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 彼らは東の森を進み続けた。フォゼは、蔓性植物がびっしり下がった木立や、黒い岩で覆われた斜面を抜け、泡立つ沼地を迂回して、ほとんど迷うことなく一行を導いてゆく。
「俺の体内には、生まれつき針盤しんばんがあるんだ。一度行ったところは絶対忘れない。||もちろん、ここは何度も来てるしさ」
 ヤンはルシナン製の精巧な羅針盤をたずさえていたので、時おり方向と進んだ距離を確かめては、正しい方角へ進んでいると請けあった。そんなフォゼも、濃い霧が出て、前方がほとんど見えなくなったときには、さすがに馬を止めた。
「この霧じゃ、俺の羅針盤は働かないや」
「こちらの羅針盤も、針がぐるぐるまわっています。霧が晴れるのを待ちましょう」
 ヤンもいい、彼らは馬をつないで、苔むした倒木に腰をおろした。互いの顔もよくわからないなか、ヒューディはユナの隣に座る。あれからも時々、彼だけが得体の知れないものを見たり、おかしな物音を聞いたりしたが、今日は朝から一度もそういうことがない。
 と、霧のなか、どこからか不思議な歌声が聞こえてきた。えもいわれぬ美しい声で、高く低く、彼を誘うように歌っている。
「ユナ」ヒューディはささやいた。「聞こえる?」
「なにが?」
「歌声」
「聞こえないわ」ユナは心配そうに彼を見る。
 霧でぼんやりとしか見えなかったが、ほかの者も自分のほうを向いたのがわかった。
「ヒューディ」ジョージョーが遠慮がちにいう。「もしかして、あのとき、妖精の輪を踏んだんじゃないかな。端っこの方をちょっとばかり。それで、妖精に姿を見られたんだよ。だから、きみの方も、姿を見たり声を聞いたりするんじゃないかな」
「あれが妖精のものかどうかはさておき、きのこを踏んだのは間違いありませんね」
 ユナの向こうから、ヤンの声がした。
「その際、胞子が飛んだのでしょう。あのきのこは、胞子を吸っただけでも、幻覚や幻聴を引き起こすことがあるといったのを覚えていますか? まれに、あとから症状が現れることもあるのです」
「へえ」とフォゼの声。「ヒューディ、美人の妖精でも見て、ぽおっとして、ついてったりしないようにな」
「じきにおさまりますよ」ヤンがいった。「一昨日の朝、ずぶ濡れになって戻ってきたときから、もしやと思って気をつけていましたが、症状は少しずつ軽くなってきているようですから。歌声はまだ聞こえていますか?」
 そういわれて、先ほどの不思議な歌声が、いつしかやんでいることに気がついた。
「いいえ」
「それはよかった」
「まったくだ。また化け物が出たと大騒ぎされちゃ、かなわないからな」フォゼが笑う。
 どこまでもいけすかない野郎だ。道案内として役に立っているからか、フォゼの態度は日に日に大きくなり、ユナなどすっかり打ち解けている。
 けれどヒューディは、どうしても気を許すことができなかった。
 たぶん、ワインの瓶で殴られたせいだろう。旅の当初はそれこそ、馬に揺られて一歩進むたびに、頭の中でガンガンと鐘が鳴っているようだったし、それがやっとおさまってきたところで、こんなふうに笑われては、とうてい寛大な気持ちになどなれないというものだ。
 
 都を発って五日目の午後、そのフォゼに異変が起こった。右へ進んだかと思うとすぐに左に戻ったり、同じところをぐるぐる回ったりと、まったく頼りにならない。
「どうした、フォゼ」ルドウィンがいう。
 フォゼはびくっとして振り返った。
「ま||迷ってるわけじゃないよ。このへんに池があるはずなんだ||だよな、相棒?」
「うーん||あんときは、おまえの親父さんについてっただけだし、親父さんが死ぬ前にせめてもう一度||
「ジョージョー!」フォゼが慌ててさえぎる。
「さてと」ルドウィンがいった。冷ややかな声だった。
「いや||その||つまり||
「確か、東の森の抜け道にかけては、自分たちほど詳しい者はいないといったな?」
「それはほんとだよ。これまでずっと、迷わなかったろ? 俺||ほんと方向感覚はいいし、一度行ったとこは完璧に覚えてるんだよ。ただ||
「あ!」ユナが声を上げる。「聞いて!」
 全員、耳をそばだてた。
「水の音じゃない? ほらまた! きっと魚がはねる音ね。近くに池があるのよ」
「なにも聞こえないな」ルドウィンがいい、ほかの者も一様にうなずく。
「あ、あれ星ツグミじゃない?」
 星ツグミだって? 彼らは顔を見合わせる。この森に入ってから、鳥の声といえば、オオネコガラスか啼鳥なきどり、名も知らぬ猛禽類もうきんるいの不気味な声のほか、聞こえたためしがない。
「みんな、耳がどうかしちゃったの? ねえ、フォゼ。池の方にいけばいい?」
「ああ。池の対岸を西へ抜ければルシナンだ。池で太陽の位置を確かめれば間違いないよ」
「わかった」ユナは先頭に立ち、フォゼはほっとしたようにそのあとを行く。
 しばらく進むと、彼らにも陽気なさえずりが聞こえ、さらに進むと、その歌声のあいまに、かすかな水音も聞こえてきた。やがて視界がぱっと開け、なみなみと水を湛えた池が姿を現した。なかほどでは、魚がしきりにはねて、水しぶきをあげている。
 ヒューディは口笛を吹く。
「ユナの耳はうさぎの耳だ」
「いや」ルドウィンはいった。「フィーンの耳だ。フィーンはすぐれた五感を持っている。彼女の中で、それが目覚め始めているんだ」
 
 池の周りはぽっかりと青空が広がり、同じ森の中とは思えないほど明るかった。星ツグミが歌うなか、しばし休息を取りながら、みんなの気持ちも明るくなる。
「その弓は素晴らしいですね、ユナ」ヤンがいった。「試しに引いてみませんか?」
 そよ風に吹かれて、久々にさわやかな気分だったし、ヤンの誘い口はおだやかで、ユナは思わずそうねとうなずく。ルドウィンが、どういう風の吹き回しかというように眉を上げる。ユナは、そんな彼を一瞥いちべつすると、つんと澄まして背を向けた。
「よい武器を選ばれました。手にしっかりなじんで、引きは驚くほど軽い」
 ヤンは銀の弓を手にとり、弦の扱い方から矢のつがえ方、弓の構え方など、ひとつひとつ丁寧に実演してみせる。
「そういうことはないよう願っていますが、万が一奴らを前にしたら、できるだけ心を落ち着け、心臓の真ん中にしかと狙いをさだめてください」自分の胸に手をあてて、「心臓はここ。胸の中央、やや左寄りです。でも、まずは素引きからですね」
 ユナは教わったとおり左手に弓を構え、右手の指に弦をかけて引いてみた。引きが軽いといわれたものの、案外と力がいる。何度か引いただけで、すぐに嫌になった。
「何事も鍛錬です。いまに上達されますよ」
「ありがとう」やさしいヤンの手前、ユナはこたえ、心でそっといいそえる。でも、もうけっこうよ。
 
 そこからはすこぶる順調で、一行は日暮れ前、広々としたルシナンの草原に抜けた。
 一番星が輝く下、ルドウィンとヒューディが並んで先頭に立つ。黄昏たそがれに染まる大平原を進んでゆくと、とっぷりと日が暮れるころ、行く手に小さな木立が見えた。
「あそこなら、ひと目につかないだろう」ルドウィンがいい、ヒューディがこたえる。
「東の森じゃなきゃ、どこでも大歓迎だよ」
 夕食をすませると、彼らはやわらかな草の上に身体を横たえた。降るような星がブナやかえでこずえにかかり、そばには、澄んだ小川が低く歌うように流れている。
 ようやく東の森を抜けた安堵感から、みんなが次々と眠りに落ちるなか、ただひとり、夜番のルドウィンだけが、暗い地平線にじっと目を凝らしていた。