青い月の光が降りそそぐなか、ユナは寝台の上でひざを抱えていた。彼女はひとりだった。アーチを隔てた調合室には、とうに誰もいない。
だが、廊下では、衛兵たちが寝ずの番をしており、壁を隔てた隣室には、ズーラ少尉が控えている。少し前まで、開け放した窓からは、その少尉のものとおぼしき大きないびきが響いていた。
いまはそれもやんで、遠い風の音のほか、あたりは静かだ。
ラシルの部屋はどこだろう。きっとまだ、目を覚ましているだろう。ユナと同じように一睡もすることができずに。
先ほど、逃げられないと告げたときの、ラシルの瞳がよみがえる。夏の空のような青い瞳が、衝撃に見開かれ、そして
その悲しげな青い瞳が、血に染まったスカーフにとってかわる。
ヒューディ||。命懸けで追いかけてきてくれた幼なじみ。かけがえのない友。そして、レアナの大切な想い人||。
ユナはひざをぎゅっと抱き寄せ、顔をうずめる。
夜の空気をふるわせて、真夜中の鐘が鳴り始めた。
響いてきた鐘の音に、リーははっと我に返った。
なにをしてるんだ! あの娘にブレスレットを返して、逃げるよう説得しなければ。
ラシルはさっきなんて呼んでた? ユナ||? そう、ユナだ。なんとかユナを説得して、ここから逃さなければ。
夜明けには、灰色の大軍がここを発つ。一気に勝利を収めようと、膨大な数で連合軍を圧倒して。その前に、ユナをできるだけ遠くへ逃がさなければ。
||たぶん恋人。それかすごく親しい人||元帥はきっと、彼を殺すと脅したのよ||
恋人にせよ、そうでないにせよ、彼女は絶対に友だちを見捨てたりしないだろう。
だが、グルバダが彼女の力を奪い、自分の望みを遂げたあと、彼を助ける保証はどこにもない。それどころか、リーにはとうてい、グルバダが約束を守るとは思えなかった。
けれど、彼女に向かってこんなふうにいえるだろうか。あいつはどっちみち友だちを殺す。だから、彼のことはあきらめて逃げてくれ||。
リーは部屋に入って扉を閉め、目をふせて壁にもたれかかる。
もし彼がユナの立場で、ラシルを囚われているとしたら? ラシルを見捨てることはできるだろうか?
考えるまでもなかった。そんなこと、できっこない。どんなことがあっても、自分は決して、姉を残してひとり逃げたりなどしないだろう。姉を残して、ひとりでは||。
リーは目を開ける。雷に打たれたように、ある考えがひらめいた。
間に合うだろうか? 急いで寝台の下の小箱を引っ張り出す。
我を失っていたのは、ほんの短かい時間だったに違いない。斜めがけの
だいじょうぶ。きっと、間に合う。
彼に応えるように、左手首でダイヤモンドが歌うようにさざめいた。
階段を駆け下りながら、リーは頭をめぐらした。
ユナの友だちがどこに囚われているかは、だいたい見当がつく。少なくとも、近くにはいない。それほど重要な
彼が囚われているとしたら、きっと隣接した棟にある
スパイの疑いがかけられた者や、外部からの侵入者は、これまでことごとくそこに入れられていた。彼らはそこから隔離部屋に引きずり出され、取り調べを受けるのだ。
リーはたびたび、重要な情報を得る前にうっかり
姉には話していない。そこで見たことは誰にもいわないよういわれていたが、そうでなくとも、とても話せなかっただろう。
だが、ユナの友だちは、きっとまだ無事だ。彼女を追ってきたに違いないから、捕えられたのは、おそらく昨日。イナン王子が亡くなったばかりで、この二日間は、取り調べはいっさい行われていないはずだ。
何度か行っているので、看守の何人かは顔見知りだった。
ブレン軍医に命じられ、新しく入った囚人の様子を見にきたといえばいい。薬を持ってきたが、直接見て軍医に報告するよういわれていると。
相手の出方によっては、イーラス大佐からも、じきじきに頼まれたといったほうがいいだろう。看守が少しばかり奇妙に思ったとして、この時間帯では、軍医や大佐に確かめたりはしない。
看守にはネムリタケ入りのアルコールを差し入れる。前に一緒に行った薬草使いが、きつい仕事の彼らのためにといって、密かに酒の差し入れをしていたから、なんの疑問も持たずに受け取るはずだ。
友だちが一緒なら、ユナは逃げる。看守が眠った
時間はぎりぎりだし、成功させるには幸運が必要だ。とてつもない幸運が。しかし、あきらめる気などさらさらなかった。
幸運は、自分で引き寄せるものだ。
リーは抜け道を使い、広く複雑に入り組んだ宮殿を、隣の棟とつながる階まで降りていった。あとは、目の前の回廊から狭い渡り廊下を抜ければ、目的の建物だ。
リーは護衛たちの目を盗み、ところどころ松明が
||廊下の真ん中を歩いて戻るんだぞ。端を歩いて、あの女に物陰に引きずり込まれないように||
ふとサピの声が思い出されたが、真ん中を歩くわけにはいかない。
きっと、あのズーラだって、こんな夜中にうろついたりはしないだろう。それに、いまもリーは、急ぎ足で歩きながら、全身の神経を研ぎ澄ましている。誰かにつけられている気配はなかった。
薬草園でズーラにつかまったのは、あの娘の痛みを感じて、それに気を取られてしまったからだ。
長靴の音を響かせて、渡り廊下の方から、衛兵の一団がやってきた。
リーは、ユニコーンをかたどった彫像の裏側に、すっと身をひそませる。彫像は大人二人を充分にかくまえそうなほど大きく、衛兵たちはリーには気づかず、低い声で話しながら通り過ぎていった。
彼らの後ろ姿を見送りながら、リーはそっと彫像の陰から歩みでる。
その瞬間、左手首のダイヤモンドが、袖口から青い光を放ちながら、強くさざめいた。ほとんど同時に、うなじと背中がなにかの気配を察知する。
けれど、一瞬遅かった。リーが振り返る間もなく、長い手がさっと伸び、リーの身体は彫像の奥へと引きずり込まれていた。
第36章(2 / 2)に栞をはさみました。