第37章 前半へ12第37章 後半へ

 それは、ラシルがたくを整えているときに始まった。
 彼女の部屋は中庭に面し、宮殿の外は見えない。けれど、角笛に続いて、低い地響きが伝わってきた。
 ラシルは口をきゅっと結ぶ。
 運命の一日が始まったのだ。同室の者たちは、昨日から東側の野営地に行っており、その野営地で待機する連合軍兵士も、このあと出陣を控えている。
 ラシルは窓の外に目をやった。いつもなら、夜明け前から中庭で歌い出す鳥たちも、低い地鳴りが空気を揺るがし、次第に大きくなってゆくなか、すっかり影をひそめている。
 少し頭が重く、振動が響く。寝る前にカモミールと白すみれのお茶を飲んだのに、ゆうべはまったく効かなかった。
 ユナも眠れなかったに違いない。そして、きっと弟も。
 ゆうべの弟の呆然とした顔が浮かんでくる。リーのあんな表情は、一度も見たことがなかった。
 いったん希望を持ったあと、それを打ち砕かれるのは、最初から望みがないより何倍も辛い。
 祖母の声が耳に響く。ルシタナの伝説を話してくれた、あたたかな祖母の声が。
 ||愛する夫と娘を失い、悲しみに沈むエレタナに、フィーンの預言者はいいました。『二千年ののち、ダイロスがこの世によみがえってくるときには、ルシタナも必ず甦り、今度こそ光の剣を手にして、影の力を止めるでしょう』||
 しかし、その剣はいまや、グルバダの手の中にあるのだ。
 ラシルはため息をついて部屋を出る。そして、ふと思った。
 弟は一日の大半を薬草園で過ごす。ゆうべは眠れず、今朝は早々に降りているのではないか。きっとひどく落ち込んでいるだろう。
 ラシルの足は、衝動的に薬草園へと向かう。ズーラ少尉のことも気になっていた。リーが酒に細工をほどこしたことを疑っているようには見えなかったが、軍医の前で平静を装っていただけかもしれない。
 今朝はほかの薬草使いはいないし、リーにひと目だけ会ってこよう。
 だが、すぐに思い直した。いまラシルの顔を見れば、リーは辛い思いをするだけだ。それに、今朝は予定がびっしり詰まっている。
 イーラス大佐が迎えに来るまでに、ユナの朝食と身支度をすませておかなくてはならないし、そのあとは、儀式の裏方として軍医たちの助手を務めることになっている。
 もう一度ため息をつくと、ラシルはきびすを返し、ユナの部屋に向かった。
 
 ブレン軍医はすでに来ていた。ちょうどユナの診察を終えたところで、ラシルを見るなり、せんじ薬と朝食のレシピを指示する。
 ユナと目を合わす間もなく、すぐに調合室へ入った。
 地響きで、薬のびんや鍋や器具など、あらゆるものが小刻みに揺れるなか、煎じ薬を作りにかかる。騒音が、近づいてくる靴音をかき消したのだろう。ズーラ少尉の巨体が、いきなりアーチをくぐって現れ、ラシルは思わず飛び上がった。
 鍋に入れようとしていた薬草が、ぱっと床に散らばる。
「ラシル!」少尉がうなるようにいった。「不器用な子だよ、まったく」
 
 朝食が済んで、ユナの身支度を整えるあいだも、灰色の騎士の出陣は続いていた。このギルフォスにいる騎士のほとんどが出立する。膨大な数の騎士が発つには、相当な時間がかかるだろう。
 大地を埋め尽くして進んでゆく灰色の姿を想像するだけで、ラシルはぞっと身震いがした。すべて首尾よくいっていたら、ユナはこの大軍が発つ前に逃げおおせたのに……。
 なにか声をかけたかったが、ズーラ少尉がずっと目を光らせており、ユナと言葉を交わすことはできなかった。
 それでも、少尉がほかに気を取られたとき、一瞬、鏡の中で目が合った。彼女の大きな瞳がほほえみかける。ラシルは泣きそうになった。
 ユナは、昨夜の憔悴しょうすいしきった姿とは違って、どこかりんとしていた。顔は蒼ざめてはいるが、大きな茶色の瞳には、静かな光がたたえられている。覚悟を決めた者だけがかもしだす揺るぎない光だ。
 彼女は、まだあきらめてはいない。
 一昨日イーラス大佐が運んできたとき、ラシルは、これが本当にルシタナの再来なのかと目を疑ったけれど、いまなら、そうだと信じられる。
 そのイーラス大佐が、二名の将校をともなって現れた。ブレン軍医と言葉を交わしたあと、大佐は、いっさいの感情が感じられない目で、抜かりがないか確かめるようにユナを見下ろす。
 今日のユナのいでたちは、ここに連れてこられたときに身につけていた素朴な生成りの服と、イーラス大佐の方から届けられた純白のローブに、鹿革の編上げサンダル。銀糸で縁取りをしたローブは美しかったが、ゆうべの晩餐のための豪華な衣装とは明らかなコントラストをなしている。
 大佐は、よろしいというようにブレン軍医に向かってうなずき、先頭に立って歩き始めた。
 将校がユナの両脇について大佐に続き、ラシルはブレン軍医と並んでそのあとに続く。しんがりはズーラ少尉。その少尉の視線が、ラシルのうなじに突き刺さった。自分より先に行くのが気に入らないのか、あるいは、緊張でぴりぴりしているのだろうか。
 ラシルも神経が張りつめ、みぞおちがきりきりして、薬箱を携える手がふるえた。薬箱の中の小瓶に入っているのは、元帥げんすいの指示で数種類の薬草と鉱物を調合した漆黒の液体。光の剣の力と感応し、心臓を永久に脈打たせるという劇薬||
 フィーンのダイヤモンドの力とはいえ、人に永遠の命を与えることができるなどとは、とても信じられなかった。
 しかし、このギルフォスの都には、二千年の時をこえて生きる騎士が存在し、ラシルたちが複雑な通路を抜け、長い階段を降りてゆくあいだにも、彼らの出陣が宮殿を揺るがしている。
 すべてがあまりにも現実離れして、まるで夢の中にいるようだった。
 もしかすると、なにもかもが夢で、目が覚めたら自分は故郷の村にいるのではないか。祖母の遣いで、リーとふたりで薬草を摘みにいく、ありふれた朝が始まるのではないか。
 けれど、宮殿の地下に降り、イナン王子の霊廟れいびょうの前に来たとき、ひざまずくよういわれて膝を折るユナの姿を見たとき、雷に打たれたように、ラシルは悟った。
 夢なんかじゃない。これは、まぎれもない現実だ。
 ユナは、この世界を象徴する存在。そのユナが長剣を突きつけられ、イナン王子の霊の前で、頭を垂れている。わたしの知っている世界が、かろうじて残っていた世界が、最期のときを迎えようとしているのだ。
 これまでは、いつかここから解放され、村に帰れるという希望があった。それが永遠に消え、すべてが変わろうとしているのだ。
 不意に、ラシルは弟を理解した。弟はずっと、そのことを肌で感じていたのだと。死に瀕した世界を前に、ひりひりするような危機感を抱いていたのだと。
 ||グルバダがあの人の力を奪ったら、世界はすっかり変わる。二度ともとには戻らない||
 ラシルの耳に、リーの言葉がよみがえる。
 ||姉さんとぼくは、たぶんこの先も薬草使いとして生きていける。でも、宮殿が完成したら、村の人たちは殺されるよ||姉さんは、それでいいの?||
 いいわけなんかない。けれど、いったいどうしたらいいの?
 ラシルは、いますぐ薬草園に飛んでいって、弟と話すことができたらと、切に思った。
 リーなら絶対に、最後の最後まであきらめない。彼がラシルの立場で、こうしてユナの近くにいられるならば、きっとなにか儀式を止める方法を考えるはずだ。そして、一か八か命を懸けて、それを試みる。
 せめてわたしに、リーの半分でも知恵と勇気があったら……。
 イーラス大佐が、ユナに立ち上がるよういうのが聞こえた。いよいよ、儀式の行われる大広間へ向かうのだ。
 大佐がふたたび歩き始め、ラシルたちもあとに続く。薬箱を抱える両手が、じっとりと汗ばんできた。