レアナは深い物思いに沈みながら学校へと向かった。
 クレナの春は、一夜にして色あせてしまった。空も大地も、風に揺れるローレアも、すべてがよそよそしく感じられる。春歌鳥も声をひそめ、さえずりひとつ聞こえてこない。
 本当はユナとともに家を出て、少しでも一緒にいたかった。けれど、そうはできなかった。ユナの目は、ひとりにさせてほしいといっていたから。
 きっと、水車小屋に行って、そのままここを離れるつもりだ。両親のことを思うと、胸が痛んだ。ユナが急に姿を消したら、どれほど衝撃を受けるだろう||
 蹄の音が、彼女の物思いを破った。
 ひどく切迫した響きでこちらに向かってくる。心臓が、痛いほど激しく打ち始めた。
 
 ユナたちの前で、二騎は乱暴に馬首を返して馬を止め、土埃が巻き上がった。
「逃げるのよ、セイル」とっさにセイルを後ろにかばい、ユナはささやく。
 騎士が相次いで飛び降りる。彼らから目を離さないまま、セイルが走り出すのを視界の端でとらえると、大股で近づいてくる先頭の騎士めがけ、バスケットを投げつけた。
 バスケットはフードを目深にかぶった騎士の顔面を直撃した。不意を食らった騎士は、大きくのけぞり、拍車のついたちょうで後続の足を踏みつける。両者は、もつれ合ってどっと倒れた。
 ユナは、そのすきに小屋に飛びこむ。なにか武器になるものを探さなくては。素早くあたりを見まわすと、壁に掛かったすきが目についた。
 時間はそこまでだった。鋤を手にして振り返ったとたん、騎士が戸口に立ちふさがる。
 ユナは、金切り声を上げながら、夢中で鋤を振り回した。なにかがぱっときらめき、両腕に衝撃が走る。
 気がつくと、鋤はまっぷたつに割れて床に転がり、肩から指先にいたるまで、しびれるようにじんじんと痛んだ。
 水車の音が大きく響くなか、騎士は片手に抜き身の剣を構え、フードの奥からユナを見据えて、低い、ぞっとするような声でいう。
「われわれと一緒に来てもらおう。そうすれば、あの子は傷つけない」
 ユナは、はっとする。
 灰色の狙いは、わたしだ。どういうわけか、彼らは彼女の秘密を知ったのだ。そして、生きたまま連れ去ろうとしている。おそらく、光の剣を探すために。
 冗談じゃない。
 ここは、幼いころから入りびたっている彼女の領分。外の水車から大きな木製の歯車にどう力が伝わるか、それが別の歯車とどう連動し、巨大なひきうすをどう回転させているか、すべてを知り尽くしている。
 いいわ。どちらがすばしっこいか、見てやろうじゃないの。
 両腕はまだじんじんとしびれていたが、木登りで鍛えた身体が、どうにか動いてくれることを願い、ユナは粉挽き場の方へあとずさった。一歩ずつ、ゆっくりと。そして、まさに騎士が彼女をとらえようと飛びかかった瞬間、ひらりと身をひるがえし、粉を受ける木箱を踏み台に、回転する臼に飛び乗った。それから、そのまま一気に、上の木枠へ飛び移る。
 標的を失った騎士は、勢いよく前に突っ込み、床から天井に伸びた支柱に頭をぶつけると、ぐるっと半回転して仰向けに倒れた。
 やった! そう思ったとき、表から高い悲鳴が響いた。セイル||
 ユナは動揺し、細い木枠の上でバランスを崩す。
 背中に激しい衝撃が走った。息がつまり、意識が遠のく。と、ガシャリという金属音が聞こえ、閉じかけた瞳に、大きなちょうが映った。
 逃げなきゃ||。ユナは必死に身を起こそうとする。けれども、意識がもうろうとして焦点が合わない。
 そのとき、誰かが風のように飛びこんできた。続いて、どさっという大きな音。
 気がつくと、ユナは大きな手で助け起こされていた。
「だいじょうぶか?」ルドウィンだった。
「ええ……」ユナはうなずく。
 小麦粉が舞うなか、胸に短剣を突き立てた騎士が倒れているのが見えた。瞬時に意識が冴える。仲間がいたはずだ。セイル||
 ふらつく身体で飛び出すと、小屋の外に、その一騎が倒れていた。胸もとはどす黒い血で染まり、フードからのぞいた顔はミイラになっている。ルドウィンがいった。
「もうすぐ骨になって、それも風化する」
「ルドウィン!」小屋の裏手から、レアナの叫び声がした。
 ふたりが駆けつけると、レアナがセイルを岸辺に引き上げようとしていた。ルドウィンが手を貸し、草の上に横たえる。セイルの顔は蒼白で、息をしているようには見えない。
 ルドウィンが、小さな胸の上に両手の指を重ねて圧迫し始めた。
 
 レアナが毛布とタオルを探して戻ってきたときには、セイルは息を吹き返していた。
 ルドウィンは、小さな身体を毛布でくるんで抱え、レアナに導かれて小屋の中に運びこむ。彼は粉挽き場へ目を走らせた。先ほど倒した灰色の姿は消え、短剣だけが転がる床には、開け放たれた窓まで点々と血痕が続いている。心臓を狙ったはずだが、わずかにずれたのか、あるいは、確実に中心を貫かなければ復活するということか。
 戦慄とともに、ルドウィンは悟った。灰色どもは、これまで伝え聞いていたより、遥かに恐ろしい敵なのだと。昨夜の傷も、回復に二日はかかると踏んでいたが、その甘い見通しが、幼い命を危険にさらしたのだ。
 寝台に横たえると、少女はすぐに眠りに落ちた。ほおは薔薇色になり、呼吸も安定している。ルドウィンはほっと胸をなでおろした。
「ルドウィン」レアナが片手をさしだす。その手のひらには、やわらかな光を帯びたフィーンの水晶がのっていた。「これが外に」
 少女のそばでひざまずいていたユナが、目を留めてはっと息を呑む。
「こちらの落ち度だ。悪かった」ルドウィンはいい、水晶を受け取った。
 ユナが目もとをぬぐって立ち上がる。
「ルシナンに行くわ」
 ルドウィンは黙ってうなずいた。
「あとはわたしが」レアナがいう。
「ありがとう」ルドウィンは彼女を見つめた。
「どうかユナを守ってください」澄んだブルーグレイの瞳がまっすぐに見つめ返す。「そして、きっと一緒に帰ってきて……」
「わかった」彼はこたえた。「必ず守る。そして、きっと一緒に帰ってくるよ」
 レアナの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。それから彼女は、従妹をやさしく抱きしめた。
「ユナ。神さまが、あなたとともにありますように」
「レアナ」ユナはぎゅっとしがみつき、なにかささやいたが、彼には聞こえなかった。
 彼は、ふるえているユナの肩に手をかける。
「行こう」
 表に出ると、灰色の死体はほとんど砂と化し、風がその砂をさらいつつあった。端がめくれてはためくマントの中に、主を失った剣が鈍い光を湛えていた。