近衛兵に誘導され、ユナが最初に馬車に乗り、レアナを真ん中にして、ヒューディが乗った。ルドウィンが三人の向かいに乗り込むと、馬車はすぐに走りだす。
 ガタガタと音を立てて揺れる馬車の中で、レアナはひざに両手をおいてふるえている。ヒューディは、その上に手を重ね、自分もふるえていることに気がついた。
 ルドウィンは銀のフラスクを取りだし、蓋を開けて彼らにさしだす。
「ウォロー山麓の蒸留酒だ。ちょっと強いが、気持ちを静めてくれる」
 順にまわして、ヒューディもひと口飲んだ。一瞬、喉がかっと燃えたが、香りはやわらかで、身体が温まり、ふるえがおさまってくる。
 ルドウィンは、彼らの顔を順に見ながら切り出した。
「ルシナンの王室は、ウォルダナ王室宛てに密書を送っていた。使者は国境の街で奴らに殺されたが、その直前、密書を託していた。ルシナンから来た緑のベストの少年に」彼の視線がヒューディで止まる。「きみのことだね?」
 ヒューディは息を呑んだ。
「いえ||その||確かに国境の街にはいたし、緑のベストは着てました。けど、人違いです。ぼくはなにも預かっては||」不意に、言葉に詰まる。
「預かってはいない。だけど、なにか思い当たることがある。そうだね?」
「奴らを見ました。さっきの騎士たちを||。それと、追われている若者も」ヒューディはいい、なにがあったかをざっと語った。「でも、なにも預かっていません」
「それは、きみが気づかなかっただけかもしれない。ぶつかった際、若者はきみの持ち物に触らなかったか?」
 思い出そうとしたが、灰色の姿ばかりがよみがえり、若者の顔すら思い出せない。
「荷物の中に、見慣れないものはなかった?」
「いいえ、なにも」
「確かか?」
「確かです。一度全部あけましたから」
「じゃあ」ルドウィンはいい、彼の上衣に目を留める。「そのポケットの中は?」
「こんな中には||」ポケットに片手を入れ、ヒューディは眉をひそめた。
 ゆっくりと手を引き出す。現れたのは、小さな布袋。上質な絹のサテンで、片隅に百合の紋章がしるされている。彼は息を呑み、ルドウィンに差しだした。
 ルドウィンはさっそく手紙を取り出し、小型のナイフで封蝋を開けて目を通す。それから、別のものを取りだした。片手で握れるほどの、薄いレンズのような水晶だった。
「わあ、きれい!」ユナが声を上げる。
 ルドウィンは水晶を左手にのせ、右手をかざした。
 最初は、なにも起こらなかった。それから、内側から光を放つかのように、水晶が淡く輝く。ルドウィンの瞳が、かすかに見開いた。
 彼は、黙ったまま水晶をユナに差しだす。ユナは受け取り、その表面をのぞきこんだ。
「なあんだ、鏡じゃない」レアナに渡し、「なにか由緒ある宝石かと思った」
「これは、由緒ある宝石だ」ルドウィンは静かにいう。「フィーンの水晶だよ。エレタナ王女から託されたものだ」
「エレタナ? あの伝説の? でも、ただの鏡だけど?」
「鏡じゃないわ」レアナがいった。「わたしが見てもユナが映ってる。髪を下げてね」
 ユナははっとして、髪に手をやる。
「どうしてわたしがフィーンの水晶の中にいるの!?
 ルドウィンはそれにはこたえず、まっすぐにレアナを見た。
「レアナだったね?」
「はい」レアナはうなずく。
「今夜のパーティは、正体不明の無法者に荒らされたことにしてくれないか。いまの若者は古い伝説をよく知らないし、逃げるのに必死で、なにが起こったかわかっていないだろう。この馬車の中で見たり聞いたりしたことは、誰にも話さないでほしい。誓えるかい?」
「はい」微かにふるえているが、凜とした声だった。「誓います」
「ありがとう」彼はユナとヒューディに目を移す。「きみたちには、一緒に来てもらうよ」
「え?」とユナ。「どこに?」
「ひとまずは都に。そして、そこからルシナンに向かう」
「ルシナン!?」ふたりは同時に声を上げる。
「ヒューディ、奴らの狙いはきみ||いや、きみが持っていたものだ。ここに残るのは危険だ。きみにとっても、村の人にとっても。村で別れを惜しんでいる暇はない。奴らが回復する前に旅立たなければ。それに、ルシナンの事情に詳しい者がいれば助かる」
「そんな||。ウォルダナに来たのは、王立音楽院に入るためなんです。もちろん、このクレナは離れますが||
「王立音楽院で学びたいのか?」
「はい」
「だったら、いわれた通りにするんだな。さもないと、音楽院を受ける前に、命を落とすことになるぞ」
「それは、脅迫ですか?」
「いいや、忠告だ。心からのね。将来、ことが落ち着いてから出直せばいい」
「でも||
「王立音楽院を受けるにはウォルダナ国籍がいる。国籍をとるには、どこの許可がいると思っているんだ? それに、わたしは音楽院の理事だ。最終面接の責任者も務めている」
「いまのは脅迫ですよね?」
 ルドウィンはにやりとし、それから、真顔になった。
「テタイアの内戦は、いまに全世界を巻き込んだ大きな戦争になる。ルシナンでは、五年前に内戦が起きたときからそのことを危惧して、密かにテダントン王国と同盟を結んでいた。そこにこのウォルダナも加盟するんだ。フィーンの国エルディラーヌに続いてね」
「え? フィーンも戦うの?」
「ああ。フィーンの王は、すでに何名かを参謀本部に送り込んでいる。末の王女エレタナも、そのひとりだ。ルシナン王室からの密書には、ウォルダナの加盟をうながす書面とともに、エレタナからの言伝が記されている。
『この水晶に現れた者を、誰にも気づかれぬよう、自分のもとに連れてきてほしい。なぜなら、その者は、運命の申し子ルシタナの生まれかわりであるから』」
 一瞬、馬車の中が静まりかえった。
「な||なにいってるの? 冗談はやめてよ。わたしがそんな人の生まれかわりなわけないじゃない」ユナは笑う。「それに、死んだ人がまた生まれてくるわけないでしょ? しかも、二千年も前の。そんなの単なる伝説よ」
「その単なる伝説の灰色の騎士を、きみは今日、その目で見たね? その伝説によると、二千年ののちにダイロスが甦り、そのときにはルシタナも甦る。それが、いまのことだよ」
「それは四十年前のことだって聞いたわ」
「もちろん、そうさ。四十年前に、ダイロスの生まれかわりがこの世に生を授かった。その者の名はグルバダ。ドロテ軍||テタイアの反乱軍を陰で操っている人物だ」
 全員、息を呑んだ。
「それで、わたしが光の剣を探して世界を救うわけ?」
「それだけわかっていれば、もう説明の必要はないな。どうやらきみは、古い伝説をよく知っているようだ」
「知ってるわよ、それくらい。でも、わたしはそんな昔話を信じるほど子どもじゃないわ。だいたい、なんでこのわたしが、そんな危ないことをしなきゃならないわけ?」
「いわせてもらえば、お嬢さん、こっちだって信じたかないよ。きみのような娘がルシタナの生まれかわりだなんて、どこでどう間違ったか、天に聞きたいくらいだ。もっと謙虚で、聡明で、真の勇気と優しさをそなえた女性であるべきなのにね」
 ユナはむっとした表情をしたが、なにもいわなかった。
「この戦争は、小さな諍いとはわけが違う。グルバダは近衛兵の精鋭だった。謀反むほんを起こしたイナン王子の側につき、いまや将軍として全軍を率いている。ある情報では、イナン王子は二か月前、原因不明の病で床についた。病症は重く、王子は後継者としてグルバダを任命している。王子亡き後、グルバダは名実ともに、ドロテの指導者となるんだ。彼は長い時間をかけ、すべてを周到に準備してきた。おそらく、王子の病も」
 窓からさすカンテラの灯りに、ルドウィンの濃い瞳は金色の光を帯び、車輪がガタガタと音を立てるなか、彼の声だけが響いている。
「ダイロスがふたたび生まれるとしたら、迷宮跡があると伝えられるテタイアではないか。ルシナンの王室はそう考え、隣国の動きを見守りながら、密かにルシタナの生まれかわりを探していた。フィーンはずっと沈黙を守ってきたが、ここにきてついに、フィーンの王がエレタナ王女をルシナンに遣わしたというわけだ」彼は言葉を切り、「手紙を探すのは手間取ったが、きみを探す手間は省けた」
「なに勝手なこといってるの?」ユナが猛然という。「あなたもルシナンの王室もどうかしてるわ。ともかく、わたしはこのクレナを離れては、どこにも行きませんからね!」
「あの||ルドウィン王子」ずっと黙っていたレアナが、遠慮がちに口をひらいた。
「なんだい?」ルドウィンは彼女に瞳を向け、レアナは静かに見つめ返す。
「事情はよくわかりました。ただ、ユナにとっては、なにもかも、あまりに急な話だと思うんです。どうかひと晩だけ、時間をいただけませんか?」
 
 家の少し手前で馬車は止まった。
 ヒューディはいったん降りて、ユナとレアナが降りるのに手を貸す。それから、レアナの前に立ち、かすれた声でいった。
「おじさんたちによろしくいっておいて。本当にすまないと」
「だいじょうぶ。うまくいっておくわ」
 満月の光のもと、長いまつげにふちどられたブルーグレイの瞳が彼を見つめる。
「ありがとう」こたえながら、胸がつまった。
「ヒューディ」レアナは彼の両肩に手をかけて背伸びをし、ほおにキスをする。「どうか、気をつけて」
「きみも」そっと抱きしめると、レアナはほのかな花の香りがした。
「戻ってくるの、待ってるわ」
 ヒューディはうなずく。
「さよなら、レアナ」最後にささやき、身体を離してユナの方を向いた。「おやすみ、ユナ」少しためらい、「また明日」
 
 ユナとレアナは、手に手をとって遠ざかる馬車を見送ると、黙ったまま家に向かった。ふたりともひどいありさまだったし、ヒューディなしにこんなに早く帰っては、伯父も伯母もさぞ驚くに違いない。
 ほどなくパスターさんの水車小屋の戸口には一通の伝言がすべりこみ、明日の午後ともなれば、あちこちから噂が流れ、パーティでの騒動は村中の者が知るだろう。けれど、本当のことは||あれが本当であればだが||自分たちしか知らないのだ。
 ユナはため息をもらし、それから、ふと足をゆるめる。
「レアナ」彼女はいった。「このまえ崖から落ちそうになったとき、助けてくれた失礼な男は、ルドウィン王子よ」