オレンジと金色から、紫のグラデーションへと色を変えゆく空の下、あい色の上下に透けるような銀色のローブを風になびかせ、その男は立っていた。
 ユナは、呆然ぼうぜんとその場にたたずむ。
 それは、想像していた姿とはまったく違っていた。確か四十に手が届くはずではなかったか? いま、少し離れてユナを見つめるその男は、まばゆいほどに若々しい。
 波打つ豊かな金髪は、黄昏の光のもとでも真昼の太陽のように輝き、真っ青な瞳は、ヨルセイスに誘われた遠乗りで崖から望んだ南アルティス海のようだ。
 銀と藍の衣装は、やはり蒼穹そうきゅう山脈の特別な麻で織られているのか。そのやわらかな重なりの下には、鍛え抜かれた強靭きょうじんな肉体が隠されているのがひと目で見てとれる。
 薄いローブの下には、美しい短剣が透けて見えたが、長剣は帯びていない。
 しかしユナには、かすかながら、あのダイヤモンドのさざめきが感じられた。少し前まで、光の剣を身につけていたのだろう。どこかただならぬ暗い波動の余韻も感じられる。おそらく、影の剣も帯びていたのだ。
 グルバダは、広い歩幅でゆったりと歩いてくる。
「ようやく、正式に相まみえることができた」彼はほほえんだ。
 その瞬間、いったいどのような力が働いたのか? 世界にはふたりしか存在しないかのように、ユナは彼の瞳にき寄せられ、目をそらすことができなくなった。
 なぜだろう。二千年前は会わなかったはずなのに、宵闇が迫るなか、なお鮮やかに青く輝くその瞳には、ユナの心を遠い過去へと誘う、あらがいがたいなにかがあった。
「昨日ここに着いたときには、そなたは死のふちをさまよっていたからな。だが、さすがの生命力だ。すっかり見違えたよ」
 不意に、はがねのような冷たい腕の感触と、うなじにかかる氷のような息が、ありありとよみがえった。ユナはぞっと身震いし、とらわれていた不可思議な力から解放される。
 この男は、わたしを試したのだ。本当にルシタナの生まれ変わりなら、灰色に運ばせても、持ちこたえるはずだと。
 グルバダはふっと笑った。
「手荒な歓迎ではあったが、やむをえなかった。わたしは用心深い人間なのでね」
 ||元帥は心を読みます||
 ラシルの言葉がよみがえる。
 グルバダが軽く片手をあげると、木々の陰から、召使いたちが現れた。いつのまにそこにいたのか、音もなくやってくると、ユナをテーブルに誘い、椅子を引いて座らせる。
 別の召使いが、主のために椅子を引き、グルバダは、大きなテーブルに、ユナと向かいあって席についた。
 
 西の地平線が、わずかに日の名残りをとどめるなか、空の色は濃い紫へと移り変わり、星がいくつも瞬き始めた。
 庭のかがりがいっせいにかれ、テーブルの豪華な燭台しょくだい蝋燭ろうそくにも、ひとつひとつ火が灯されてゆく。
 召使いたちが次々と前菜を運んできた。
「歓迎のうたげだ」グルバダがいう。「イナン殿下の喪中ゆえ、品数も控え、楽師も呼んでいない。盛大な晩餐は、いずれ来たるべき祝宴の席に譲るとして、よいは水入らず、ゆっくり過ごそうではないか」
 飲み物が運ばれ、繊細せんさいな小ぶりのグラスに注がれる。淡いはく色の液体が、蝋燭の火に照らされて、きらきらと輝いた。
「七年もののマレン酒だ」
 マレン酒||。エレドゥ峡谷に入る前日、きりづま屋根の古い宿屋で、宿の主が出してくれたのは、確か五年ものだった。美味しくてつい飲みすぎ、酔っ払って寝てしまったことを思い出す。
「七年ものは酔わない。ことに、この北部のマレン酒は。心置きなく飲むがよい」
 ふたたび心を読まれ、ユナはくちびるを噛む。
 グルバダはユナを見つめ、笑みを浮かべてグラスを掲げた。
「初めての晩餐に」
 ユナは黙ってグラスを手にすると、精一杯の抵抗を込めて相手を見つめる。ふるえる手の中で、淡い琥珀色の液体が細かく揺れた。
「世界の平和に」その声も、小さくふるえる。
 グルバダの笑みが深くなった。ユナから目をそらすことなく、強い酒を一気に空ける。
 ユナもグラスを傾けた。燃える液体が喉を駆け抜け、全身がかっと熱くなる。思わずむせた。香りは、宿の五年ものより芳醇ほうじゅんでやわらかだったが、アルコール度はずっと高いに違いない。
 けれど、レモンのスープのおかげで、すきっ腹ではなく、少しばかりどうが早くなっただけで、酔いは回らずにすんだ。
「素晴らしいところであろう?」グルバダがいう。
 宵闇よいやみが降り、星々が輝きを増すなか、まわりにたたずむ瀟洒しょうしゃ尖塔せんとうが、幻想的に白く浮かび上がり、ユナも、美しいと思わずにはいられなかった。
「ここは迷宮跡なの?」
 グルバダはほほえんだ。
「このギルフォスでは、そう呼ぶ者はいない。ここは、復興した新たな都。古代の栄光をよみがえらせた、永遠の都だ」
 強制労働で、無理矢理に。ユナは心でいいそえる。ラシルの手の甲に刻まれた烙印らくいんが、ありありと目に浮かんだ。
「あれは、イナン殿下のお考えだった」
 また心を読まれて、ユナは自分に腹を立てる。
「それをそそのかしたのは、あなたなんじゃないの?」
 アルコールのなせるわざか、声のふるえはおさまっていた。グルバダは肩をすくめ、軽く流す。
「殿下は長らく、父王にも知られぬよう、内密に遺跡を探しておられた。わたしが発掘の指揮にあたるずっと前から」
「この遺跡は、イナン王子が見つけたの?」
「いや、このわたしが見つけた」
 なるほど。そして、影の剣を発掘し、灰色の騎士をよみがえらせたというわけね。
「さよう」
 グルバダは彼女の心を読み、あたかも会話を交わしているかのようにうなずいた。
「彼らは不眠不休で働き、優れた建築技師や石工の下で、昼夜を問わず、作業を進めてきた。今度の戦いが終わったら、最後の作業にとりかかる。来年のには、おうの輝きを取り戻しているであろう」
 召使いがユナのグラスにあらたなマレン酒を注ごうとした。ユナはもう充分だと告げ、グルバダを見る。
「美味しいマレン酒だったわ。でも、七年もののジンクスを破るといけないから」
 グルバダは、面白そうにユナを見た。それから、少年にシャナイ山麓さんろくのワインと蒼穹山脈の鉱泉水を持ってくるよう命じた。
 
 食事のあいだ、グルバダは終始笑顔で、テタイアの自然や芸術についてユナに語った。大切な異国の客人を心からもてなすかのように、実に熱心かつおだやかな口調で。
 彼の真っ青な瞳と、張りのある声には、人を魅了するなにかがあった。思わず惹き込まれそうになり、ユナはそのたびに、自らにいいきかせた。
 この男はかつて、フィーンのダイヤモンドを奪い、世界を破滅させた男。今回もまた、光の剣を手に入れ、彼女をさらい、なんらかの策略さくりゃくにかけようとしている男。決して心を許してはいけない。
 グルバダは、そんな彼女の心のうちを見透かすかのように、時おり言葉を切って彼女を見つめ、謎めいた笑みを浮かべるのだった。
 空のあい色が深まり、高く昇ってきた月が、庭園に白銀の光を降りそそいだ。木々や芝生が濡れたように照らされ、白い瀟洒な尖塔が幻想的に浮かび上がる。
 氷で冷やされたワインと、温かな料理が運ばれてきた。
「蒼穹山麓のワインと、蒼穹の川のます料理だ。世界が凍てついたあと、鱒はどこか地底湖で子孫を残し、やがて、流れを変えた川に戻ってきたといわれている。その新鮮な鱒を、蒼穹山脈の炭で焼いたものだ。||昔なじみの好物だった」
 ふと青い瞳がかげり、遠いまなざしになる。そのせつ、なぜかユナの心を切なさが満たした。
 けれども、その翳りは、ユナがひとつまばたきをするあいだに、すっかり消えていた。あたかも、最初から、そんなことはなにもなかったかのように。
「さあ」グルバダは、ゆったりとほほえむ。「冷めぬうちに召されよ」
 
 蒼穹の川の鱒料理は素晴らしかった。炭火焼きにした引きしまった身に、星のような形に半分に飾り切りされたレモンが添えられ、きりりと冷えたワインとよく合った。
 ラシルからは、しっかり食べておくよういわれている。ユナはその忠告に従った。
 グルバダのほうは、すっかりくつろいでいるように見えた。酒はかなり飲んでいたが、品よく節度のある飲み方で、料理を口に運ぶ仕草ひとつとっても、優美そのものだった。
 地方貴族の次男で、文武両道。士官学校で優秀な成績を収め、近衛騎兵に引き抜かれ、連隊長にのぼりつめた男。イナン王子に信頼され、彼をそそのかして内乱を起こした男。それもこれも、失われたダイヤモンドを手にするためだったのだろうか?
 なぜ、長い時を経て生まれ変わってまで、フィーンのダイヤモンドを追い求めるのだろう? あらゆるものを犠牲にして、こんな戦争を起こしてまで。
 永遠の命のため? ユナは、河原で話した灰色の騎士のことを思った。未来永劫えいごう生きられたとしても、魂を失ってしまったら、生きることになんの意味があるだろう?
 カタンと小さな音をさせ、グルバダがグラスを置いた。まぶたを閉じて、すっと片手をはらう。
 すべての召使いが、小さく腰を折って一礼し、波が引くようにに去っていった。
 篝火に縁取られ、月光に皓々こうこうと照らされた空中庭園。ユナとグルバダは、ふたりきりになる。
 遠くで風の音がするなか、あたりは静けさに包まれた。瞑想めいそうするようにじっとしていたグルバダが、おもむろに口を開く。
「二千年の時を経て、明日の朝、このギルフォスの都に、聖なる儀式がよみがえる」
 グルバダは目を開け、まばゆい月光に、その瞳が強くきらめいた。
「明日は満月。最も神聖な夏至の前の満月だ。そのよき日に、わたしに永遠の忠誠を誓うがよい。そなたに永遠の命を授けよう」
 ユナは固唾かたずを呑む。けれど、動揺はしなかった。ラシルから聞いて、心の準備はできていたから。
「冗談でしょ」ユナはまっすぐグルバダを見る。「あなたに忠誠を誓う気なんかないわ」
 青い瞳に笑みが浮かんだ。
「この晩餐が終わるころには、そなたの考えは変わっているであろう」
「決して変わりはしない。それより、フィーンのダイヤモンドを還して」
 グルバダは笑い声を上げ、さもおかしそうにかぶりを振った。
「単刀直入で率直なものいいは、父親譲りだな。かつて、そなたの父もここに来て、同じことをいったものだ」
 心臓が大きくどきんと打つ。
 ランドリア王子のことをいっているのだ。おそらく、互いに命を落とした、伝説の一騎打ちのことを。その記憶を思い出したのだろうか。ランドリアの生まれ変わりがこの世にいることを、どこかで感じているのだろうか。いや、はっきりとは悟っていないのではないか。だとしたら、悟られないようにしなくては。もし知ったなら、生かしてはおかないだろう。
 思いめぐらしたのは、ほんの一瞬だった。
「話をそらさないで」心に入り込まれぬよう、素早くいう。「あのダイヤモンドはフィーンのものよ」
 グルバダは眉を上げて苦笑した。
「あの石は、長いあいだわたしのものだった。先日、エレドゥ峡谷きょうこくで、そなたが奪うまでは」
 エレドゥ峡谷||。思わず目を閉じる。
 脳裏にルドウィンの姿がよみがえった。死の従者の攻撃を一手に引き受ける彼の姿が。
 ||ユナ! 逃げろ!||
 火花を散らす剣と剣。ゴーッと響く山鳴り。崩れ落ちる天井。
 ||ユナ! 使命を忘れたのか?||
 ユナは、はっと目を開けた。
 月光を帯びた青い瞳が、彼女をじっと見つめていた。記憶に入り込まれたか||
 動揺を抑え、気持ちを立て直す。
「わたしが見つけなければ、あなたにはどこにあるかわからなかった。あのダイヤモンドがあなたのものだったことは、ただの一度もないわ。あれは、フィーンの聖なるダイヤモンドよ。伝説でそういわれているように」
 青い瞳に、謎めいた笑みが浮かんだ。
「伝説で語られていることが、すべてだと思っているのかな?」
「すべてではないかもしれない。けれど、伝説には必ず真実がふくまれているわ」
 グルバダは、悠然ゆうぜんと椅子にもたれかかる。
「では聞くが、フィーンはそれを、どこで手に入れた?」
 一瞬、言葉に詰まった。
「太古の昔から、エルディラーヌにあったのよ。人やフィーンがこの世に存在するずっと前から」
「なぜそのように断言できる? 太古の昔、それは人の世界にあったかもしれぬぞ。あるいは、どちらでもない世界に。砂漠の果てか、霧の島か、海の底か、あるいは、さらに遠いはるかなる世界に」
「だとしても、それがフィーンの至宝として長く大切にされてきたことに、なんら変わりはないわ」
「フィーンたちが長らく大切にしてきたことは、わたしも認めよう。だが、もし時の初めからフィーンの世界になかったならば、それはフィーンのために存在していたとはいえぬのではないか? あれほどの力を持つ石は、神が、すべての者のために造ったものだとは思わぬか?」
 グルバダは言葉を切る。
「そなたも感じたはずだ。あの石の持つ限りない力を、その目で、そしてその手で、はっきりと」
 ユナの心に、燦然さんぜんと輝くダイヤモンドがよみがえった。あたかも息をするかのように光を放つ、この世のものとは思えぬ美しい刀身とうしんが。
「なぜあの力を、フィーンだけが享受きょうじゅできる? なぜフィーンだけが、老いと病の苦しみから逃れられる? あまりに不公平だとは思わぬか? わたしなら、それを万人のために使う」
「万人ではないわ。あなたにかしずく人のためによ」
「わたしに共鳴する者のためにだ」グルバダはただした。
 ユナは昂然こうぜんと顔を上げ、凛とした声でいう。
「『輝ける生命の象徴である聖なる石は、それがフィーンの国にあらば大いなる幸いとなる。それが人の国にあらば大いなる災いとなる』」
 グルバダはふっと笑い、大きくかぶりを振った。
「わからぬか? フィーンの王は、その戯言ざれごとで、ずっとわれわれをあざむいてきたのだ。そうして、長いあいだ不当に人をおとしめてきた」
「人を不当におとしめてきた者がいるとしたら、それはあなたよ。人だけじゃない。あなたは、フィーンも、フィーンのダイヤモンドも、不当におとしめてきた」
 そう。あのダイヤモンドは、そっとしておくべきだった。
 突然、ユナの心に抑えられない思いが湧き上がり、光の剣を手にした日に見た夢がよみがえった。
 闇のなか、呼吸するかのように青い光を放つ六角すいの石。剣として切り出される前の、大いなるダイヤモンド。原初げんしょの光を秘めた、限りなく清らかな波動||
 その波動が乱れ、ダイヤモンドのかたわらに、黒いローブ姿の男が浮かび上がる。男の片手には、鋭利な銀色の石。
 その手が高くかかげられた||
 
 強い視線に、ユナははっと我に返る。
 真っ青な瞳が、ユナの瞳をまっすぐに見つめていた。
「夢を……見たな」グルバダは低い声でささやく。
 ユナは息を呑んだ。
「ほかになにを見た?」グルバダは目を細める。「そなた、ほかになにを知っている?」
 いけない||。しっかりするのよ、ユナ。
 けれども、彼女の意識はすでに朦朧もうろうとして、ユナはふたたび、あの夜の夢の中へと引きずり込まれてゆく。
 青い光を放つ六角錐のダイヤモンド。先ほどの男が、そのダイヤモンドを前に、鋭利な銀色の石をかかげ、低い声で呪文をとなえている。
 ユナは目を覚まそうともがいた。この夢から脱出しなければ。大きな影が追ってきて、入り込もうとうするのがわかった。ユナは、死にものぐるいで抵抗する。
 呪文が終わった。銀色の石がかすかに角度を変え、きらりとひらめく。
 ユナはそれに気を取られた。影は、そのわずかなすきを見逃さなかった。黒いかたまりとなって、一気になだれ込んでくる。
 銀色の刃が振り下ろされた。ダイヤモンドから断末魔だんまつまのすさまじい悲鳴が放たれ、まばゆいばかりの閃光せんこうが、あたりを駆けめぐった||
 
 気がつくと、ユナは椅子に座ったまま、グルバダの瞳を見つめていた。その青い瞳が、すっと力をゆるめる。それから、遠いまなざしになった。
「その先は見なかったか……」彼は独り言のようにつぶやく。
 ユナは、くちびるを噛んだ。夢の記憶にまで入り込まれ、自分のふがいなさと、相手のしたたかさに、悔しさでいっぱいになって。
 その思いも読んだのか、あるいは、ひとときユナの思考から離れ、自身の思いに浸っているのか、グルバダは、まだどこか遠い目をしていた。
「あのダイヤモンドは剣なんかにすべきじゃなかった」
 ユナは、声をしぼりだすようにいう。
「そのために世界中を戦争に巻き込んで、たくさんの犠牲を払って、いままた、大勢の人を苦しめて||
 グルバダは焦点をさっとユナに合わせる。
「確かに、多くの犠牲が払われてきた。そのことは否定しない。しかし、今回、光の剣はさらなる力を帯び、そのすべてを変えるであろう。
 戦争は終わりを告げ、さまざまな悲劇や、あらゆる必要悪も消える。新たな世界では、われわれがフィーンに劣ることはなく、人と人とも、互いに誰が劣るということはない。これまでになく、平等で平和な社会が到来するのだ」
 なんと傲慢ごうまんな。
「二千年前、戦争が起きる前は||あなたが戦争を起こす前には、人とフィーンは平和に共存していた。それに、この広い宇宙の中で、なにが優れ、なにが劣るかなんて、誰にもいえないはず。すべての生きとし生けるものは、最初から平等で、人は誰しもフィーンと同じ永遠の存在よ。肉体は滅びても、魂は決して滅びないわ」
「そなた、心からそう思っていると誓えるか?」
 その声は、ひどく静かだった。グルバダは立ち上がり、銀色のローブを風になびかせて歩いてくる。ユナを見つめたまま、広い歩幅でゆっくりと。
「人が同じ姿のまま、ずっと生きることができたらと思ったことはないか? 死者をよみがえらせたいと思ったことは? 世界に病がなければよいのにと思ったことは、ただの一度もないと、誓えるか?」
 そういいながら、グルバダは、ユナの横を通って後ろにまわった。
「わたしも、大切な者を失った」両手をユナの肩におく。
 ユナの呼吸は浅くなり、声を発することも、視線を動かすこともできない。
「そなたの気持はよくわかる」彼の片手がユナの喉へとすべった。人さし指が、ビーズの立てえりの上から、ローレアをかたどったペンダントをとらえ、そっと力を込める。「母親が生きていたらと思ったことはあろう?」
 ユナはこたえなかった。けれど、心の声は聞こえたに違いない。
「やはりな……」グルバダは、指先から力を抜く。「父親のことも恋しかろう」
 ユナは懸命けんめいに耐える。心を空っぽにして、最後まで耐え抜き、自分を人質にした理由を探れば、そのあとは||
「つい最近も、大きな喪失そうしつを味わったのではないかな? エレドゥ峡谷で、光の剣と引き換えに」
 一瞬、息が止まる。それから、心臓が痛いほど激しく打ち始めた。
「そなたを通して、先ほどとくと見せてもらったが、なかなかの剣士であったな」
 瞳がうるみ、蝋燭の炎がにじむ。
 ブレスレットのこと。今夜の逃亡のこと。そのふたつだけは、心の奥にしっかりとしまいこんでいた。しかしグルバダは、いともたやすく彼女の弱みを見つけ、氷のような刃で容赦ようしゃなく切り裂いてゆく。
 それを全身で感じながら、ユナにはどうすることもできなかった。ルドウィンを失った悲しみは、あまりに大きく、そしてあまりにも深かった。
「そなた、過去のことはどれくらい思い出した? かなり思い出したであろう」
 グルバダは低い声でいい、おもむろに言葉を継ぐ。
「だが、そなたの知らぬこともある。二千年前、そなたの愛する男が、あの剣の間でどのような最期を遂げたか、今宵、ゆっくりと聞かせてしんぜよう。わたしの従者たちによって、どれほどみじめに殺されていったかを」
 やめて。ユナは心で懇願こんがんした。お願い……。
「あのときも、そなたはさぞ辛かったであろう」グルバダは身をかがめ、ユナの耳もとでささやく。「愛する男を見殺しにして、ひとり洞窟から逃げるのは」
 涙のしずくがこぼれ、はらはらとほおをつたう。ユナにはもはや、それを止める力はなかった。