ダンスフロアーへと向かいながら、ヒューディはすっかり気後れしていた。まわりの男性たちは、みな彼より背が高く、当世風の洗練された衣装をさっそうと着こなしている。
 彼はといえば、焦げ茶の上衣と生成りのズボンといういでたちだ。上衣は、母が袖丈を詰めてくれた父のお下がり。家の工房で織られた生地は、しっかりして張りがあるのに、風合いがよく皺にならない。だが、いかにも古風で場違いな気がした。
「ヒューディ」ユナが声をかけてくる。「そのルシナンの服、シックですごく素敵」
「ほんとね」レアナもいう。
 そんな彼女たちの心遣いもあって、カクテルの一杯も飲んでしまうと、ヒューディの気持ちもほぐれてきた。
 やがて西の空が淡いオレンジ色を帯び、東の空が濃い紫に染まって、星が瞬き始める。楽団の指揮者が片手をあげ、音楽がゆったりとした曲調に変わった。
 ダンスフロアーを囲むかがり火から、草地に置かれたテーブルのしょく台、白樺の木々に掲げられたカンテラにいたるまで、一斉に火が灯される。あたりが一瞬にして光り輝き、どよめきが起こった。
 馬車の音が聞こえ、ファンファーレが鳴り響き、拍手と歓声が沸き起こる。
「王子さまよ!」
「ルドウィン殿下だ!」
 会場の興奮がいっそう高まった。広いフロアーを挟んで反対側にいる彼らからは、つま先立つ人垣しか見えず、王子がひん席に上って、ようやくその姿を見ることができた。
 遠くて顔はよくわからないが、長身を濃紺の上下に包み、にこやかに歓声にこたえる様子は、すこぶる感じがよい。気の利いた短い挨拶のあと、王子は優美な動作で腰を下ろす。
 華やかな音楽が始まり、若者たちは、待ってましたとばかりに陽気なステップを踏んだ。
「レアナ」ヒューディも、レアナに手をさしのべる。
 そのとき、いかつい男が横からさっとふたりのあいだに入り、有無をいわさぬ強引さでレアナを引っぱっていった。
「失礼な奴ね」ユナがいう。「そうだ、踊りながら近づいてみない? わたし、あいつの足を思いきり踏んでやるから」
 ヒューディは笑い、ユナの手をとった。
 
 ユナはヒューディと踊るうちに、レアナを見失ってしまった。けれども、ちょうど曲が終わるころ、近くに若草色のドレスが見えた。
「いたわ」ユナはささやく。「さあ、行って」
 ヒューディはうなずき、ユナは手を離して彼を送りだす。
 そこへ、胸に青い竜の紋章をつけた金髪の男性が声をかけてきた。ルシナンの貴族だろうか。細身の美男子だ。ユナは、この人なら悪くないかもと誘いを受ける。
 ところが、彼は容姿を褒める言葉しか口にせず、ユナはすっかり退屈してしまった。曲が終わって解放され、ほっとしながらヒューディとレアナを探す。
 もう、なんでこんなに人が多いの?
 ユナは、ふたりを見つけるのに手一杯で、まわりで起こったざわめきに、まったく気づかなかった。突然長身の男に行く手をさえぎられ、眉をひそめる。
 ちょっと。邪魔しないでよ。むっとして見上げたとたん、息を呑んだ。
 目の前にいたのは、濃紺の上下に身を包んだルドウィン王子。ゆったりとユナを見おろし、よく響くテノールでいう。
「どなたかお探しですか?」
 ユナは茫然と立ち尽くす。そんな、まさか……。
「またお会いしましたね」そういって、どこかいたずらっぽい笑みを浮かべたのは、まぎれもなく、先日、崖から落ちる寸前に救ってくれた、あの失礼な男。
 立派な身なりをして、一国の王子の名に恥じない洗練された物腰のこの男性が、あの薄汚い野蛮人と同じだなんて、いったい、そんなことがあるのだろうか?
「一曲踊っていただけますか?」彼は手をさしのべた。
 まわりの注目を浴びて踊っているあいだも、ユナは悪い夢でも見ているようだった。
「この前はなぜあんなところに? しかも、あんな姿で」
「国の平和を守るのが王室の務めだ。よからぬうわさを聞けば、どこにでも行くよ」
「そうなの?」そう口にして、すぐいいそえる。「殿下」
 彼は笑った。
「この前のように元気よく話せよ。敬称も敬語も抜きで」
 ユナはほおを染める。
「まだ名前を聞いていなかったね?」
「ユリディケ」彼女はこたえた。「みんなはユナって呼ぶわ。ユリディケじゃ、なんだか古風でしょ?」
「いや」とび色の瞳があたたかくユナを見つめる。「きれいな名前だ」
「そう?」そんなふうにいわれたのは初めてだった。「父の夢の中にね、きらきらと輝く女の人が出てきて、告げたんですって。生まれてくる子にユリディケと名づけなさいって」
 ユナには父の記憶はない。この話は、母から聞いて、胸の奥に大切にしまっておいたもので、誰にも話したことがなかった。そのことに気づいて、ユナははっと口をつぐむ。
「十七歳だったんだね」
「今日が誕生日なの」
「そうか。おめでとう。もっと幼いかと思っていたよ」
「あなただって大人には思えなかったわ。ましてや王子だなんて」
「おちびちゃん、きみは今日が成人式だが、こっちは、あと数年もすれば二度成人式を迎えるようなものなんだよ。あれから少しは年上の者のいうことを聞くようになったかい?」
「尊敬できる人のいうことなら、いつだって聞いているわ」
「尊敬という言葉の意味も、ちゃんと学ぶんだな。空を飛ぶ練習だけじゃなくてね」彼はにやりとする。「楽しい夜を過ごせるよう祈っているよ」
 
「ルドウィンさま」ユナのそばを離れた王子に、若い側近が駆け寄った。馬を飛ばしてきたところで、肩で息をしている。「国境の街で、例の少年から織物を買った女が見つかりました。宿屋の女主人で、少年はクレナに行くといっていたと証言しています」
「クレナに?」
「はい。彼女が織物を買ったのは、事件当日の正午前。少年は小柄で、茶色の髪にはしばみ色の瞳。年の頃は十五から十七歳。これまでの証言と完全に一致しています」
 
 空の色は濃さを増し、黄昏の光は、わずか西の空に名残をとどめるだけとなった。あたりには、かがり火やろうそく、カンテラのあかりが金色に燃え、おりから昇ってきた満月が、白樺の木立を通して、神秘的な光を注いでいる。
 次々と降ってくる誘いをかわしながら、ユナはレアナを探していた。たったいまあったことを話さなくては。レアナならきっと一緒に笑い飛ばすか、やさしくなだめてくれる。
 と、フロアーの端でぽつりと手すりによりかかり、ぼんやりと白樺の木立を見つめる人影が目に入った。
 ヒューディ……。
 レアナと踊れなかったのだろうか。ユナは胸を痛める。
 そのとき、もしもパーティのけんそうがなかったら、白樺の木立を駆けてくる荒々しい蹄の音に気がついたに違いない。けれど、その熱狂の渦の中では、楽師たちの奏でる曲と、若者たちが陽気に足を踏みならす音のほか、なにひとつ聞こえなかった。