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 ユナは見知らぬ森を歩いていた。
 夜明け前の青い世界。地上近くを、霧がゆっくりと流れている。見あげると、透けるような葉を通して、名残なごりの星々が瞬いている。
 やわらかな草の感触に、ユナは足もとに目を落とす。霧が流れるあいま、素足の指先が見えた。身にまとっているのは、ひざ丈の白い古風なローブ。そのローブも、ユナの身体も霧に濡れ、淡い光を帯びている。
 どこかで春歌鳥はるうたどりが歌い、それから、鳥たちのコーラスが始まった。
 ユナは足を緩める。誰かが後ろから歩いてくる。誰か、とても大切な人が。愛おしさに胸が痛む。だけど、いったい誰だったろう?
 ユナは振り返る。
 その瞬間、真っ白な霧がすべてをおおい、なにもかもがとけるように消えていった……。
 
 ユナは目を覚ました。レースのカーテンから朝の光が降りそそぎ、窓辺のサンザシでは春歌鳥が高らかに歌っている。
 ユナは瞬きした。夢を見ていた。
 子どものころ何度も見た夢。いつも見知らぬ森にいて、いつも誰かが後ろから歩いてくる夢。そして、振り向いたとたん、なにもかもが霧のなかに消えてしまう……。
 何年も見ないで忘れていたのに、どうしていまごろまた見たのだろう。
 ユナは目をこすり、隣の寝台を見る。レアナの姿はなかった。きっと馬小屋だ。
 馬の世話はユナの仕事なのに、彼女が寝ていると、いつも代わりにやってくれる。そして、ごめんねとあやまるユナに、馬は好きだからかまわないといい、ユナを甘やかしてと文句をいう伯母には、わたしの方が半年お姉さんなのだからと、明るく笑うのだった。 
 ユナはため息をもらす。
 レアナが都の大学に行ったら、寂しくなるのは、生徒よりわたしの方だ。
 
 その午後、ユナは水車小屋に行き、いつものあらきの粉を頼んだ。
「わかった。あとで届けるよ」パスターさんは笑顔でこたえ、奥の住まいに呼びかける。「セイル! ユナだよ!」
 パタパタと小さな足音がして、愛くるしい女の子があらわれ、ユナに飛びついてきた。水車が陽気な音を立てて回るなか、ふたりはのんびり川辺を歩き、陽だまりに座る。
「ユナ。ランドリア王子とエレタナ王女のお話をして」
「いいわよ」
 ランドリアとエレタナの伝説はセイルのお気に入り。ユナは話し始め、セイルはいつものようにじっと聴き入る。
「それは遠い遠い昔のこと。ダイロスという王子がいました。金色の髪に海のように青い瞳の、たいそう美しい王子でした。
 けれども、王子の心は暗く、密かに黒魔術をあやつるようになりました。そして、常春とこはるのフィーンの国から、大いなるダイヤモンドを奪ったのです。それはフィーンの輝く命を守る聖なる石で、人の世界に渡るとわざわいを呼ぶといわれていました。
 ダイロスは怖れませんでした。兄を殺して王の座を奪うと、大いなるダイヤモンドで輝く光の剣を、特別にきたえた銀で、底知れぬ暗黒をたたえた影の剣を造り、その魔力で、自分に忠誠を誓う者に永遠の命を与えたのです。そうして、灰色のマントに身を包んだ不死身の騎士が誕生しました。彼らは灰色の騎士と呼ばれ、ダイロスの永遠のしもべとして||
「ユナ」不意に、セイルがおびえたように森の方をさした。「そのひとたちそこにいる」
「え?」ユナはそちらを見る。
 きらめく川の向こう、色とりどりの新芽に染まる森には、風が吹いているだけだ。
「誰もいないわ、セイル。怖がらなくていいのよ。これは、うんと昔の話なんだから」
「でも、ほんとにそこにいたよ」セイルは泣きそうになる。
「そっか。きっと幻を見たんだ」
「まぼろし?」
「そう。見えたような気がするだけで、本当はいないもののことよ。ほら、もういない」
 セイルは、それでもまだ不安げに森に目をやった。ユナは彼女を抱き寄せる。
「セイル。もしもそんな奴が現れたら、わたしがセイルを守ってあげる」
「ほんと?」
「ほんとよ。約束する」
 セイルは笑顔になった。ユナは続ける。
「さて。永遠の命にかれて僕となる者は、あとを絶ちませんでした。灰色の騎士は夜ごと増え、恐るべき不死の軍隊となり、ダイロスは戦争を始めました。全世界を支配しようという野望を抱いていたのです。灰色の騎士は、心臓を貫かれない限り決して死ぬことはありません。平和だった隣の国は、またたくまに征服され、世界を暗い影が覆いました。
 そのとき、フィーンの預言者がいいました。
『希望を失ってはなりません。いまに必ず光の剣を手にして、影の力を止める者が現れるでしょう』
 その言葉は、ダイロスの耳にも届きました。ダイロスは預言を恐れ、光の剣を、迷路のような宮殿の奥深くに隠し、選りすぐった九人の騎士に守らせました。彼らは死の従者と呼ばれ、どんな剣も貫くことのできない魔法のよろいまとっていました。
 そうして光の剣は封印され、ダイロスはもはや、不死身の騎士を生みだすことはできなくなりました。とはいえ、その灰色の軍隊は、すでに途方もなく大きくなっていたのです。多くの勇者が、光の剣を探しに旅立ちました。しかし、戻ってくる者はいませんでした。
 フィーンの王は、人の国々の代表を王宮に招いて、大会議を開きました。
 その最初のばんさん会でのこと。人間の王子ランドリアは、フィーンの王女エレタナと、ひとめで恋に落ちました。けれども、限りある命の人間と、永遠の命を持つフィーンの恋は許されるはずもなく、ふたりは、ある夜密かに人の世界へ逃げました。
 やがてふたりは、人里離れた森にたどり着き、ひとりの女の子をもうけました。女の子はルシタナと名づけられ、輝くばかりの美しい娘に成長しました。母親の紫の瞳と、父親の鉄のような意志を受け継ぎ、そのほほえみはのつぼみが花開いたようでした。
 戦争が激しさを増すなか、ルシタナは二十歳の誕生日を迎えました。そして、まさにその日、彼女こそが、預言にうたわれた者だと知らされたのです」
 セイルは、まじろぎもせずに聴いていた。その瞳は、遥かな世界を見つめるようだ。
「ルシタナは、光の剣を求めて旅立ちました。その行く手には、悲しい最期が待っていました。光の剣を見つけながらも、あとを追ってきた死の従者に殺されてしまったのです。
 怒りに燃えたランドリア王子は、ダイロスとの一騎討ちにのぞみました。すさまじい闘いの末、ランドリアは命を落とし、ダイロスもまた、息絶えました。死の間際に、自分はいつか必ず甦り、そのときこそ、全世界に永遠に君臨するといい残して……。
 それは、ダイロスの呪いだったのでしょうか。それとも、地上の争いに対する神の怒りだったのでしょうか。世界は死の吹雪に包まれ、不死の騎士だちが亡霊のようにさまようなか、すべての生きとし生けるものが死に絶えました。
 ただ、わずかですが、フィーンの国に逃れた人々もいました。エレタナもその故郷に戻りました。彼女の悲しみはどれほど深かったでしょう。愛する夫も娘も失い、絶望のなか、果てしない歳月を生きてゆかなければならなかったのです。
 そんなエレタナに、フィーンの預言者がいいました。
『二千年ののち、ダイロスはこの世に甦るでしょう。そして、そのときには必ずやルシタナも甦り、今度こそ光の剣を手にして、影の力を止めるでしょう』
 ですから、エレタナは今も待ち続けているのです。娘にふたたびめぐり逢える日を」
 話が終わっても、セイルは遠い目をして黙っていた。それから、つとユナを見上げる。
「にせんねんののちって、いつのこと?」
 セイルがそんなことを聞くのは初めてだった。灰色の騎士の幻を見たせいだろうか。
 伯母の話では、ちょうど四十年前がその年にあたるというが、もちろんただの昔話だ。そこで、幼いセイルを怖がらせないよう、ユナは明るくこたえる。
「それはね、まだずっと先のことよ。いまからずーっと先のこと。だから、安心して」
「じゃあ」セイルは瞳をかげらせ、「エレタナはまだルシタナにあえないんだね……」
 思いがけない言葉だった。ユナはなんだか胸がつまり、ただぎゅっとセイルを抱きしめた。