30

 ユナは林檎りんごの園にたたずんでいた。
 そこは周囲を絶壁に囲まれた草地で、はるか上空に丸く切り取ったような星空が見える。その空のもと、淡い星あかりを受けて、林檎の木々が眠っているのだった。
 風はなく、あたりは静かだ。木々は新緑をまとい始めたばかりで、うすくれないではなく、真っ白なつぼみをつけている。
 いつか誰かと、星空の下で、純白の林檎の花を見なかったろうか。誰か、心がとても近い人と……。なぜか、そんな思いが心をよぎる。けれど、林檎の園には人影もなく、ユナはひとりだった。
 ふと足もとに目を落とす。彼女は素足で、やわらかな草の上には夜露が降りている。
 なぜこんなところにいるのだろう? 自分はどこかほかのところにいて、なにか大切なことが起こっていたのではなかったか。
 なにかがほおを打ち、ユナは顔を上げる。白い小さなものが降ってくる。
 雪?
 いや||雪ではない。林檎のつぼみだ。青い星明かりのもと、真っ白なつぼみが降ってくる。そよとも風の吹かない夜に、まだ固いつぼみが、花開くこともなく次々と落ちてきて、草地を白く染めてゆく。
「なんてこと……」
 つぶやいた瞬間、つぼみの落下が止まった。時が止まったかのように、宙に浮かんだままで||
 そして、すべてが静止した世界に、一羽のちょうが現れた。虹色に輝く美しい蝶だ。
 蝶は、白いつぼみが無数に浮かぶ中を、きらきらと虹色の光をふりまきながら、断崖の方へ飛んでゆく。ユナは蝶を追った。
 蝶は、断崖の壁のところで、岩に吸い込まれるように消える。駆け寄ると、断崖の中を細い道が続いていた。遥か上には、細長く切り取ったような星空。
 切り通しだ。
 虹色の光が、軌跡を描きながら飛んでゆくのが見え、美しい調べが聞こえてきた。ユナはその音色と虹色の光に導かれ、切り通しを駆けてゆく。
 と、突然視界がひらけ、ユナは石造りの野外劇場にいた。
 星あかりに、白い大理石の舞台が濡れたように輝き、その円形の舞台を囲む石段で、ひとりの若者が竪琴たてごとを奏で、澄んだ声で歌っている。
 肩にかかる黒髪。流れるような白い衣装。足もとには一匹の黒猫が寄り添い、若者を見上げて、長い尾をゆっくりと振っている。
 黒猫が振り向いた。エメラルドのような緑の瞳が彼女を見つめる。若者は竪琴を奏でる手を止めた。
「やあ」
 濃いとび色の瞳に親しげなほほえみが浮かぶ。そのとたん、なつかしさがユナを包んだ。
「わたしのこと知ってるの?」
 若者はうなずく。
「あなたは誰?」
「古い友だちだよ」彼はこたえ、石段に竪琴をおく。「ここできみを待っていた」
「わたしを? なぜ?」
「これを渡すために」
 さしだされた手の中で、繊細な銀の鎖と大粒のダイヤモンドがきらきらときらめく。
 突然、記憶がよみがえった。薬草の匂い。見知らぬ場所。意識が朦朧もうろうとするなか、何者かにそのブレスレットを奪われた記憶が||
 胸の奥が、きりきりと痛む。
「これは夢ね……」
「夢は大切だ」若者はやさしくいった。「夢はさまざまなことを教えてくれる。きみの過去や、未来についても。昔これをきみに届けるよういった人が、そう教えてくれた」
 澄んだ瞳がユナを見つめ、大きな温かい手がユナの左手をとる。
「石も夢を見ると、その人はいっていた。遠いフィーンの故郷では、石は眠り、夢を見、目覚めては歌ったと」
 若者はユナの手首にブレスレットをはめる。ダイヤモンドがまばゆい輝きを放ち、清冽な光がさざめくように心臓へと伝わった。
「忘れないで。きみの中にすべてがあるんだ……」
 
 強い薬草の匂いに、ユナは目を覚ました。こめかみを、熱い涙がつたって落ちる。
 白い天井。見知らぬ部屋。ユナは、薄い肌着をまとっただけの姿で、寝台に横たわっていた。
 夢を見ていた。誰かが彼女を待っていて、ブレスレットを渡してくれる夢を||
 その名残なごりか、さざめくような感覚が左手に感じられた。思わず、手もとに目をやる。けれども、掛布からのぞく左手には、なにもなかった。
 ユナはため息をつく。それから、つと眉をひそめた。身体が驚くほど楽になっている。凍えるような寒気は消え、節々の痛みもまったくない。
 横たわったままあたりを見まわす。
 ゆったりとした瀟洒しょうしゃな部屋。白い石の壁と柱にはつた模様の彫刻がほどこされ、窓からは日の光が射しこんでいる。その光からして、午後の早い時間だろう。
 窓の向かいには暖炉と重厚な木の扉。右手の壁には豪華なタペストリー。左手の壁のなかほどは大きなアーチがくりぬかれ、隣の部屋へと続いていた。薬草の匂いはそちらからただよってきている。
 ダイロスの迷宮跡に連れていかれるのだと思っていたけれど、ここが本当にそうなのだろうか。この優美な部屋が二千年も前の遺跡なのだろうか。
 アーチの向こうで人の気配がした。ユナはそっと頭を起こす。薄灰色の長い上衣をまとった女性の後ろ姿が見えた。
 扉の外で重い靴音が聞こえ、ユナははっとする。長靴の音か。
 靴音は止まり、ノックが響いた。女性がアーチを抜け、つかつかと部屋を横切って扉を開ける。
「娘の様子はどうだ?」聞き覚えのある低いしゃがれた声。
 灰色を率いていた将校だ。
「まだ眠っています」女性が廊下に出てこたえた。
「ブレン軍医、正午には起こすよういったはずだ」
「イーラス大佐、目を覚ますのを待つべきだと申しあげたはずです。強い薬で眠らされた上、長いあいだ灰色の騎士に抱えられて来たのですよ。普通の人間ならば、凍え死んでも不思議はなかったでしょうね」
「あの娘は普通の人間ではない。フィーンの血を引く者の再来さいらいだ」なんの感情もこもらない、冷ややかな声。「日没に迎えの者をよこす。娘の身支度をしておくように」
 長靴の重い響きが遠ざかるなか、女性が部屋に入り、バタンと扉を閉めた。それで起こった風が、急いで目を閉じたユナの顔をかすめ、小さな罵りの言葉とともに、靴音がアーチの方へ向かう。
「ラシル、覚醒かくせいをうながす薬を調合して。強力なものを。ヤドリギ草を入れるといいわ。薬草園で新鮮な葉をんできて。すけが必要なら、リーを呼んできなさい」
 はい先生、とこたえる少女の声。
 ラシル……。心惹かれる響きだった。声もやさしく、どこかレアナを思わせる。
 羽のようなかすかな足音に、そっと目を開けると、つややかな黒髪をお下げに編んだ少女が扉へ急ぐのが見えた。ユナより少し年下か。扉に手をかけたとき、手の甲になにかの模様が見えた。烙印らくいん||
 しかし、ユナが眉をひそめたときには、少女はすでに扉の向こうに消えていた。
「あの子は薬草使いよ」
 アーチの方から声がして、ユナはどきっとする。大柄な女が、アーチの脇にもたれ、両腕を組んでこちらを見ていた。
 細面のきつい顔。胸もとにはドロテの紋章。右袖には黒い喪章。女は前開きの長い上衣をひらめかせ、大股で歩み寄る。
「わたしはブレン軍医。気分はどう?」
「ここはどこなの?」
 表情の読めない灰色の瞳がユナを見た。
「必要なことは、すべてわたしから説明するわ。まず、身体を診せてちょうだい」軍医はいい、ユナの額や喉に手をふれてゆく。
 その手が首筋にふれ、ユナははっとした。母の形見のペンダント||。思わず手を伸ばして確かめようとしたとき、軍医がいった。
「ペンダントならあとで返すわ。汗をふくのにじゃだったの。ここに運ばれてきたあと、高熱を出したから。服やストールや靴もすべてとってある。それと||」ユナの左手首にふれ、脈をみる。「あなたが預かっていたものは、正当な持ち主の手にかえったわ」
 ユナは大きく息を吸い、目を細めて軍医を見る。
「正当な持ち主はフィーンよ」
 軍医は意に介さなかった。
「身体を起こせる?」
 うなずく気になれず、ユナは黙って起き上がろうとした。けれども、身体に力が入らない。軍医に助けられて、どうにか上半身を起こす。
「まだふらつくようね。頭が重かったりするかしら?」
「少し」
「どこかに痛みは?」
 ユナはかぶりを振った。
「よかった」軍医はユナの背中に枕をあてがう。「さっきの質問にこたえると、ここはギルフォスの都。イナン殿下の宮殿よ」
「イナン王子の?」
「ええ。殿下は昨日の早朝||あなたがここに来る半日前に亡くなられたけれど」
 わたしがここに来る半日前||。光の剣が届く半日前。もう少し持ちこたえていたら、剣の魔力で永遠の命が得られたかもしれないというときに||
 偶然ではありえない。イーラス大佐は、ユナをとらえて光の剣を手に入れたあと、そのことを早馬で知らせたのだ。
「煎じ薬を持ってくるわ」軍医は長い上衣をひらめかせ、大股で隣室に向かった。
 ユナは軍医の消えたアーチを見つめる。
 優雅な部屋。手厚い看護。足かせをはめられて地下牢に投げ込まれることもなく、拷問で痛めつけられるわけでもない。だが、すべてはまやかしだ。
 ||日没に迎えの者をよこす。娘の身支度をしておくように||
 おそらく、グルバダの前に差し出されるのだろう。そして、その先は||? 大いなるダイヤモンドを手に入れ、その上、なにを狙っているのか? それを、見極めなくては。そして、光の剣とブレスレットを取り戻さなければ。
 でも、どうやって? 宮殿の周りは、きっと大勢のドロテ兵と灰色で守られている。たとえ味方が助けにきても、宮殿の中に入るのは不可能に近い。たったひとりで、いったいなにができるだろう……。
 ユナの胸は不安と恐怖にしめつけられた。