第36章 前半へ12第36章 後半へ

 青い月の光が降りそそぐなか、ユナはベッドの上でひざを抱えていた。
 彼女はひとりだった。アーチを隔てた調合室には、とうに誰もいない。
 だが、廊下では、衛兵たちが寝ずの番をしており、壁を隔てた隣室には、ズーラ少尉が控えている。少し前まで、開け放した窓からは、その少尉のものとおぼしき大きないびきが響いていた。
 いまはそれもやんで、遠い風の音のほか、あたりは静かだ。
 ラシルの部屋はどこだろう。きっとまだ、目を覚ましているだろう。ユナと同じように一睡もすることができずに。
 先ほど、逃げられないと告げたときの、ラシルの瞳がよみがえる。夏の空のような青い瞳が、衝撃に見開かれ、そしてかげった。
 遠い土地からさらわれてきた姉弟きょうだいにとって、ユナは、たったひとつの希望だったに違いない。
 その悲しげな青い瞳が、血に染まった緑のスカーフにとってかわる。
 ヒューディ||
 命懸けで追いかけてきてくれた幼なじみ。かけがえのない友。そして、レアナの大切な想い人||
 ユナはひざをぎゅっと抱き寄せ、顔をうずめる。
 夜の空気をふるわせて、真夜中の鐘が鳴り始めた。
 
 響いてきた鐘の音に、リーははっと我に返った。
 なにをしてるんだ! 彼は自分を叱り飛ばす。あの娘にブレスレットを返して、逃げるよう説得しなければ。
 ラシルはさっきなんて呼んでいた? ユナ||? そう、ユナだ。なんとかユナを説得して、ここから逃さなければ。
 夜明けには、灰色の大軍がここを発つ。一気に勝利を収めようと、膨大な数で連合軍を圧倒して。その前に、ユナをできるだけ遠くへ逃がさなければ。
 ||たぶん恋人だと思う。それか、すごく親しい人。元帥はきっと、彼を殺すと脅したのよ||
 恋人にせよ、そうでないにせよ、彼女は絶対に友だちを見捨てたりしないだろう。
 だが、グルバダが彼女の力を奪い、自分の望みを遂げたあと、彼を助ける保証はどこにもない。それどころか、リーにはとうてい、グルバダが約束を守るとは思えなかった。
 けれど、彼女に向かってこんなふうにいえるだろうか。あいつはどっちみち友だちを殺す。だから、彼のことはあきらめて逃げてくれ||
 リーは部屋に入って扉を閉め、目をふせて壁にもたれかかる。
 もし彼がユナの立場で、ラシルを囚われているとしたら? ラシルを見捨てることはできるだろうか?
 考えるまでもなかった。そんなこと、できっこない。どんなことがあっても、自分は決して、姉を残してひとり逃げたりなどしないだろう。姉を残して、ひとりでは||
 リーは目を開ける。
 雷に打たれたように、ある考えがひらめいた。
 間に合うだろうか? 急いで寝台の下の小箱を引っ張り出す。
 我を失っていたのは、ほんの短かい時間だったに違いない。斜めがけのかばんに必要なものを突っ込んで部屋を飛び出したとき、真夜中の鐘はまだ鳴り響いていたから。
 だいじょうぶ。きっと、間に合う。
 彼に応えるように、左手首でダイヤモンドが歌うようにさざめいた。
 
 階段を駆け下りながら、リーは頭をめぐらした。
 ユナの友だちがどこに囚われているかは、だいたい見当がつく。少なくとも、近くにはいない。それほど重要なりょが連れてこられていたら、将校たちの動きでわかるはずだ。
 彼が囚われているとしたら、きっと隣接した棟にある牢獄ろうごく ||その下が洞窟へと続く、薄暗い牢獄だ。
 スパイの疑いがかけられた者や、外部からの侵入者は、これまでことごとくそこに入れられていた。彼らはそこから隔離部屋に引きずり出され、取り調べを受けるのだ。
 リーはたびたび、重要な情報を得る前にうっかりひんの状態にしてしまった囚人の手当に、駆り出されたことがある。
 本当に辛い仕事だった。なかでも耐え難かったのは、ただふたたび情報を聞き出すためだけにいやすと知ったときだった。
 姉には話していない。そこで見たことは誰にもいわないよういわれていたが、そうでなくとも、とても話せなかっただろう。
 だが、ユナの友だちは、きっとまだ無事だ。
 彼女を追ってきたに違いないから、捕えられたのは、おそらく昨日。イナン王子が亡くなったばかりで、この二日間は、取り調べはいっさい行われていないはずだ。
 何度か行っているので、看守の何人かは顔見知りだった。
 ブレン軍医に命じられ、新しく入った囚人の様子を見にきたといえばいい。薬を持ってきたが、直接見て軍医に報告するよういわれていると。
 相手の出方によっては、イーラス大佐からも、じきじきに頼まれたといったほうがいいだろう。看守が少しばかり奇妙に思ったとして、この時間帯では、軍医や大佐に確かめたりはしない。
 看守にはネムリタケ入りのアルコールを差し入れる。前に一緒に行った薬草使いが、きつい仕事の彼らのためにといって、密かに酒の差し入れをしていたから、なんの疑問も持たずに受け取るはずだ。
 友だちが一緒なら、ユナは逃げる。看守が眠ったすきに、その人を救い出して洞窟にひそませて、彼女のもとに行って脱出を手伝う。
 時間はぎりぎりだし、成功させるには幸運が必要だ。とてつもない幸運が。
 しかし、リーには、あきらめる気などこれっぽっちもなかった。
 幸運は、自分で引き寄せるものだ。
 リーは抜け道を使い、広く複雑に入り組んだ宮殿を、隣の棟とつながる階まで降りていった。あとは、目の前の回廊から狭い渡り廊下を抜ければ、目的の建物だ。
 リーは護衛たちの目を盗み、ところどころ松明がかれた回廊を、円柱やアーチの陰に身を隠しながら、足音をひそませて進んでいった。
 ||廊下の真ん中を歩いて戻るんだぞ。端を歩いて、あの女に物陰に引きずり込まれないように||
 ふとサピの声が思い出されたが、真ん中を歩くわけにはいかない。
 きっと、あのズーラだって、こんな夜中にうろついたりはしないだろう。それに、いまもリーは、急ぎ足で歩きながら、全身の神経を研ぎ澄ましている。誰かにつけられている気配は、まったくなかった。
 薬草園でズーラにつかまったのは、あの娘の痛みを感じて、それに気を取られてしまったからだ。
 長靴の音を響かせて、渡り廊下の方から、衛兵の一団がやってきた。
 リーは、ユニコーンをかたどった彫像の裏側に、すっと身をひそませる。
 彫像は大人二人を充分にかくまえそうなほど大きく、衛兵たちは、リーにはまったく気づかずに、低い声で話しながら通り過ぎていった。
 彼らの後ろ姿を見送りながら、リーはそっと彫像の陰から歩みでる。
 その瞬間、左手首のダイヤモンドが、袖口から青い光を放ちながら、強くさざめいた。ほとんど同時に、うなじと背中がなにかの気配を察知する。
 けれども、リーが振り返るより早く、長い手がさっと伸び、一瞬のうちに、その小さな身体を彫像の奥へと引きすり込んだ。