ユナは、何度も風圧で倒されながら、光の剣を放すまいとしっかりと握りしめる。グルバダがリーを狙い撃ちにしているのがわかったが、どうすることもできない。
 轟音。飛んでくる破片||
 リーはだいじょうぶだろうか。ラシルは?ヨルセイスは?
 顔を上げ、彼らの姿を探そうとしたとき、よく通る声が響いた。
「ユリディケ」
 ユナは、その声に操られるように、ゆっくりと立ち上がる。
 影の剣を手に、水盤の前からグルバダが歩いてきた。
 青い瞳のまわりは充血で真っ赤に染まり、額や頬には黒い跡がくっきりと残っている。こめかみと乱れた金髪にも、劇薬を洗い流した跡があり、黒い染みが飛び散った純白の衣装を風になびかせて、堂々と近づいてくるその姿には、圧倒的な凄みがあった。
 宮殿前広場から蹄の音が響いてくるなか、水盤の後ろにはイーラス大佐が控え、その左手には、ずらりと並んだ弓兵がユナに向かって弓を構えている。そして、その水盤の右手では、ルドウィンとヒューディが、大勢の衛兵を相手に厳しい戦いを強いられていた。
 ユナは、ふるえる両手で光の剣を握り、切っ先をグルバダに向けた。
 弓兵たちが、きりりと弓を引き絞る。
「待て」グルバダは足を止め、軽く左手を上げた。
 弓がいっせいに下ろされ、表からは、厚いマントがはためく音や、重い馬具の金属音、くぐもったような息遣いが聞こえてくる。それから、乗り手が次々と地面に降り立つ音が||
「よい度胸だ」グルバダがいう。「このに及んで、わたしから逃れられると思うとは」
 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、拍車を鳴らして正面玄関を駆け上がるちょうの音が響いてきた。
 
 リーはぼんやりと目を開ける。全身がひどく痛んだ。
 彫刻を施した高い天井。身体の下には冷たい床。すぐそばにはヨルセイスが倒れている。長い金髪がかかった顔は蒼白そうはくで、死んでいるかのように動かない。
 彼の方に手を伸ばそうとしたとき、左手首に鋭い痛みが走った。三粒のダイヤモンドが警告するように強い光を放つ。
 くぐもったような息遣い。ガチャガチャと拍車を鳴らし、いくつもの長靴が正面玄関を駆け上がってくる音||
 リーは飛び起きる。
 円柱の陰から灰色の騎士がなだれ込んできた。
 一人がリーに目を留め、剣を抜いて猛然と駆けてくる。
「リー!」ラシルの悲鳴が聞こえた。
 次の瞬間、鈍い音がして、宙で灰色の動きが止まる。その胸もとを、一本の矢が貫いていた。
 リーははっとして振り返る。
 南北両側のアーチから、長い金髪をなびかせたフィーンの戦士が現れ、瀟洒しょうしゃな弓を手に次々と矢を放ち始めた。
 
 グルバダが泰然たいぜんと構えるなか、灰色たちは北寄りの円柱のあいだからなだれ込み、ユナの後ろを駆けていった。
 イーラス大佐が弓矢部隊の指揮をり、ドロテ兵と灰色の騎士、風のように現れたフィーンの戦士によって、大広間は壮絶な戦場と化す。
 ユナは、南のアーチから飛び込んできた戦士の中に、一瞬、デューの姿を見た気がした。だが、敵味方入り乱れるなか、あっというまに見失う。気のせいだったか。
「見上げた男だ。思ったより早かった」グルバダがいい、ユナを見てにやりとする。「そなたの気のせいではない」
 心を読まれた||。ユナはさっと守りを固める。
「案ずるな。あの男は生かしておくよういってある。再会の楽しみは、あとにとっておかねばな」グルバダの笑みが深くなる。「されど、あの男にそなたを救うことはできぬ。そして、ほかの誰にも」
 グルバダは影の剣を地に向け、すっと目を閉じた。
 不意に、水の中にいるかのように周囲の光景が揺らぎ、背景のように暗く沈む。戦闘の喧騒けんそうも、くぐもったように遠くなる。すべては幻で、世界には、ユナとグルバダのふたりしか存在しないかのように。
 グルバダが目を開けた。先ほどまでの充血は嘘のように消え、その瞳は、いつか見た南アルディス海のように青く、吸い込まれそうなほど美しい。
「さて」グルバダはユナを見る。「その剣を返してもらおうか」
 両手で握った光の剣が、ずっしりと重くなった。
 
「リー!」
 次々と飛び込んでくる灰色をフィーンの矢が迎え撃つなか、ラシルが駆け寄ってきた。
「ラシル!」姉を抱きとめながら、リーはユナの姿を探す。
 なだれこんでくる灰色たちに視界をさえぎられているが、あの向こうにグルバダといるのがわかった。
 ただならぬ気配が立ち込めるなか、光の剣の波動が左手首のダイヤモンドを通して感じられる。ユナの存在も感じられた。強い影の力にとらわれ、追い詰められているのが伝わってくる。
 リーはくちびるを噛んだ。すぐにでも飛んでいきたいけど、この状況では無理だ。
 彼はヨルセイスを見下ろす。胸もとから、微かな光がのぞいている。フィーンの輝きを結晶に呼び込むという、星水晶のペンダント。ゆうべは淡い光を放って神秘的に輝いていたのに、その光はいま、消え入りそうに弱い。
「すみに運ぼう」リーはいい、ラシルはうなずく。
 ヨルセイスの身体は冷たく、心臓の音もほとんど聞こえない。
 彫像の陰まで引きずって、背中の矢筒を外し、そっと横たえる。革の矢筒が台座に激突した衝撃をやわらげたに違いない。腰に帯びた短剣と、長剣を失った空のさやが、大理石の床の上で音を立てた。
 目立った傷や骨折はないが、ヨルセイスは深い昏睡こんすい状態にいるようだった。近くに彼の弓が落ちており、ラシルが持ってきて、お守りのようにかたわらに置く。
「フィーンは簡単には死なないよね?」
「たぶん」
 けど、目を覚ますだろうか?
 リーは、彼の胸もとの星水晶と、左手首のダイヤモンドの声に耳を傾けながら、左手を星水晶の上に重ねた。
 石と石とがさかんにささやきを交わしている。ラシルが固唾かたずを呑んで見守るなか、星水晶が淡い光を放って、息づくようにきらめき始めた。
 
 グルバダは、影の剣を手に一歩一歩近づいてきた。
 真っ青な瞳にとらえられたまま、ユナは灰色たちの流れを避け、正面玄関のなかほどへと後ずさりする。濃い空気が身体中にまとわりつき、水の中を歩いているかのようだ。
 グルバダに向けた光の剣は、手の中でいっそう重くなり、彼が手にする影の剣とのあいだに、不可思議な力が働いているのが、ありありと感じられた。あたかも、剣と剣とが断ちがたい絆で結ばれて、強くかれ合っているかのように。
 ユナはぞっとして、すぐにその感覚を否定する。
 これは、グルバダのものではない。フィーンの聖なる石だ。昔も今も。そして、これからも||
 目の前のダイヤモンドの刀身に、夢で見た大きな六角すいをした姿が重なる。闇のなか、円形の台座の上で、呼吸するかのように青い光を放っていた透明な石が。原初の光を秘め、すべての善きものであり、美しきものであった聖なるダイヤモンドが。
 それから、黒いローブをまとった男が見えた。手にした鋭利な石が振りおろされる。
 まばゆい閃光せんこう。ダイヤモンドの断末魔だんまつまの悲鳴||
 悲しみが、痛いほど伝わってきた。そう。大いなるダイヤモンドは、こんなふうに剣にすべきではなかった。白銀の川を越えたフィーンの世界で、永遠に光を放つべきだったのだ。
「こんなこと、なにもかも間違ってる!」思わず声を上げていた。
 そのとたん、影の剣が電光せっの勢いで払われる。
 強い衝撃が全身を貫き、ユナは、正面玄関中央の円柱のあいだから、半円形の空間へ飛ばされた。体験したことのない激痛に、息が止まる。それでも、光の剣だけはしっかりと握りしめていた。
 宮殿前広場から駆け上がってきた灰色の騎士たちが、ユナの右手を幻のように走り抜けてゆく。その姿は、あたかもそこに存在していないかのようにぼんやりと見え、拍車の音も長靴の音も、遠くくぐもって聞こえる。
 そんななか、ユナの耳に、ひとつの靴音が響いてきた。
 ユナはふらふらと立ち上がる。
 すべてが陽炎かげろうのように揺らぐ世界。純白の衣装をなびかせて、グルバダが王者のごとく歩いてきた。