リーは、暖炉にかけた釜に、乾燥させたマレンの実をたっぷりと入れた。
 マレンの花と同じ柑橘かんきつ系のさわやかな香りが、あたりいっぱいに広がる。むろから持ってきたりんと、蒼穹そうきゅう山脈の蜂蜜もたっぷり使おう。
 林檎は、古くから神聖な果物とされてきたし、蒼穹山脈の蜂蜜も、特別な霊力が宿るという希少な高地の花の蜜を集めたものだ。
 どうか、氷室林檎とその蜂蜜が、しき力からあの娘を守りますように。
 沐浴もくよくのあとには、グルバダとの会食がひかえている。深夜の逃亡を前に、まずは彼女がその時間を耐えられるかどうかが肝心だ。
 グルバダは心を読む。気持ちをしっかり持ち、守りを固めなければ、簡単に崩されてしまうだろう。
 姉は最初、彼女に事前に計画を打ち明けるのをしぶった。ブレスレットのことも、逃亡のことも、グルバダに読まれてしまうのではないかと。けれどリーは、読まれるリスクがあるからこそ、話すべきだと考えていた。
 あの娘は、光の剣とともにブレスレットも奪われたと思っている。グルバダに返すよう迫らないとも限らないし、そうでなくとも、その思いは確実にグルバダに伝わってしまうだろう。
 だからいっそ、すべて知っておいてもらったほうがいい。それに、ブレスレットが無事だと知れば、そのことが彼女の心の支えにもなるのではないか。
 鍋の湯がぐらぐらと煮え、マレンの実がしんなりしてきた。リーはカモミールの束を入れる。柑橘系の香りに、やさしいカモミールの香りがまじる。
 ラシルはあの娘と話せたろうか。味方だと伝えてくれただろうか。
 ためらいながら、最後は賛成してくれた姉の瞳が脳裏に浮かぶ。夏の空のような青い瞳には、覚悟を決めた者の静けさがあった。
 後ろめたさに、みぞおちのあたりが重くなる。
 リーは姉に、洞窟から地上に出たとき、野生の馬が群れになって走っていたといった。
 最初はほんとに野生の馬だと思ったのだ。けどすぐに、そうではないとわかった。あれは灰色どもの馬||正確には、灰色どもが乗っていた馬だ。彼らのあるじは、みなとうの昔に戦場で死んでいたから。
 その漆黒しっこくの身体は、たてがみからひづめにいたるまで、ダイロスの魔力を帯びていた。彼らは二千年の歳月を生き、疲れを知らず、どこまでも疾風はやてのように駆ける。おそらく、ダイロスの魔力が及んでいる限り、生き続けるのだろう。
 そして、乗り手を失うと、この生まれ故郷に戻ってきて、あたりの森や荒野をさまようのだ。二千年前の戦いで主を失った馬も、今回の戦争で失った馬も、戦場の恐ろしい記憶にさいなまれ、心の安らぎを求めて。
 その痛みを感じとって、リーは涙があふれて止まらなかった。そんなリーに、馬たちは心を許し、彼をその背に乗せてくれたのだった。
 ただ、そんなことは姉には通じない。奴らの馬に乗るなどといったら、ラシルはきっと猛烈に反対する。
 だから、いえなかった。あとでちゃんと話すつもりだ。もしもすべてうまくいったら、そのときに||
 どすどすという大きな音が聞こえ、リーははっとした。
 浴室の扉がバタンと開く。ズーラ少尉だった。宮殿の軍医助手には女性将校が三名いるが、少尉は破格の体格で、扉を開けて入ってくるだけで風圧が押し寄せる。
「準備は順調?」大声でいいながらずかずかと近づき、そこで声をひそめ、「あれはあるだろうね?」
「はい、少尉」リーは戸棚のところに行き、目的のびんを取り出す。
 背後から、少尉が瓶をかすめ取った。
「ぐずぐずするんじゃないよ。さっさと続きを用意しな」
 
 浴室は心地よく整えられていた。
 白いすみれと氷室林檎を浮かべ、蒼穹そうきゅう山脈の蜂蜜はちみつをたっぷり入れた湯からは、湯気とともにやさしい香りが立ちのぼっている。
 リーは、カモミールと乾燥させたマレンの実を煮出し、マレンの花とレモンの精油を加えたのだろう。組み合わせも、絶妙な配分も、弟がせいいっぱい心を込めて用意したことが伝わってくる。
 ユナは緊張しているようだった。ラシルも同じくらい緊張していたが、少しでも彼女を安心させようと、やさしい手つきでガウンを脱がせる。それから、身分の高い女性の習慣にならって、肌着のままのユナを湯船にいざなった。
 壁際では、ズーラ少尉がどっかりと木の椅子に腰かけ、こちらの一挙手一投足いっきょしゅいっとうそくに目を光らせている。
 少尉はブレン軍医の助手だ。背は軍医ほど高くないが、幅のほうは何倍もあり、豊かな胸もとと立派な腰まわりは、いまにも軍服がはちきれんばかり。その巨体には明らかに小な椅子が気の毒になるほどだった。
 ユナの方は、顔色はずっとよくなったものの、足もとはまだふらついている。それに、そのすべらかな二の腕には、寝台から出るとき少尉につかまれたあとが、痛々しく真っ赤に残っていた。今夜には紫色になるだろう。あとでニワトコとすみれの膏薬こうやくを塗らなくては。
 ユナはラシルに支えられ、湯の中にゆっくりと身を沈める。ラシルは、精霊の翼のようにふわりと浮きあがる肌着をそっと落ち着かせ、ユナの頭を浴槽のふちにもたせかけた。
「ありがとう」
 ユナはいい、ラシルは笑みで応える。
「口をきくんじゃないよ」少尉がぴしりといった。
 ユナは少尉を一瞥いちべつする。
 少尉は、気に入らない目つきだというようにじろりとにらみ、なにかいおうと口を開いたが、急に気が変わったようで、ふんと鼻を鳴らすだけにとどめた。
 それから、ちらっと扉へ目を走らせ、軍服の内ポケットからフラスクを取り出した。ふたたび扉に目をやると、そちらを見たまま慣れた手つきでふたを開け、ぐいっとひと口あおる。
 ユナがラシルを見た。味方だといったけれど、あんな女が監視してるというのに、いったいなにができるの? そのまなざしは、無言のうちにそう語っているようだった。
 少なくとも、ブレン軍医は部下を公平に扱う。しかし、ズーラ少尉は上にへつらい下に厳しい人間だった。要領がいいことこの上なく、軍医の目の届かないところでは手を抜いて、問題が起こると、すべて部下のせいにする。
 ゆうべも、ラシルと交替で娘の看護をすべきなのに、ブレン軍医が仮眠をとるあいだ、なにもかもラシルに押しつけて、いまみたいに密かに酒を飲んだあと、ぐうぐうといびきをかいて眠ってしまった。
 なのに、軍医が起きてくる直前には、どういうわけか目を覚まし、いかにも自分が看ていましたというように、軍医に報告するのだった。
 いま、その少尉がじっと視線を注ぐもと、ラシルは内心どきどきしながら、ユナの髪をきはじめる。
 リーはちゃんとやってくれただろうか。
 ||姉さん、ズーラのやつが任務中に酒を飲んでるのは知ってる? 飲んだあとも、あいつの息がちっとも酒臭くないのを、不思議に思ったことはない?||
 薬草園から戻りながら、弟にいわれ、ラシルは初めてそのことに思い至った。
 確かに、軍服にひそませたフラスク二瓶ふたびんをすっかり空けたあとも、少尉が酒の匂いを帯びていたことは一度もなかった。軍の宴席で飲んだあとなど、その息だけで酔いそうだったのに。
 ||あいつ、酒に薬を混ぜてるんだ。飲んだあとの息から匂いを消す薬を||
 ||ほんと? どうして知ってるの?||
 ||ぼくが渡してるからさ。あいつどっかでそういう薬が作れるって耳にして、作れるかって聞いてきたんだ。ぼくはしぶしぶ作れるってこたえて、体調によっては腹を下すっていってやった。実際、ほんとのことだし。そしたらあいつ、自分は頑丈だって。それ以来、二日ごとに渡してる。時間がたつと、効き目がなくなるから||
 ラシルはびっくりした。弟がそんなことをしていることも、そんな薬を調合できることも、なにひとつ知らなかった。
 いったいほかに、どれくらい知らないことがあるのだろう。
 思わず動揺したけれど、その気持を抑えて、リーの話に集中した。
 ||このあとぼくは、沐浴の準備を任されてる。少尉も一緒だ。たぶん、あいつはなにもやらないだろうけど、そのとき、いつものように薬を渡すよ。いつもとちょっとばかり調合を変えてさ||
 少尉がまたフラスクを取り出し、ぐいっとあおるのが、目の端に入った。ひと口、そしてまたひと口。
 ラシルは、ユナの髪を丁寧に洗ってゆく。
 突然、少尉の口から、奇妙なうなり声が漏れた。
 ユナが驚いたようにそちらを見る。ラシルも少尉に目をやった。あわてた様子で、内ポケットにフラスクをしまっている。その顔は、ひどく青い。
 ラシルは戸惑った表情で、いかにも遠慮えんりょがちにいう。
「少尉||
 鋭い視線でさっとラシルをさえぎると、少尉は、椅子を壁にりつけるようにガタンと立ち上がった。
「すぐ戻る」