第38章 前半へ12第38章 後半へ

 両翼で待機していたドロテ軍が、連合軍の騎兵隊に続いて進軍し、儀式の準備が粛々しゅくしゅくと進められるなか、ラシルは息を詰めて、ユナと元帥げんすいの後ろ姿を見守っていた。
 ふたりがいるところまでは離れているし、軍楽隊の音楽と進軍の音で、話し声は聞こえない。けれど、元帥は身体の左側をこちらに向けてたたずんでおり、腰に帯びた光の剣がよく見えた。
 ||二千年ののち、ダイロスがこの世によみがえってくるときには、必ずルシタナも甦り、今度こそ光の剣を手にして、影の力を止めるでしょう||
 そう。あれは、ユナが手にすべき剣だ。ラシルの全身が、そう叫んでいた。
 鏡のような白大理石の床に真紅の絨毯じゅうたんが敷かれ、黒曜石の水盤が運ばれてくる。イナン王子についていた軍医や助手たちも、ラシルたちと同じく、黒いマントとフードをまとって現れた。
 ラシルは、囚われの若者のほうを見る。翼のある獣の彫像の下。後ろ手に縛られ、両脇を兵士にはさまれて、悲痛なまなざしでユナを見守っている若者を。
 先ほどふたりが顔を合わせたとき、彼らが強い絆で結ばれているのがわかった。だからこそ、彼は危険を冒してユナを追ってきたのだし、だからこそ、ユナは決して彼を犠牲にはしないだろう。
 宮殿前広場からは、ドロテ騎兵が続々と発ち、じんを巻き上げながら前方の丘を駆けてゆく。
 イーラス大佐が、準備はよいかというようにこちらを一瞥いちべつし、ラシルはとたんに呼吸が浅くなった。ブレン軍医が隣でささやく。
「ラシル。落ち着いて」
「はい、軍医」ラシルはかすれた声でささやき返した。
 
 すべての騎兵隊が出立すると、グルバダは、後ろに控えていた二名の将校に向かってうなずいた。将校たちは、ついてくるようにユナにいい、ユナは黙って彼らに従う。
 鏡のような白大理石の床には、真紅の絨毯が敷かれ、軍服姿の側近と、黒いフードに黒いマントを纏った者が、その円形の縁に沿って、大きく円陣を組むように、交互にたたずんでいた。全部で十二名。円陣の中央には、漆黒しっこくの水盤がちんしている。
 覚悟を決めたはずなのに、歩きながら、ユナは震えが止まらなかった。
 グルバダは、いっさい容赦はしないだろう。果たして自分に耐えられるのか。リーが立ち上がるその日まで、秘密を守り通すことができるのか。
 将校たちは、軍服と黒装束しょうぞくのあいだを抜け、ユナを水盤の前に導くと、宮殿前広場を背にする位置に彼女を残して下がった。
 水盤は大きな台に支えられ、ゆうにユナの腰ほどの高さがある。その水盤を隔ててユナの目の前にたたずんでいるのは、イーラス大佐だ。
 黒装束の者は、みな目深にフードをかぶって顔は見えない。けれど、身体つきから、大佐から左に九十度の位置にいるのはズーラ少尉、右に九十度がブレン軍医だとわかった。
 ブレン軍医の後ろには、小さな木製の台が置かれ、そのかたわらには、ひときわ小柄な黒衣のシルエットが控えている。
 ラシル……。
 背後で靴音が響き、上衣の裾をなびかせて、グルバダが歩いてきた。
 ズーラと軍服のあいだを抜け、イーラス大佐を背にして立ち、水盤をはさんで、ユナと真正面から向かい合う。
 古代彫刻のような肉体。輝く金色の髪に、金糸で縁取られた純白の衣装。腰に帯びた二本の剣。真っ青な瞳にたたえられた、勝利を確信した者の微笑み。暗い水面に、そのすべてが映しだされる。
 一瞬の静寂。
 グルバダが影の剣を抜き、水中に横たえる。続いて、光の剣の柄に手をかけた。
 ダイヤモンドの刀身が、その美しい姿を現す。まわりが一斉に息を呑むのがわかった。
 太陽の位置が変わり、陽光はこの水盤まで射していない。しかし、フィーンのダイヤモンドは、それ自体、呼吸するかのように青い光を放ち、兵士たちの前で太陽の光にかざされたときよりも、いっそう神秘的に輝いた。
 ユナの脳裏に、エレドゥ峡谷きょうこくの洞窟での記憶があざやかによみがえる。この世のものとは思えぬ美しさに魅せられ、言葉を失って、ルドウィンとふたり、ただ呆然と見つめたときのことが。
 あのダイヤモンドの刀身が、いま目の前で燦然さんぜんと輝いている。
 清冽せいれつな波動が、ユナを激しく揺さぶった。
 
 ラシルは、ブレン軍医の合図を待っていた。目の前にある銀のゴブレットは、ユナの心臓の鼓動を止め、光と影の魔剣で新たな命を与えるための漆黒の液体で満たされている。
 元帥が光の剣に手をかけ、ダイヤモンドの刀身がまばゆいばかりの光を放った。
 薬草園で、リーにダイヤモンドのブレスレットを見せられたときと同じ、さざめくような波動が、幾千倍、幾万倍にもなってラシルを圧倒する。石の声を聴くリーは、すべての石にこうした波動を感じるのだろうか。
 そのとき、なにかがラシルの注意を引いた。はっとして、瞬きする。
 気のせいだったか。そう思った次の瞬間、左手斜め前方で、小さな光がきらめいた。
 巨大な彫像の上の方。獣の翼の後ろあたり。青みがかった、神秘的な光だった。
 ブレスレット||。あのダイヤモンドのブレスレットだ。
 リー……。
 心臓が、痛いほどに打ち始める。
 リーは、彼女とともに儀式の準備を手伝い、いつものように、大人たちが密かに交わす会話にも、注意深く聞き耳を立ててきた。誰がどの位置に立ち、どういった段取りで進むのか、完璧に把握している。
 ラシルは素早くまわりを見た。
 誰もが、我を忘れて光の剣に魅せられている。元帥と、ユナさえも。
 リーが身をひそめている彫像の台座の下では、ユナの友だちが、二名の兵士に両脇をがっしり押さえられており、後ろの壁際には衛兵たちが控えている。
 リー。いったい、なにをするつもり?
 元帥が、ダイヤモンドの剣を降ろし、影の剣と交差するように横たえた。水面に波紋が広がり、水盤に張られた水が青く神秘的に輝き始める。
 ブレン軍医が、片手で合図を送ってきた。
 
 誰かが近づく気配に、ユナは我に返った。
 ラシルが、漆黒の液体で満たされた銀のゴブレットを運んでくる。ユナは彼女の方を向いた。
「ユリディケ」
 グルバダの声が響く。
「そなたは、今日ここに限りある生命いのちを終える。二本の剣との交感を通し、そなたの中の光と影は、それぞれの剣に封印され、そなたには、あらたな生命が授けられるであろう」
 ラシルは足を止め、ゴブレットを差し出した。
 目深にかぶった黒いフードの陰になり、その表情は見えない。けれども、目の前に立つユナには、青ざめた口もとが見えた。
 彼女がレモンのスープを運んできて、味方だとささやいてくれたことが思い出される。そのあと、声を立てずにくちびるだけ動かして、信じて、といってくれたことも。
 胸の奥がぎゅっと痛んだ。ごめんね、ラシル……。そう心でささやく。
「さあ」グルバダがいった。「飲むがよい」
 ユナはふるえる手を伸ばす。
 と、ラシルのくちびるが動いた。
 ||信じて||
 思わず手が止まる。
 次の瞬間、ヒュン! 空を切り裂く鋭い音がした。すぐに鈍い音が続く。間髪を入れずもう一度、ヒュン!
 ユナは反射的に振り返る。
 南の彫像の下。ヒューディの左手の兵士が倒れ、彫像の台座から小柄なシルエットが飛び降り、右手の兵士が矢を受けるのが見えた。
 同時に、ラシルがゴブレットを投げるのが目の端に入る。
 グルバダは、即座に避けて直撃をまぬがれたが、飛び散った液体を両眼に浴び、苦悶の叫びを上げて倒れる。
 それと重なって、ひとつの声が響いた。
「ユナ! 剣を取れ!」
 衝撃が全身を駆け抜ける。忘れたくても忘れられない声。嵐の日、彼女を灰色の騎士から救った声||
 イーラス大佐とブレン軍医が指揮官に駆け寄り、大広間が騒然とするなか、黒装束のひとりが、フードつきのマントを脱ぎ捨てる。
 ルドウィン!
 心臓が止まりそうになった。
 ルドウィンが生きている。エレドゥ峡谷で命を落としたはずのルドウィンが、生きている||
 頭が混乱し、心は激しく動揺する。それでも、身体は瞬時に反応し、水盤に飛び乗っていた。そのユナと、側近たちと剣を交えるルドウィンの周囲に、次々と矢が降り注ぎ、側近と黒装束を倒してゆく。
 光の剣を手にして振り向くと、北の彫像の上、瀟洒しょうしゃな弓と長身のシルエットが見えた。
 ヨルセイス||
「射手を討て!」グルバダを守るように、その上に覆いかぶさっていたイーラス大佐が、顔を上げて怒鳴る。
「ユナ!」ラシルが手を差し伸べた。
「走れ!」ルドウィンが叫ぶ。
「ラシル! ユナ!」リーが走ってくる。
「ユナ!」ヒューディも一緒だ。「逃げろ!」
 そのあとを、衛兵たちが追ってくる。
 ユナは水盤から飛び降り、ラシルの手を取って走り出した。