32

 軍医にさしだされたせんじ薬は、なんともいえない匂いがした。ルドウィンがエレタナの煎じ薬に閉口していたのを思い出し、一瞬、息が苦しくなる。
 だが、ユナはすぐに感傷を押しやった。体力を取り戻さなきゃ。味はそんなに悪くないかも。鼻をつまんで、ひと口すする。
 そして思わず、むせ返った。
 ユナがどうにか苦労して飲み終えたころ、急に窓の外が騒々しくなった。土木工事でも始まったのか、風に乗って大きな音が聞こえてくる。
 音はかなり下から響いてくるようだった。
 ここはいったい、どのくらいの高さがあるのだろう。窓から抜け出すことはできるだろうか。
 木登りは得意だし、深夜、家の窓から抜け出したこともある。監視の目を盗んで、あの窓から外に出て、グルバダのもとにある剣とブレスレットを取り戻せたら。そしてどうにか、ここから逃げおおせたら||
 不可能に近いけど、少なくとも、自分の置かれた状況は知っておいたほうがいい。
「飲んだ?」
 アーチの向こうから軍医がやってきた。
 ユナはうなずく。
「なにが始まったの?」
「ちょっとした作業よ」
 軍医はつかつかと歩み寄って空のカップを取り上げ、ユナの背から枕を外し、ベッドに横たわらせる。
「ちょっとした作業って?」
 軍医はユナを無視した。
「薬草使いが帰ってきたら、軽いものを作らせるわ」ユナの頭を持ち上げ、枕をさしいれる。「それまで休んでて」
 ユナは、軍医がアーチの向こうに消えるのを見送った。
 いいわよ。窓辺に行って、自分で見るから。
 そう思ったはずだったが、ユナはいつのまにかうとうとして、軽い足音に、はっと目を覚ました。
 扉が開いて、先ほど出ていった少女が、薬草の入ったバスケットを抱えて戻ってくる。こうして正面から見ると、後ろから見たときより幼かった。十三歳くらいだろうか。それより年下の、十歳くらいの男の子も一緒だ。
 ユナと目があい、少女はちょっと驚いたように目を丸くする。夏の空のような青い瞳。黒髪と白い肌が、その青さを引き立てている。
 男の子もゆるく波打つ黒髪で、面立ちはどこか少女と似ていたが、ユナにまっすぐ向けられた瞳は、濃いとび色だ。ルドウィンと同じ色||
 その瞳がきらめき、親しげなほほえみが浮かぶ。
「遅かったわね、ラシル」
 軍医が顔をのぞかせた。
「薬草はとっておけばいいわ。急いでスープを作って。ようがあって、胃に負担のかからないものを。それから、リー、あなたは沐浴もくよくの準備をして」
 ユナとは口をきかないよういわれているのだろう。少女はすぐに隣室に向かい、男の子はくるりときびすを返した。
 男の子の後ろ姿を見つめながら、ユナは眉をひそめる。ごく最近、どこかで会わなかったろうか? いや||そんなはずはない。あの子はこの宮殿の薬草使いだ。
 男の子が扉に手をかけ、ユナははっと目を見張った。
 小さな手の甲に、茶色い模様がくっきりと浮かんでいる。先ほど少女が廊下に出ていったとき、彼女の手の甲にもなにか模様が見えたことが思い出された。
 あのときは、はっきりわからなかったけれど、今回は、うず巻状の模様がはっきりと見えた。
 間違いない。烙印らくいんだ。
 ドロテ軍は、王立軍側の街や村を襲撃し、人々を連行して、運河や橋を築くための強制労働をさせていると聞いたことがある。出身地ごとに烙印を押し、脱走者が出たら、見せしめに同じ土地の者を処刑するのだと。
 こんな年端もいかない子どもにまで||
 ユナはひととき、怒りに自分のことを忘れ、大きく息を吸って、ぎゅっとこぶしを握りしめた。
 
 ラシルは、薬草と野菜を刻み、貯蔵庫から選んできたレモンをたっぷりしぼった。
 祖母の初夏の定番、レモンのスープ。夏至には決まって、このレモンのスープに二十日大根のラニッカ、杏とくるみの焼き菓子をこさえてくれたものだ。
 どれも大好きだったけど、なかでも弟は、杏とくるみの焼き菓子に目がなかったっけ。
 祖母と弟はよく似ていた。濃い鳶色の瞳や長い指、薬草使いとしての才能、人としてのやさしさと誠実さ、繊細せんさいさと豪胆ごうたんさをあわせ持つところなど、すべてにおいて。
 ラシルは、そんな弟がうらやましくてならなかった。だから、よく焼きもちを焼いた。
 薬草を採りに行った際、山に置いて帰ったこともある。
 もちろん弟は、ひとり夜中に放浪するほど方向感覚がよかったから、なんでもない顔で帰ってきて、置いてきぼりを食らったことをいいつけることもなく、いつものようにラシルを慕ってきた。ラシルはそれがしゃくにさわって、ほんとは心配でならなかったのに、ひどく冷たくあしらった。
 祖母は、薬草使いの仕事に関しては厳しかったが、弟のことでラシルを叱ったことは一度もない。ただ、リーが眠ったあと、こういったことがある。
「あの子は、親と過ごした時間がおまえよりずっと短い。父さんと母さんが死んだとき、まだ五歳にもなっていなかったからね。だからその分、おまえがやさしくしておあげ」
 そのときから、ラシルは変わった。この宮殿に来てからも、弟の身に危険が及ばないよう、ずっと見守ってきた。だからこそ、最初に洞窟に降りたと聞いたとき、うんと叱ったし、そのあとも、気をつけていたつもりだった。
 そんな弟が、いつしかラシルの手をすり抜け、遠いところへ行ってしまった気がして、ラシルの胸を寂しさがよぎる。今回のことも、すべて話してくれたわけではないだろう。けれど、なにかを隠しているとしたら、それだけの理由があるはずだ。
 弟を信じよう。
 鍋に材料を入れるラシルの耳に、リーの声がこだまする。
 ||沐浴は姉さんと少尉しょういの担当だ。少尉が席を外すように仕組むよ。あの人とふたりきりになれるように。ただ、あまり長くは話せないかも。だから、その前に、姉さんは味方だと伝えておいて||
 チャンスがあるとしたら、スープを運ぶときだ。埋め立て作業の音が、ラシルの声をかき消してくれるだろう。
 
 スープはほどなく出来上がった。立ち込めるレモンの香りに、祖母が恋しくてたまらなくなる。味見をしてみたが、どうしても祖母の味には届かない。
 いったいなにが足りないのだろう? そう思いながら、ラシルがもうひと口すすっていると、娘の様子を診にいった軍医が戻ってきた。
「できた? すぐに運んで。沐浴とのあいだをできるだけ空けたいから」
「はい、先生」
 ラシルは陶器の深皿にスープをよそい、その上にレモンの皮をすりおろす。
 ||最後まで手間を惜しまないでね、ラシル。心を込めて、魔法の粉だと思ってすりおろすのよ||
 おちゃん、お願い。力を貸して。
 ラシルは脚つきのトレイを用意した。療養中の将校に食事を出すときに使っているもので、ずっしりと重い銀のトレイだ。
 それにスープを載せ、アーチを抜けると、娘は枕を背にあてて上体を起こし、こちらを見ていた。
 長いまつにふちどられた大きな瞳。薬草園から戻ってきたときは、窓から注ぐ光の加減か、色までよくわからなかったが、その瞳は明るい茶色だ。憔悴しょうすいして、心も打ちひしがれているだろうに、そのまなざしは温かく、それがラシルの胸を打った。
「なんのスープ? さっきからすごくいい匂いがして、すっかりお腹が空いちゃった」
 屈託くったくのない笑顔に、ちょっとどぎまぎする。娘は、ラシルが抱いていた伝説の英雄のイメージとは、まったく違った。髪と瞳の色のことではなく、なんというか、かもしだす雰囲気が。
「レモンのスープです」
 ラシルはこたえ、ベッドの上に脚つきトレイを載せようと身をかがめる。
「レモンのスープ?」
「ええ」うなずいた拍子に、重い銀のトレイがかしいで、スープがこぼれそうになった。
 娘がさっと深皿をすくいあげ、ラシルはトレイをベッドの上に固定する。
「すみません」ラシルはほおを染めた。
 娘の視線が、手の甲の烙印に注がれる。
「わたしのほうこそ」娘は深皿をトレイに戻し、やさしくいった。「この偉そうなトレイ、重かったでしょ? 最初から受け取ればよかったのに、ごめんなさいね」
「いえ||
 娘は立ちのぼっている湯気に顔を近づける。
「ほんといい匂い! ありがとう。レモンのスープなんて初めて。すごく美味しそうだけど、猫舌だから、少しずついただくね」ラシルを見て、もう一度にっこりした。「あなた、ラシルでしょう? さっきそう呼ばれているのを聞いたの」
 気さくに話しかけられて、ラシルは戸惑った。埋め立て作業の音はまだ大きく響いているが、娘の話し声が軍医の地獄耳に届いて、こちらに注意を向けられたらと、気が気ではない。
「わかってる。余計な口をきかないよういわれてるのよね? 気にしないで。ちょっと話がしたかったの。あなたの軍医ときたら、とりつく島もなくて、全然話し相手にならないんだもの」娘はいたずらっぽくいい、ラシルを見つめる。「よろしく。わたしはユナ」
 ユナ……。
「ほんとはユリディケだけど、友だちはみんなそう呼んでる」
 そのとき、廊下から靴音が聞こえてきた。ラシルははっと扉の方を見る。どすどすという大きな音。軍医の助手、ズーラ少尉だ。
 ラシルは娘に目を戻すと、外の作業の音にまぎれるよう、聞こえるか聞こえないかの声でささやいた。
「ユナ」
 娘の瞳孔どうこうが大きく開く。
「わたしは味方です」
 次の瞬間、少尉が入ってきた。
「ズーラ少尉」軍医が調合室のアーチから顔をのぞかせる。「ちょうどよかった。リーを見てやって。沐浴の準備をしてるから。ラシル、なにもたもたしてるの? さっさと夜の薬を調合なさい」
「はい、先生」
 ラシルは去り際にもう一度ユナを見て、くちびるだけ動かした。
「信じて」