36

 リーはかんむりそうんだバスケットを地面に置き、すみれの茂みに身をかがめる。そのとたん、彼にささやきかけるかのように、重なった葉のあいだから、青い光がきらきらとこぼれた。
 ブレスレットを手に取り、素早く左手首にはめる。薬草園を照らす月光に、三粒のダイヤモンドがいっそう青くきらめき始めた。手首から心臓へと力強いエネルギーが流れ、息苦しさが消えて、喉と頭の痛みもやわらいでゆく。
 袖口のボタンを留めながら、不意に、不思議な感覚に包まれた。なつかしいような、切ないような、うまく言葉でいいあらわせない感覚だ。
 次の瞬間、彼の心の瞳に、燦然さんぜんと輝くフィーンの姿が浮かびあがった。フィーンなど、もちろん見たこともない。けれど、そうだとわかった。
 流れるような金色の髪。すらりと伸びた背。神秘的なはく色の瞳。美しい女性のフィーン||
 琥珀色の瞳が、リーを見つめてやわらかに微笑する。胸が、ぎゅっとしめつけられた……。
「だいじょうぶか?」
 リーははっと我に返った。サピがこちらに歩いてくる。
「だいじょうぶだよ」
 あわてて立ち上がり、袖口にさっと目を落とした。ボタンはすべてぴっちり留められ、光はまったく漏れていない。ダイヤモンドは、じっと息をひそめている。
「そうか。よかった。もう終わったか?」
 リーはうなずく。
「じゃ、そこまで一緒に行こう」
 そして彼は、回廊の曲がり角まで送ってくれた。
「廊下の真ん中を歩いて戻るんだぞ。端を歩いて、あの女に物陰に引きずり込まれんようにな」
 リーは礼をいい、サピと別れて歩き出す。
 ふたたび、胸がざわめき始めた。ここに降りてきたときよりも、ずっと激しく。
 リーの呼吸は早くなり、歩く速度も早くなる。グルバダとの晩餐の席で、あの娘が苦境に立たされているのがわかった。
 左手首で、三粒のダイヤモンドが痛いほどにさざめき始めた。
 
 ブレン軍医のもと、調合室で働きながら、ラシルはいまかいまかと弟の帰りを待っていた。
 少し遅いのではないか。リーはだいじょうぶだろうか。ブレスレットを取り出すとき、誰かに見つかりはしなかったろうか。
 休憩から戻ってきたズーラ少尉が、彼女を見て意味深な笑みを浮かべたことも、ラシルの不安を大きくしていた。
 薬草園に探しに行きたい衝動に駆られたとき、ようやく弟が戻ってきた。彼は、少尉がにらみをきかせるように立ちはだかる前をすりぬけ、バスケットいっぱいの冠草を、調合台の端に乗せる。
「ありがとう、リー」ブレン軍医が声をかけた。「もう休んでいいわ」
 ブレスレットを無事持ち出せたかどうか知りたくて、弟の顔を見ようとしたが、少尉がずっと、ふたりを見張っているような気がして、目を合わせることができない。
 リーは軍医と少尉に挨拶あいさつし、ラシルのかたわらを通っていった。彼の左手が、ラシルの手首をかすめる。
 その瞬間、彼の指先から、さざめくような感覚が伝わってきた。
「ラシル」ブレン軍医から声が飛ぶ。「なにぼんやりしてるの? もう戻ってくるころよ。すぐに飲み物の用意にかかりなさい」
 
 ラシルは、冠草の花をひとつひとつがくから外し、小さなグラスにそっとみつをしぼった。
 しぼり終えた花は、乾燥させた白すみれの根を煎じておいたなべに入れる。すずらんの花に似たやさしい香りが漂った。
 ひと煮立ちして、祖母がそうしていたように、苦味が出ないうちに火から上げ、丁寧ていねいす。澄んだ水色のお茶のできあがりだ。
 廊下からちょうの音が響いてきた。
「帰ってきたわ」
 ブレン軍医が、アーチ越しに娘の部屋から声をかける。
 そちらに飛んで行くと、廊下に面した重厚な扉に、ノックの音が響いた。
「いま出ます」ラシルはこたえ、扉を開ける。
 そして、目の前のユナの姿に息を呑んだ。
 彼女は、イーラス大佐と若い将校に囲まれて立っていたが、その顔は死人のように真っ青だった。この夕方、美しい衣装をまとって輝いていた姿は見る影もなく、焦点の合わない瞳には、深い絶望がたたえられている。
 それでも彼女は、自分の足で歩いて部屋に入り、支えようとする将校の手を借りようともしなかった。
「少尉、ラシル、すぐに着替えと飲み物を」ブレン軍医が指示を出す。
「ご苦労だった、中尉」イーラス大佐が若い将校にいうのが聞こえた。「ブレン軍医、少しよいかな?」
 軍医がこたえて廊下に出たとたん、ユナがひざからくずおれた。
 
 ズーラ少尉はユナを軽々と抱えて寝台に運び、ラシルとともに、服を着替えさせた。気を失ってはいなかったが、ユナはされるがままで、ほとんど放心状態だった。
 身体には、浴室で少尉に腕をつかまれた際と、いましがた、床に身体を打ちつけた際の内出血のあとがあったが、ほかに目立った傷はない。
 精神的なショックだ。元帥げんすいは、ユナを徹底的に追いこんだに違いない。
 もしかして、すべて読まれてしまったのだろうか。ブレスレットのことも、今夜の逃亡のことも||
 いや、そうではない。隠し通したからこそ、身も心もこれほどぼろぼろになったのだ。
 それでも、ラシルは不安にならずにはいられなかった。胸をどきどきさせながらアーチを抜け、調合室に戻る。
 冠草のお茶をカップに注ぐと、手がふるえて台にこぼれた。しっかりしなきゃ。ひとつ深呼吸をして、とっておいた花の蜜をたっぷりと加える。
 ユナのもとに戻ると、ズーラ少尉が彼女を寝台の背にもたせかけたところだった。
「冠草のお茶です」ラシルはユナの手にカップを渡す。「疲れが取れて、気持ちが落ち着きますよ」
 倒れた際にできた傷を調べていた少尉が、薬をとってくるといって、アーチの向こうに消えた。
「ラシル」ユナがささやく。両手に包み込んだカップの中で、お茶が揺れた。「秘密は守ったわ。でも、今夜逃げることはできない」
「え?」
「ほんとにごめんなさい」
||なぜ?」
 ラシルは信じられない思いでユナを見る。ユナは悲しげに見つめ返した。
「友だちがとらわれたの」
 ラシルは息を呑む。
「リーに伝えて。ブレスレットはリーが持っていてと||
 靴音が響き、ユナは言葉を切った。ズーラが軟膏の容器を手に大股で戻ってくる。
 ラシルは、落ち着いた声でユナにいった。
「残らずお飲みくださいね。冠草のお茶は、痛みや炎症も、身体の内側からやわらげますから」
 
 リーは、部屋の高窓から空を見上げた。流れる雲のあいまから、またたく星々が見える。
 部屋には彼ひとりだ。助手も看護師も、全員明日の準備で出払っており、今夜はネムリタケで彼らを眠らせる必要はない。
 リーの胸は、相変わらずざわめいていた。大きな作戦を前に、自分で思っている以上に緊張しているのだろうか。それとも、ズーラのことで、まだ神経が高ぶっているのだろうか。
 冠草を届けた際、ズーラは彼をじっとにらみつけてきた。
 あれですんだと思うなよ。
 その目は無言のうちにそう語っていた。ただ、今夜のところは終わりだろうし、単なる脅しということもある。
 少なくとも、いまはズーラなんかにかまっている場合ではない。喉と後頭部の痛みも、興奮しているせいか、あるいはダイヤモンドの力によるものなのか、もうほとんど感じなかった。
 気持ちを落ち着かせようと、リーはもう一度手順をさらう。
 娘の部屋は、将校の居住区のあるこの棟の最上階で、宮殿の南に面している。南にはマレンの森が広がり、衛兵たちが見回ってはいるが、そびえ立つ建物を見上げる者はほとんどいない。
 その盲点を突いて、下の階から外壁を伝ってゆく。
 ちょうど真下のリネン室は、深夜は誰も出入りしない。リーは、リネン室の窓から娘の部屋の窓まで、彫刻がほどこされた壁の突起部分を伝って忍び込む。
 普通の者には、足がすくむ高さだ。だが、幼いころから、滝の断崖や石切り場を自在に登り降りしていたリーにとっては||この宮殿に来てからも、洞窟を自由に探索してきた彼にとっては、ほんの朝飯前だった。
 そして、リーの直感は、あの娘も高いところが苦手ではないと告げていた。
 そうでなくとも、光の剣を求める旅で、さまざまな苦難を乗り越えてきたはずだ。少し手を貸せば、きっと降りられるだろう。
 まもなく真夜中の鐘が鳴る。それが、作戦開始の合図だ。
 娘が身につけてきた衣類や編上げサンダルは、洗ってほこりを落とし、彼女の部屋においてある。鐘の音を聞いたら、彼女はたくを整え||
 リーは思考を止める。かすかな足音が聞こえた気がした。さっと耳を澄ます。
 間違いない。誰かがこちらに向かってくる。素足だ。普通の人なら聞こえないほどひそやかな音。
 まさか||。ここは男性の居住区。見つかったら、ただではすまない。
 駆け寄って、扉を開ける。
「姉さん||
 ラシルは、黙ってというようにくちびるに指をあて、音もなく部屋にすべりこんだ。
「リー」切迫したささやき。
 全身が緊張する。姉が危険を冒してまでここに来る理由は、ひとつしかない。
「ユナは||」ラシルは、息を切らしながら言葉を継ぐ。「彼女は行けないって」
 リーは息を呑んだ。
「ブレスレットは||リーに持っていてほしいって」
 彼は信じがたい思いで姉を見つめる。
「どうして?」
「友だちがつかまったの」
||友だち?」
「たぶん恋人。それかすごく親しい人。ユナを追ってきて、見つかったんだと思う。元帥はきっと、彼を殺すと脅したのよ」
 リーは、返す言葉を失った。
「彼女、ひどい状態だった。でも、どうにもしてあげられなくて||」ラシルは彼を抱き寄せ、かすれた声でささやく。「ごめんね、リー。ほんとに残念……」
 それから、振り切るようにリーを離すと、姉は身をひるがえした。
「姉さん||
 あとを追って廊下に出ると、素足のガウン姿が、角を曲がるのが見えた。
 ||ユナは||彼女は行けないって||
 姉が消えた廊下を見つめ、リーは呆然と立ち尽くした。