第34章
若い将校に先導され、ユナは細い廊下を進んでいった。一緒に迎えにきたもう一名が、後ろからついてくる。
ユナの喉はからからで、両手は冷たく汗ばみ、身体中が細かくふるえて、一歩進むごとに、ひざががくがくするのがわかった。
落ち着いて。まだ始まってもいないじゃないの。ユナは自分を
角を曲がると、広々とした廊下に出た。壁には、上部が半円形をしたガラスのない窓が並び、
先ほどまで響いていた作業の音や、ねぐらに帰る鳥たちの声はいつしか途絶え、あたりは静かだ。時おり風が吹きすぎるなか、廊下には、兵士たちの靴音と、自分の立てる
ユナは、水色のビーズをちりばめた細身のドレスに、銀糸で縁取られた水色のローブを纏っていた。どちらも
その優美な衣装の下、素足を包んでいるのは、甲とかかとにドレスと同じビーズをちりばめた、
「とってもおきれいです」ラシルは先ほど、大きな鏡の前でユナの身
ラシルのやさしい声は、どこかレアナの声を思わせ、胸がつまった。
||とってもきれいよ、ユナ。きっとルドウィン王子も目を留めるわ||
クレナのダンスパーティ当日。生まれて初めてくるぶしの隠れる正式なドレスに身を包み、レアナとヒューディとともに、期待に胸をふくらませて会場に向かったあの日。
あれは本当に、たった二か月前のことなのだろうか。
ユナには、まるで何年も前の出来事のように思われた。あたかも、別の人生で起こったことのように。
ラシルは最後に、ローレアのペンダントをつけてくれた。それだけは、ダンスパーティのときと同じだ。
今夜のドレスには袖がなく、ビーズの立ち
いまは、そのペンダントがユナのお守りだ。それと、ラシルがもたらしたひとすじの希望とが。
||ブレスレットは無事です。弟のリーがあずかっています||
||これから、元帥と
弟というのは、まだ十歳くらいの少年だ。そんな子どもがブレスレットを隠し、ユナを逃がそうとしているなんて、頭ではとても信じられなかった。
けれど、ユナはラシルを信じた。ラシルと彼女の弟を。濃い
先を行く将校が回廊を左へ曲がった。
植物のレリーフをほどこしたアーチを抜け、彫像の並ぶ廊下を無言のまま進んでゆく。要所要所には衛兵がたたずみ、将校に敬礼をする。
||
ラシルの澄んだ声が耳に響くなか、ユナは不安に揺れていた。宮殿は思っていた以上に広く、信じられないほど複雑だ。ここから脱出することなど、本当にできるのだろうか。
||元帥は心を読みます。ブレスレットのことも、今夜逃げることも、決して読まれないように、どうか、しっかりと守りを固めてください。なにかを隠していると察したら、元帥は、あらゆる形で揺さぶりをかけてくるでしょう||
ユナは深呼吸をして、一歩一歩、石の床を踏みしめる。
あとのことはあとのこと。そのとき心配すればいい。いまは、グルバダとの対面にそなえなくては。
それにしても、彼女を僕にして、グルバダは、いったいどうしようというのか。光の剣を取り戻す力を失った自分に、人質としての価値があるとは思えないし、連合軍が、ただの抜け殻になった彼女を取り戻すために降伏することも、絶対にありえない。
デューやエレタナ、ヨルセイスたちは、ユナが魂を失っていたとしても、救おうとしてくれるだろう。しかし、それは降伏によってではなく、戦うことによってだ。
そしてグルバダも、そんなことは百も承知のはずだ。
だったら、なぜ? いったい、なんのために?
せっかくここまで来たのだ。今夜逃げるのならば、その前に、それがなにかを探らなければ。そして、味方に伝えなければ。
将校は石段を上がって、小さな中庭に出た。
太陽がその日の最後の光を投げかけるなか、軍服姿の細いシルエットが浮かび上がる。
「イーラス大佐」将校が、さっと敬礼の姿勢を取った。「娘を連れてまいりました」
イーラス大佐は、背を向けて歩き始めた。ついてこいということも、身振りでそれをしめすこともしなかった。
ユナも、押し黙ったままついてゆく。
マレンの若木が植えられた庭を横切って、
ものものしい
長いアーチを通り抜け、思わず息を呑む。
濃いオレンジと金色に染まる空の下、そこには、美しい庭園が広がっていた。その空中庭園の左手には
建物の最上階。おそらく、宮殿の主の最もプライベートな空間だ。
大佐は正面の胸壁のほうへと向かう。
庭のそこここには、
その花々のさわやかな香りがただようなか、豪華な
「じきに元帥閣下がお見えだ」大佐のしゃがれ声が聞こえる。
ユナに対して、今日初めて口にした言葉だ。
「じきにって?」
ユナが聞いたときには、大佐はすでに背を向けて歩き始めていた。
なによ。ほんと愛想が悪いったら。ユナは心でつぶやき、去りゆくその後ろ姿に向かってしかめつらをする。
広い庭の向こうには、ここより少し低くなった建物の別の棟から、いくつもの尖塔が見え隠れしていた。
ユナは、円柱の立ち並ぶテラスへ目をやる。どこにも人影はない。誰かが来る気配も、まったくなかった。
きっと待たせるつもりなのだろう。いかにも、ほかの者を踏み台に権力の頂点にのぼりつめた人間のやりそうなことだ。
そのとき、いくつもの尖塔で、いっせいに鐘が鳴り始めた。
異国の黄昏に響く夕べの鐘は、思いがけなく美しかった。ユナは吐息をもらす。暮れなずむ東の空には十四夜の月が輝き、胸壁の彼方、やや西寄りの空の下には、
テラスの方を見たが、やはり人の気配はない。夕風が吹くなか、ユナは胸壁に歩み寄った。あれが蒼穹山脈だろうか。
最後の鐘が鳴り終え、空と大地に吸い込まれるように、その余韻が消えてゆく。
もう一度吐息をもらしたとき、うなじに強い視線を感じた。全身の毛が逆立つ。
「ユリディケ」
静寂に声が響き、心臓が凍りついた。
「それとも、ルシタナと呼ぶべきかな」
ユナはゆっくりと振り向いた。