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「ヨルセイス……」
 誰かが呼ぶ声に、ヨルセイスは目を開ける。
 濃いとび色の瞳が、彼をのぞきこんでいた。隣には、夏の空を思わせる青い瞳。リーとラシル||
 叫び声や弦の鳴る音、剣と剣が交わる音が耳に飛び込んできて、一気に記憶がよみがえる。ヨルセイスは、がばっと身を起こした。全身に激痛が走るなか、一瞬で状況を把握する。
 彼がいるのは、大広間の北東の角、獣の彫像の下。右手のアーチは瓦礫がれきの山と化し、あたり一帯ですさまじい戦闘が繰り広げられていたが、そこは瓦礫と彫像の台座のあいだで、ちょうど死角になっている。かたわらには、彼の弓が置かれていた。
 ヨルセイスの瞳は、その弓の先、フィーンの矢に倒れた仲間を踏み越えてゆく灰色たちの向こう、暗い影が霧のように降りているのをとらえる。
 その霧のなか、ユナとグルバダの姿がかすんで見えた。そこだけ空気の密度が違う。
 影の力がユナを封じ込めているのがわかった。おそらく、フィーンの矢も剣も通さぬ強い魔力だ。みぞおちが締めつけられる。解くすべはあるのだろうか。
 だが、逡巡しゅんじゅんしている暇はなかった。ユナを救うにはまず、あの灰色たちを突破しなくては。
「だいじょうぶですか?」ラシルが心配そうに彼を見る。
「ええ。ありがとう」彼はうなずく。「あなたがたは、ここにいて」
 そういって立ち上がったときだった。影の剣が咆哮ほうこうを上げ、暗い波動の余波が灰色の流れを越えて押し寄せてきた。
 ヨルセイスは、はっと目をらす。ユナの姿は消え、グルバダが円柱の方へ歩いてゆくのが見えた。
 ユナを外に追いやり、孤立させるつもりだ||
「ヨルセイス」
 振り向くと、リーが真剣なまなざしで彼を見上げていた。
「この台座の裏に、隠し扉がある。地下の洞窟につながってて、正面玄関の両側に抜ける通路に出るんだ。灰色たちは全員こっちの北側から飛び込んでくる。南の通用口に抜ければ、きっと外に出られるよ」
 
 グルバダは、ユナがどうにか立ち上がるのを、面白そうに眺めながら、影の剣を手に、広い半円形の空間のなかほどを悠然ゆうぜんと歩いてきた。銀の刀身が、宇宙の暗黒を映すように暗い光を帯びている。
 ユナはふらつく身体を支え、光の剣を向ける。いたるところが痛み、剣を握る両手は、はためにもわかるほど震えている。
「その剣を手にしたところで、そなたにはなにもできぬ」
 古代彫刻のようなグルバダの顔に、なかば哀れむような、なかば勝ち誇ったような笑みが浮かんだ。
「大いなるダイヤモンドは、真の価値を知る者の手にあるべきだ」
「その通りよ」ユナはこたえ、まっすぐに彼を見つめた。「でも、それはあなたじゃない」
 視線と視線が激しくぶつかる。
 霧がうっすらと降りたようなこの空間のなせるわざか、あるいはユナの錯覚か、グルバダの射るようなまなざしが、一瞬かすかに揺れた気がした。ユナは目を細め、静かにいう。
「なにを恐れているの?」
 真っ青な瞳に怒りがひらめいた。
「わたしはなにものをも怖れぬ」
 銀の刀身がきらめき、見えない力が空気を切り裂く。ユナの身体は宙を舞い、宮殿前広場へ続くゆるやかな階段に叩きつけられた。その拍子に、光の剣が手を離れる。
 身体が階段で弾み、地面に向かって落ちるあいだに、ダイヤモンドの刀身が、輝く軌跡を描きながら落ちてゆくのが見えた。ユナは夢中で手を伸ばす。
 その手の中に、銀の柄が飛び込んできた。つかむと同時に、身体が地面を打つ。
 衝撃で意識が遠のきそうになったそのとき、なにかがユナの注意を引いた。
 すべてが幻のように揺らぐなか、一騎の灰色が浮かび上がる。馬にまたがっていても、長身なのが見てとれた。
 氷のように冷たい手の感触が、まざまざとよみがえる。
 彼女をさらい、漆黒しっこくの馬で運んだ灰色。河畔で休んだとき、なにを聞いてもこたえなかった男。
 ||人間だったときのこと覚えてる?||
 ||名前は?||
 ||家族はいたの?||
 よろめきながら立ち上がり、その灰色が仲間の指揮を執っていることに気がついた。無秩序に大広間へなだれこんでいるように見えた灰色たちは、彼の指揮のもとで、正面玄関を駆け上がってゆく。
 宮殿前広場を見渡し、絶句した。
 漆黒の馬にまたがった灰色が次々と駆けつけ、広場の後方には、乗り捨てられた馬たちが延々とたたずんでいる。すべてが霧を通したようにぼんやりとしていたが、それでも、その光景はユナを圧倒した。
「壮観であろう?」
 ユナは振り向く。
 グルバダが階段の上にたたずみ、彼女を見下ろしていた。
「しょせんぜいぜい。いかにあの男やフィーンがすぐれた射手であろうと、いずれ矢は尽き、剣も折れよう。そなたの仲間には、つゆほどの勝ち目もない」
 あたかも白昼夢を見るかのように、ユナの目の前に、デューとフィーンの戦士が、大勢の敵を相手に絶望的な戦いを強いられている光景が広がった。ルドウィンとヒューディの姿も見える。
「マレンの荒野でも、連合軍の運命は風前ふうぜん灯火ともしび」そういって遠くを見やったあと、グルバダはユナに目を戻していいそえる。「そして、さらに遠い土地でも」
 ユナは眉をひそめる。
「よもやそなたは、出陣を待つわが騎士が、このギルフォスで待機していただけだとは思っていまい」
 みぞおちに、冷たいものが広がってゆく。
「ドロテ軍の北の本拠地からも、すでに何万という大軍が各国に向かっている。じきに、最果ての地ウォルダナにも到達しよう」
「そんな||
「彼らは、そなたの故国で、蹂躙じゅうりんの限りを尽くすであろうな」
 ローレアの咲く丘。白樺の森ときらめく小川。黄昏たそがれに映えるクレナの遺跡。イルナ伯母さん。ロデス伯父さん。そしてレアナ||
 グルバダはユナの瞳の奥をじっと見つめた。
「なるほど、美しいところだ」彼はほほえみ、おうぎ形に広がるゆるやかな階段を、ゆっくりと降りてくる。「伯父と伯母……それにレアナ……従姉か……。よさそうな娘だ。そなたとは、深いゆかりがあるとみえる」
 ユナは心の守りを固め、あとずさりした。
「ユリディケ」グルバダは、ほとんど優しいともいえる表情でユナを見る。「素直にわたしの僕となり、この不毛な戦いを終わりにせぬか?」
 ユナは黙って見つめ返す。
「さきほど、そなたもはっきりと感じたはずだ。二本の剣は、切っても切れぬ深いきずなで結ばれていると」
 心が激しく揺れた。剣を持つ手を通して、それはいまも、ありありと感じられる。どれほど認めまいとしても、否定することはできなかった。光の剣と影の剣は、呪われた運命で結ばれ、互いを強く求めている||
「さあ。剣を差しだすがよい」真っ青な瞳がユナを見つめ、甘い声がささやく。「そうすれば、そなたの愛する者には、特別なを与えよう……」
 
 ヨルセイスは弓をたずさえ、灰色のがいから急いで調達した矢と、ラシルが見つけてくれた剣を帯び、リーの背中を追っていた。リーは複雑に入り組んだ洞窟を、かかとに翼が生えたかのように駆けてゆく。
 ここは、エレドゥ峡谷からこのギルフォスまで続く壮大な洞窟。
 昨日、マレンの荒野からこの洞窟に降り立ったとき、ヨルセイスには、ルドウィンは生きているという強い予感があった。エレタナのリュールをかかげて闇をさまよう友の姿がずっと心に浮かんでいたのだ。ヨルセイスはほどなく彼を見つけ、ともに迷宮にたどりついたあと、もうひとり、古き友を探したのだった。
 難しくはなかった。友は、かつて星のしずくと呼ばれたダイヤモンドのブレスレットを身につけていたから。
 いま、その三粒のダイヤモンドはリーの左手首で青く輝き、暗闇できらめく軌跡を描いてヨルセイスを導いている。
「もうすぐ通路だよ!」リーが振り返る。
 勾配こうばいが急になり、風の匂いがした。