第Ⅱ部 ダイロスの剣

10

 雲ひとつない空のもと、一行は東の森を目指して草原を進んでいった。
 これまでのところ、追っ手の気配はない。ウォルダナの春にしてはめずらしく気温が上がり、森にさしかかるころには、馬も乗り手もすっかり汗ばんでいた。
「ローレア」ユナは葦毛に呼びかける。「やっと日陰に入れるね」
「涼しくなるのはいいけど、東の森を通るのは気が進まないな」ヒューディがいう。
 東の森のうわさは、ユナも聞いていた。得体の知れない化け物がうろついているとか、人を何年も眠らせる霧が出るとか、しんばんが狂うとかといったたぐいのものだ。
 ユナは、噂などはなから信じていないが、黒々とした森に踏み入ったとたん、なにやら背中がぞくっとした。
「フォゼ」ルドウィンが振り返り、「ここからはおまえが先頭だ」
 フォゼはぎくっとして彼を見た。
「俺が? このぶっそうな森で?」
「案内役が先に行かなくてどうする?」
「でも||ルドウィン王子||
「フォゼ」ルドウィンは鋭くさえぎる。「口が裂けてもその呼び方はするな」
「ル||ルド||俺はうしろから指示を出すよ。もしなにかあっても、俺じゃ頼りに||
「戻って地下牢に入りたいのか?」
 フォゼは口をつぐみ、のろのろと先頭に立つ。ジョージョー、ユナ、ルドウィン、ヒューディと続き、ヤンがしんがりだ。そうして、一行はうっそうとした森を進んでいった。
 あたりは、千年も前からこの森でじっと歴史を見てきたような巨木ばかりで、地面には太い根がうねるように張りだし、シダや苔がびっしりとはびこっている。
 突然、頭上でギャーッと声が響き、ジョージョーが悲鳴を上げた。
「オオネコガラスだ」ルドウィンがいう。
「ああ、驚いた。心臓が止まるかと思った」
「おまえの声のほうが心臓に悪いよ」とフォゼ。「前も聞いたろ?」
 ふたたびギャーッと声が響き、ジョージョーは鞍の上で飛び上がった。その後も、鳴き声や物音がするたびにびくびくするので、ユナはこういわずにはいられなかった。
「それでよく水晶を盗めたわね。それに、目の前で人が襲われるのを見て、死ぬほど恐い思いをしたのに、その人の言伝を届けたんでしょ? すごい勇気がいったんじゃない?」
 ジョージョーは真っ赤になった。どうやら照れ屋さんのようだ。
「ふたりとも十五歳なんだっけ? 学校には行ってるの?」ユナは聞き、いたずらっぽくいいそえる。「事件を目撃したり、出来心で泥棒したりするとき以外はって意味だけど」
「もう働いてるんだ」とフォゼ。「その||運搬業っていうのかな。な、相棒?」
「あ||ああ」ジョージョーは少々怪訝な顔でうなずく。
「あるところからほかのところに物を運ぶ仕事だ。な、相棒?」
「ああ。俺の特技は二階の窓から||
「そう」フォゼがさえぎり、「俺たち、修理もやっててさ。窓とかも直すんだ。こいつ、高いとこが得意で、二階担当。俺は一階。それよか、急に腹減ってきたな。あの、ルド、ここらでちょいと休みませんか、なんかひと口、口に放り込んだりして」
「まだだ」ルドウィンはきっぱりといった。「時間も食料も、無駄にはできない。暗くなる前にできるだけ進まないと」
 
 夕暮れが訪れ、互いの姿がおぼろげになってきたころ、ようやくルドウィンがいった。
「よし。今夜はここで休もう」
「え?」ユナはあたりを見まわした。「まさか、この森で野宿するの?」
「そのまさかだよ、お嬢さん。眠らずに進み続けるのでもない限りね」
「そんなこと、聞いてなかった」ユナは泣きたい気持ちになる。
「きみは十七歳の成人を迎えたんだろ? それぐらいわかりそうなものだが」
「東の森は広いんだ」ヒューディがやさしくいう。「一日や二日じゃ抜けられないんだよ」
 そこは木がまばらで、小さな空き地になっていた。近くの沢で喉をうるおし、薪にする枯れ枝を集めていると、ジョージョーがあっといって、後ろからヒューディをひっぱった。
「そこに入っちゃだめだ」
「どうしたの?」ユナがそばに寄ると、宵闇よいやみに白くぼうっと浮き上がるように、きのこがぐるりと円を描いていた。
 妖精の輪。白く光るのは初めてだけど、よく見かけるきのこの輪だ。イルナ伯母によると、妖精の世界と人の世界の境界線。向こうからは、こちらの姿がはっきり見え、うっかり足を踏み入ると、妖精に連れ去られてしまう。もちろん単なる迷信だが、さすがのユナも、この森で試してみる気にはなれない。
「おっ、うまそうだな」フォゼがやってきた。
「よせよ、フォゼ」ジョージョーはぎょっとして、かがもうとした彼を止める。
「なんだよ。採るだけならいいだろ? 輪の中には入りゃしないって」
「採るなんて、もってのほかだよ」
「まったくです」いつのまにか、ヤンがそばに来ていた。「口にしたとたん、あの世行きでしょう。毒キノコです。しかも、猛毒の。胞子を吸っただけでも、幻覚や幻聴を引き起こすことがあります。食べるのはもとより、決してふれたり近よったりされぬように」
 ヤンはルドウィンが幼少のころから王室に仕え、彼に弓や剣術を教えた武術の師匠で、王子よりさらに背が高く、物静かで控えめな男だ。ヤンが火を起こすと、炎がみんなの顔を照らしだした。ヤンはパンをナイフで切ってチーズを添え、ひとりひとりにさしだす。
「あの灰色の奴らが追ってこないかな」ジョージョーがつぶやいた。
「しっ」ヤンがいう。「この夜の森でその名を口にしてはなりません。それと、ひとつ覚えておいてください。あの者たちは、人を襲って、その人物になりすますことがあるそうです。ただし、彼らは永遠の命を得るために魂を売った存在。彼らには、影がないのです」
 沈黙が落ち、一瞬、炎の勢いも落ちた気がして、ユナは無意識に両腕を抱いた。
 ささやかな食事のあと、彼らは夜番を立てることにした。宵の口から深夜までと、深夜から夜明けまでの二交代。一度務めれば、少なくともひと晩は休める勘定だ。
 ヤンが最初は自分が務めると申しでた。あとはくじ引きで、ユナとジョージョーは二人一組。ヒューディが細い枝を四本集め、そのうち三本に印をつけて、みんなにさしだす。
「さあ、選んで。傷ひとつなら明日の前半。二つなら明日の後半。三つだったら明後日の前半。なにもない枝なら大当たり。今夜の後半だ」
 最初にユナが引いた。傷は三つ。
「明後日の前半ね」ユナはジョージョーに笑顔を向け、ジョージョーはほっと息をつく。
 続いて、フォゼが引いた。傷はひとつ。最後にルドウィン。傷は二つ。ヒューディは、手もとに残った枝を呆然と見つめる。
「大当たりだな、坊や」ルドウィンは彼の肩をぽんと叩いた。「まかせたよ」