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37

 ユナはベッドの上でひざを抱え、月が傾くにつれて、窓から降り注ぐその静謐せいひつな光が、部屋の中を移りゆくのを見つめていた。
 血染めのスカーフのことが、頭から離れない。ヒューディも、この宮殿のどこかで眠れぬ夜を過ごしているのだろうか。
 自分の不注意からあの農場で灰色に捕らわれたことが、あらためて悔やまれる。ヒューディは、あのあとすぐ追いかけてきてくれたのだ。
 ジョージョーの方は、そのまま連合軍司令部に向かったに違いない。彼が無事司令部に着いていたら、デューやヨルセイスら連合軍は、すでにこちらに向かっているのではないか。
 ただ、この宮殿は、大勢のドロテ兵と灰色に守られているだろうし、いずれにせよ、明日の儀式にはとうてい間に合わないだろう。
 それでも、泣くだけ泣いてしまうと、ユナの中には不思議な覚悟が生まれていた。
 まだすべて終わったわけではない。ダイヤモンドのブレスレットは、薬草使いの少年、リーが守ってくれている。
 ユナの耳に、晩餐ばんさんの席でのグルバダの言葉がこだまする。
 ||そなたの魂の記憶には、フィーンの過去のすべてが、秘められている||
 ||いったんわたしの僕となれば、もはやそなたに抵抗するすべはない。わたしはそなたの中へと深く分け入り、すべての記憶を洗い出す||
 グルバダの狙いは記憶だ。わたしの中に眠る記憶。フィーンのダイヤモンドにまつわる古い記憶だ。
 グルバダの青い瞳がよみがえる。世界にはふたりしか存在しないかのように、ユナをきつけた真っ青な瞳が。
 ||ランドリアとわたしは、血のつながった従兄弟同士。実に親密な間柄だった||
 ||そなたも感じたのではないかな? ここでわたしを最初に見たとき、われわれのあいだにある、目には見えぬ強いきずな||
 胸の奥が苦しくなる。かつてランドリア王子とダイロスは血縁だったのだ。そしてもちろん、ランドリアの娘であったわたしとも。
 ただ、グルバダに永遠の忠誠を誓い、彼のしもべとなった自分の姿など、想像もできなかった。
 こんなとき、ルドウィンだったらどうするだろう。月の光を見つめながら、ユナは考えた。
 彼がヒューディを見捨てないのはわかっている。そして、自分の使命も決してあきらめないだろう。光の剣を手にして、影の力を止める||レクストゥールが預言したその使命を。
 そう。ルドだったら、きっと最後の最後まで運命にあらがう。たとえ、すべての希望がついえても。
 
 開いた窓から風が吹きこみ、ユナは、はっと目を開けた。
 夜明け前。夜と朝のあわい。月影は消えている。
 いつのまに眠ったのだろう。そう思ったとき、ふたたび風が吹き込み、その風に乗って角笛の音が響いてきた。長い、高らかな音。
 床から低い振動が伝わり、窓もガタガタと音を立て始める。
 ひづめと拍車の音。馬具が触れ合う金属音。風にはためく厚いマント||
 戦慄せんりつが背筋を駆け抜けた。
 灰色の騎士だ。灰色の大軍が、宮殿の北側から出立し、大地を揺るがして東へと向かっている。並足での行軍ではない。早足で次々と駆けてゆく。
 ユナはベッドから飛び降り、窓辺に駆け寄った。
 部屋は南に面しており、彼らの姿が見えるはずはない。だが、じっとしてはいられなかった。背伸びをして、胸の高さほどある窓から顔をのぞかせる。
 ほのかに明るみはじめた世界。眼下にはマレンの森が広がっている。断崖のように切り立った宮殿の壁には、ところどころ優美な装飾がほどこされ、目にしたとたん、胸が痛んだ。
 リーはそのレリーフを伝って、階下の部屋から登ってこようとしていたのだ。
 地響きが大きくなり、ユナはさらにつま先立って身を乗り出す。
 左手、朝焼けに染まりつつある東の空を背景に、小高い丘のシルエットが見えた。
 その丘のふもとから土煙が立ちのぼり、風に乗ってもうもうと流れ始める。宮殿の壁に視界をさえぎられ、軍勢の姿は見えなかったが、先頭集団が丘にさしかかったのがわかった。
 地響きが、夜明けの世界をおおってゆく。
 全身の血が凍りついた。
 デューやヨルセイスがこちらに向かっているとしたら、この西の大地のどこかで、彼らは、この圧倒的な大軍とぶつかることになるだろう。