水車小屋からの帰り道、ユナはふと、クレナの丘に行きたい誘惑に駆られた。きっとオオユリの木は次々と大輪の花を咲かせ、虹色の蝶も舞っているだろう。
そのとき、鋭い口笛がヒューッと響いた。まさか||。
思わず足を止め、振り返る。ローレアで水色に染まる丘の上、緑のベスト姿の小柄な少年が、大きく手を振っているのが見えた。
「ユナ!」少年は丘を駆けおり、ベストと同じ色のスカーフが鮮やかに風になびく。
「ヒューディ!」ユナも走り出した。
「ユナ! きみだと思った」
変わらぬあたたかな抱擁に、胸がいっぱいになる。
「元気だった、ヒューディ?」
「ああ。きみは?」
「わたしも」ユナは身体を離し、
「七年ぶりだよ」
「そんなになるのね……。ひとりで帰ってきたの? 手紙をくれればよかったのに」
ヒューディは幼なじみ。ちょっとシャイで、家族や友だち思いで、兄弟のような存在だった。ルシナンで織物工房を営む母方の実家に引っ越したきり、ずっと会っていなかったのに、こうしていると、つい昨日も一緒にいたような気がしてくる。
「みなさんお元気?」
「両親は変わりないよ。妹は相変わらず生意気で、いまは結婚の準備で大騒動だ」
「結婚?」ユナは目を丸くする。
「秋に十六になったらね。その殊勝な相手はうちの職人で、将来は妹と工房を継ぐんだ」
「ほんと? おめでとう!」つと言葉を切り、「じゃあ||あなたは?」
「晴れて自由の身さ」ヒューディはすがすがしい笑顔でこたえた。「それで、戻ってこようと思ったんだ」
「え? ウォルダナに?」
「都の王立音楽院に受かればの話だけど」
「王立音楽院?」ユナはすっかり驚いて、ばかみたいな質問をする。「なんで?」
「その||古楽器の復元にたずさわりたくて」
はにかんだ顔を見て、ふと思い出した。ヒューディは歌や楽器が上手で、音楽の時間だけは先生に褒められていたっけ。
「ウォルダナの王立音楽院では、旧世界にあった幻の鍵盤楽器を復元しようとしているんだ。その音は、澄んだ星空のもと、夜の湖に響くかのようだと伝えられているけれど、二千年前、職人も工房もすべて失われて、完全な形で残っているものは一台もない。その楽器を、現代によみがえらせようとしているんだよ。すごいことだと思わないか?」
話すうちに、榛色の瞳がきらきらと輝いてくる。幻の鍵盤楽器など聞いたこともなかったが、彼の情熱が伝わってきて、ユナまでわくわくしてきた。
「ただ、音楽院に入るにはウォルダナの国籍が必要でさ。まずはそれを申請しないと」
「ウォルダナの国籍? なんでそんなものがいるの?」
「さあ。たぶん、王立音楽院には門外不出の技術があるんじゃないかな」
「そうなの? ウォルダナって案外けちな国ね。でも、きっとだいじょうぶよ。ここで生まれて、ここで育ったんだから」ユナはにっこりする。「そうだ、レアナも都に行くのよ」
「||レアナも?」
「そう。去年から村の学校で教えていて、学費がたまったら大学を受けるの」すっと真剣な表情になり、「伯父さんたちには内緒よ」
「わかった」
「でもヒューディ、ルシナンからたったひとりで来るなんて! 国境では盗賊がでるっていうけど、危ない目に遭わなかった?」
そのとき、厚い雲が太陽を隠し、あたりが
「いや||なにもなかったよ。時々、愛馬が恋しくなったけどね。妹にせがまれて、結婚祝いに置いてきたんだ。あいつ、あの馬にぞっこんでさ。きっと新郎より大事にするよ」
「イルナ伯母さん! イルナ伯母さん! 誰がきたと思う?」
勢いよく扉を開けるユナのうしろで、ヒューディはあたりを見まわす。
青い屋根のささやかな家は、記憶にあるより小さかった。けれど、忘れな草とすみれ、ローレアの花が咲き乱れる庭を見守るように囲む、
「なんでしょう、騒々しい」イルナがエプロンで手を拭き拭きあらわれた。
「イルナおばさん、お久しぶりです」
はっと息を呑むと、イルナは、遠慮がちに歩み寄ったヒューディを、ぎゅっと抱きしめた。それから、ゆっくりと身体を離して彼を見つめる。その瞳が、みるみるうるんだ。
やわらかな陽が注ぐ部屋。イルナの
イルナは、この七年のあいだに村で起こった悲喜こもごもを語ってくれた。小さな村にも、思いのほかいろいろあったが、幼いころよく診てもらった老医師の訃報には、ことさら胸が痛んだ。ひとり暮らしで、釣りと酒をこよなく愛する先生は、前日までぴんぴんして、患者相手に冗談を飛ばしていたという。
「お気の毒に……。それじゃ、診療所は?」
「村長のつてで、王立病院から新しい先生がいらしたの。音楽がお好きだから、きっと話があうわ」
「そうだ、ひとり息子のバドは、都にいるのよ。王立大学の医大生」
ユナがそういったとき、表から足音が聞こえてきた。妖精のような軽やかな足取り。
心臓が大きくドキンと打つ。幾度となく聞いて、記憶にくっきり刻まれた音||。
玄関の扉が開き、レアナが入ってきた。彼に気づいて足を止める。
「ヒューディ!」
「レアナ……」ヒューディは立ち上がる。
彼女はこの七年ですっかり変わっていた。顔中に散っていたそばかすはほとんど消え、そのために、象牙のような顔色が引き立ち、どこか
立ち尽くすヒューディに駆け寄ると、レアナは両肩に手を掛けて背伸びをし、子どものころそうしたように、ほおにキスをする。そのほおが、燃えるように熱くなった。
夕方帰ってきたロデスも、ヒューディを温かく迎えてくれた。だが、その日彼が持ち帰った知らせは、久々の再会にふさわしいものではなかった。
「テタイアの内戦で、王立軍の一部が反乱側に寝返った」
ロデスは村の郵便局長で、彼のもとには都から最新の情報が入ってくる。ヒューディの心はざわめいた。テタイアは、この最果ての国にとっては遠い国だが、広大な領土を持つルシナンにとっては、西に国境を接する隣国だ。
内戦は、王立軍の精鋭、第一騎兵師団を率いるイナン王子が
「なんてことかしら」イルナがいった。「オオユリの花が咲く年には、やっぱり||」
「イルナ」ロデスがさえぎる。「テタイア国民が賢明な判断を下し、内戦がこれ以上大きくならないよう願おう。ところでヒューディ、レアナと同い年で誕生日も近かったね?」
「ええ。レアナの半月あとです」
「ということは、十七の成人は迎えているわけだ。ユナはちょうど、クレナのダンスパーティの日が十七歳の誕生日だが、今年村で成人を迎えるのは、我が家のふたりだけだ。一緒に行ってもらえれば大いに心強い。明日、国籍の件と合わせて、村長に話してみるよ」
「ほんとですか?」気持ちがぱっと明るくなる。「ありがとうございます」
クレナのダンス・パーティは、春分の日のあと、最初の満月の夜に行われるクレナ地方の伝統行事で、その日までに新たに十七歳の誕生日を迎えた男女が招待される。王室からも毎年誰かが臨席し、クレナの若者にとっては、一生に一度の晴れ舞台だ。
「わあ、素敵!」
ユナがいい、レアナも笑顔で彼を見たので、ヒューディは思わずどぎまぎした。
「今年はルドウィン殿下がご臨席ね」イルナがいう。「そういえば、殿下は王立音楽院の理事長をされていなかった?」
「ああ、そうだったな」とロデス。
「ほんと?」とユナ。「ヒューディ、国籍のこと
「ユナ。王子さまのことを、そんなに軽々しくいうものじゃありません」
「イルナ伯母さん、ルドウィン王子は気さくな人って評判よ。かたいこといわないって。恋の噂はたくさんあっても、三十近いのにいまだ独身。すっごい遊び人だったりして」
「ユナ!」
「だいじょうぶよ、伯母さん。本人の前ではいわないから」ユナはにっこりした。「それよりヒューディと一緒に行けるなんて最高!きっと忘れられない夜になるわね」
第4章(2 / 2)に栞をはさみました。