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 フィーンの矢がヒューディの左手の兵士を射抜いたとき、リーはすでに彫像の台座まで滑り降りていた。そして、次の矢が右手の兵士を射抜いたときには、衛兵たちが何が起こっているのか気がつくより早く、倒れた兵士の上に飛び降りていた。
 水盤の方でグルバダの叫び声が響き、円陣が騒然とする。ラシルだ。ラシルが動いてくれたのだ。
 あの漆黒しっこくの液体を目に浴びれば、一時的に視力が奪われ、激痛に意識を失う。しかし、相手はグルバダ。動きを封じられる時間は、さほど長くはないだろう。
 リーはヒューディの縄を切る。
「行こう!」
 ヒューディは、一瞬たりとも時間を無駄にはしなかった。両手が自由になるやいなや、倒れた兵士の短剣を奪い、リーと並んで走り始める。
「逃がすな!」
 後ろで衛兵が叫び、ヨルセイスの矢が風を切ってふたりの頭上を飛んでゆく。すさまじい連射。並行して円陣の側近たちも倒してゆく。まるで射手が何人もいるようだ。
 ヨルセイスには、昨夜初めて会った。
 真夜中の回廊。なんの気配も感じなかったのに、不意に、左手首のダイヤモンドが青い光を放ったかと思うと、リーは背後からとらえられ、彫像の奥に引きずり込まれていた。抵抗しかけて、すぐに力を抜いた。エレタナ王女の従兄だとささやく声には、不思議ななつかしさがあったから。
 振り返ると、永遠の歳月をたたえたような瞳がリーを見つめていた。
 そして、闇の中からもうひとりの男が現れた。リーは、彼もまた完璧に気配を消していたことに気がついた。
 いま、そのルドウィンは、黒装束くろしょうぞくを脱ぎ捨て、目のさめるような剣さばきで側近たちと戦っている。
 ユナが水盤に飛び乗り、光の剣を手に取るのが見えた。
 あたりが混乱状態に陥るなか、イーラス大佐がグルバダの上に身を投げだし、射手を討つよう怒鳴っている。かたわらにはブレン軍医。グルバダに応急処置を施している。
 ヨルセイスがその周りに立て続けに矢を射ち込んだ。巨大な水盤が盾になって、彼らに当たることはないが、へたに動けば命はないと警告するには充分だ。
 ラシルがユナに手を差し伸べ、ルドウィンが走れと叫ぶ。
「ラシル! ユナ!」リーも叫んだ。
「ユナ! 逃げろ!」ヒューディも声を上げる。
 ヨルセイスの矢が、円陣に向かう衛兵たちに降り注ぐなか、ユナが水盤から飛び降り、ラシルの手を取って走りだす。もう片方の手には、光の剣。ダイヤモンドの刀身が、青い軌跡を描いてきらめく。
 それに応えるように、リーの左手首でブレスレットが大きくさざめいた。
 
 翼のある獣の彫像の上に立ち、ヨルセイスは矢継ぎ早に矢を放っていた。
 円陣の側近たちを倒しつつ、リーとヒューディを援護しながら、円陣に向かう衛兵を次々と倒してゆく。背には大型の矢筒。三十六本の矢が瞬くまに減ってゆく。
 灰色が現れるのも、グルバダが息を吹き返すのも時間の問題だ。
 ヨルセイスはすでに、フィーンの鋭い聴覚で、迷宮の西側で待機していた灰色たちが、宮殿前広場へまわってくる音をとらえている。弓矢部隊が駆けつける音も聞こえてきた。
 一方、彼の心の瞳は、デューとワイス、そしてフィーンの精鋭が、洞窟から駆け上がってくる姿を映している。
 あと少し。あと少し持ちこたえれば||
 ユナとラシルが走りだし、リーたちが追いついた。
「こっちだよ!」
 リーが先頭に立ち、ヒューディがユナとラシルを先に行かせる。
 目指すは、ヨルセイスのすぐ右手のアーチ。北の壁面に並ぶ最も正面玄関寄りのアーチで、リーはそこから洞窟への抜け道へと皆を導こうとしているのだ。
 アーチの両側の衛兵は、すでに全員倒してあるが、円陣に駆けつけようとしていた衛兵が、急遽きゅうきょ方向転換をして、次々と向かってくる。
 ルドウィンは、巨漢きょかんの黒装束と、激しいつば り合いを繰り広げていたが、それに気づくと、渾身こんしんの力を込めて相手の剣を払い、猛然と駆けだした。
「娘を捕らえよ!」
 イーラス大佐が声を上げ、ヨルセイスは水盤の周りに矢を打ち込む。
 仰向けに倒された巨漢の黒装束が、ちょうの脇からナイフを抜いて、ルドウィンの背に向けて放った。
 ヨルセイスの矢が、その刃を弾き飛ばす。エレドゥ峡谷で死の従者を倒し、洞窟の崩壊を生き延びた友を、ここで失うわけにはいかない。
 先回りした衛兵が、リーの行く手をふさいだ。残る矢は七本。ヨルセイスは瞬時に先頭の一人を倒す。続く二名を倒すあいだに、ルドウィンは、左手から迫ってきた一団の前におどり出て、彼らを一手に引き受けていた。
 リーがナイフを構え、ユナがラシルを後ろにかばうなか、ヨルセイスは、さらに一人を射抜き、逃げ道を確保する。
「先に行ってて!」
 ヒューディが叫んでルドウィンの援護に走り、リーがふたたび先頭に立って走り出す。
 そのとき、円陣を挟んだ反対側、南の壁のアーチから弓矢部隊が飛び出してきた。
「射手を狙え!」イーラスの声。
「彫像の上だ!」隊長らしき兵士が叫ぶ。「射て!」
 ヨルセイスの全身に戦慄せんりつが走った。
 弓兵が彼に向かっていっせいに弓を構えたからではない。その瞬間、円陣から、あの男の強い気配が放たれたからだ。
 そして、声が響いた。
「どけ、イーラス!」
 弓兵たちの弦がうなる。
 ヨルセイスは水盤に向かって矢を放ち、彫像の翼から身を躍らせた。
 水盤の陰から、グルバダが一気に身を起こし、影の剣に手を伸ばす。同時に、ヨルセイスの矢が水中に射ち込まれ、水しぶきが上がった。
 彼の弓の威力をもってすれば、普通の剣なら水盤から弾き出される。だが、影の剣はびくともしなかった。床に降り立ったヨルセイスは、間髪を入れず次の矢を射る。その頭上で、彫像にいくつもの矢が射ち込まれた。
 円陣のグルバダは、ヨルセイスの矢の軌道を読み、流れるような動作で身をそらす。
 ヨルセイスは、最後の一矢を放った。
 あの男を倒せないのはわかっている。こちらが気配を解き放ち、姿を見せていればなおのこと。それでもヨルセイスが貴重な矢を使ったのは、自分に注意を引きつけておくためだ。
 矢が指先を離れると同時に弓を手放し、円陣のグルバダ目指して全速力で走る。
 グルバダは影の剣を手に取り、飛んでくる矢を見ることなく、さっと刀身をひらめかせてヨルセイスの矢を弾いた。金色の髪からは黒い液体がしたたり、両眼は真っ赤に染まって、瞳には氷のような炎が燃えている。
 ヨルセイスは走りながら剣を抜く。目と目が合った。
 突然、よどんだ水底にいるように、まわりの空気が重くなる。
 次の瞬間、影の剣がひらめいた。重い空気を切り裂いて、限りなく暗い波動がヨルセイスの心臓を直撃する。
 すさまじい衝撃||
 彼の身体は大きく宙を舞い、背中から彫像の台座に叩きつけられた。
 
 リーは走った。左手首のダイヤモンドから伝わる光に導かれるよう、最も正面玄関寄りのアーチを目指して。
 ヨルセイスとルドウィンには、なにがあってもユナを連れて先に逃げるよういわれている。
 グルバダが息を吹き返し、宮殿前広場に馬具の金属音とひづめの音が近づいてくるなか、時間はほとんど残されていない。灰色どもは、騎乗のまま宮殿内部に乗り入れることはないが、いまに漆黒の馬を乗り捨て、正面玄関前のゆるやかなアプローチを駆け上がってくるだろう。
 左手首に鋭い痛みが走り、グルバダが影の剣を手にしたのがわかった。
 振り返るな。リーは自分にいいきかせる。ユナとラシルもついてくる。アーチはもう目の前だ。
 けれど、背後で無言の咆哮ほうこうが放たれ、その直後、ヨルセイスが彫像の台座に叩きつけられるのを見て、リーの身体は凍りついた。
 次の瞬間、あらたな一撃が稲妻のように頭上を駆け抜け、リーたちは、その風圧で床に倒される。
 あたりを揺るがす轟音ごうおん
 無数の破片がバラバラと飛んでくる。それに重なって、弓兵たちが走り出す音が聞こえる。
「行こう!」リーは飛び起き、呆然とした。
 アーチは消え、れきの山が彼らの行く手をふさいでいる。
 振り返ると、身を起こそうとしているユナの向こう、グルバダの燃える瞳が、まっすぐリーを見据えていた。
 影の剣がひらめき、彼の心臓めがけて暗い波動が繰り出される。
 リーは瞬時に上体をそらした。衝撃波が肩をかすめ、リーの身体は、斜め後ろに大きく弾き飛ばされる。
 ものすごい音がとどろき、壁の破片が降り注いだ。
 顔を上げると、ふたたび銀の刀身がひらめくのが見えた。暗黒が空気を切り裂き、矢のように向かってくる。
 とっさに身を転がし、かろうじて直撃をかわす。しかし、烈風にあおられて、勢いよく宙に投げ出された。そして||世界が暗転した。