「羊だよ。真夜中に呼ばれてな。もう終わってるだろうし、迎えにいってやりたいんだが、ちょいとセイルを見ててくれるかな」
「いいわよ」
 王子が迎えをよこすといった時刻には、まだ少し余裕がある。
「悪いな。母親がいないせいか、朝飯のあとぐずって寝ちまって。石臼を回してるから、ひとりで置いておくのも気になってたんだ。助かるよ」
 
 台所の棚から陶器の壺を下ろしてテーブルに置き、焼き菓子を壺に移していると、セイルが顔をのぞかせた。ユナは笑顔でいう。
「おはよう、セイル」
「おはよう」セイルは眠そうに目をこすりながら、そばにやってきた。
「お父さんはお母さんを迎えにいったわ」
「それ、なあに?」セイルは背伸びをしてバスケットと壺をのぞく。
「イルナ伯母さんの胡桃くるみ蜂蜜はちみつのお菓子よ。ひなたぼっこしながら食べようか」
 セイルはにっこりした。ユナはバスケットを抱え、小さな手を引いて表に出る。
 そのとき、陽気な水車の音を縫って、荒々しいひづめの音が聞こえてきた。あたりの空気が一気に変わる。
 次の瞬間、水車小屋の横手から、二騎の灰色が現れた。