第30章 前半へ12第30章 後半へ

 ラシルは、広い宮殿の中を薬草園へと急いでいた。あたりは、どこもかしこも静まり返っている。宮殿中がイナン王子の喪に服しているのだ。
 まもなく、明日に備えて、宮殿前広場の発掘現場を埋める作業が始まるはずだが、いまは、どこからか悲しげな弔いの音楽が聞こえてくるだけで、昼夜を問わず響いていた石を穿うがつ音も、資材を運ぶ音も、将校や技師が声高に命令する声も聞こえてこない。
 その静けさのなか、自分の心臓の鼓動だけが、どきどきと大きく響いている。
 ||ラシル、覚醒かくせいをうながす薬を調合して。強力なものを。ヤドリギ草を入れるといいわ。薬草園で新鮮な葉を摘んできて。すけが必要なら、リーを呼んできなさい||
 軍医の命令に、ラシルは部屋を飛びだしてきた。
 弟のリーと話がしたくてたまらなかった。きっと弟もあの娘を助けたいと願っている。祖母はよく、暖炉の前で昔話を聞かせてくれたが、弟のお気に入りはいつもルシタナの伝説で、この宮殿に連れてこられたあとも、いつの日かふたたびルシタナが現れ、グルバダより先に光の剣を手にすると信じていた。
 今回、ブレン軍医にこの仕事に引き抜かれて、昨日の午後、娘が運ばれてきてから、リーとは一度も話せていなかった。でも、薬草園でなら、ふたりきりになれるかもしれない……。
 ラシルの胸に、二年前の出来事がよみがえる。
 彼女は十二歳、弟は九歳。
 その朝も、いつものように夜明け前から、蒼穹そうきゅう山麓さんろくの森で、祖母に頼まれた薬草を摘んでいた。ラシルが青いケシを見つけ、傷つけないようそっと摘もうとしたとき、突然、地鳴りが聞こえた。
 それがひづめの音や馬具の音だと気づいたときには、石切り場のほうから怒声や叫び声が響いてきた。
 弟にじっとしているようにいい、ラシルは駆けだした。襲撃者のことを、祖母や村の人たちに知らせようと。
 けれど、ドロテ兵はすでに村にも回り込んでいた。
「薬草使いのガキがいるはずだ!」
 誰かが怒鳴り、ラシルは立ちすくんだ。
「いたぞ!」別の叫び声。
 気がつくと弟もあとからきていて、ふたりはたちまち兵士たちに捕らえられた。
 そのとき、祖母が飛び出してきたのだ。子どもは連れていかないでと叫びながら。
 祖母は、ラシルたちの目の前で殺された。金髪の兵士の短剣に胸を貫かれて。
 弟は自分をつかんでいた兵士を振り切り、祖母を殺した兵士に向かっていった。リーのこめかみには、そのときの傷あとがいまもくっきりと残っている。
 リーが殺されなかったのは、ちょうどそこへ、ドロテの指揮官が、石切場から、いしたちを引き連れた兵士らとともにやってきたからだ。
 イーラス少佐。ほおのこけた、しゃがれた声の男だった。
 なにがあったかを知ると、少佐は金髪の兵士をその場で処刑した。薬草使いが女とは思わなかったと釈明する若い部下を、なんのためらいもなく。
「薬草使いは必要だが、愚かな兵士は必要ない」
 表情ひとつ変えずにいったあと、少佐は、石工や大工、建築士、屋、医師や薬草使いなど、手に職のある者は全員ギルフォスの都に徴集すると告げた。石工たちは、妻子と別れを惜しむ間もなかった。
 そうして、ラシルたちは、ドロテ軍の馬車に乗せられ、見知らぬ大地を渡ったのだった……。
 イーラス少佐は、いまや大佐に昇進し、グルバダ元帥の側近として、元帥が宮殿に姿をあらわすときには必ずつき従ってくる。ひと月前、彼らは久しぶりにやってきた。イナン王子が、北部の領地から、意識のないまま専属の医師団に運ばれてきたすぐあとに。
 かつて、そのイナン王子が国王に反旗をひるがえしたとき、ほとんどの村人は、反乱はすぐにおさまると思っていた。蒼穹山麓の、のどかな石工の村にとって、それは遥か北部の出来事にすぎなかったのだ。王子の右腕だったグルバダが、ダイロスの迷宮跡を見つけ、影の剣を発掘して、灰色の騎士を呼び覚ましたとのうわさが聞こえてきたときにも、村人たちは、とんだほら話だと笑った。
 だが、ここギルフォスに連行され、よみがえりつつある壮大な宮殿と、灰色の騎士たちをその目で見たあとは、誰ひとり笑わなかった。
 石工とラシルたちは、手の甲に烙印らくいんを押され、それぞれの技能によって、建築や発掘の現場に振り分けられた。
 ラシルとリーは、すでに完成していた将校の居住区で、薬草使いとして仕えることになった。
 初めのうちは、薬草に通じた子どもとしてめずらしがられた。ふたりはできるだけ目立たぬよう、いわれたことをただ従順にこなしていった。目立たなければ、軍医の助手やほかの薬草使いからしっされることも、理不尽な暴力を受けることもなかったから。
 やがて、忙しい日々の中で、ふたりはあたりまえの存在となった。おそらく、あたりまえ以下の存在に。
 大人はしばしば子どもがそこにいないかのように話をすることを、ふたりは村にいたときから学んでいた。たとえ一人前の薬草使いであっても、大人にとって、子どもは子どもにすぎないのだ。
 そしてラシルと弟は、まわりの将校たちの話から、この宮殿と外の世界で、なにが起こっているかを知るようになった。
 ふたりはそれぞれ、同性の助手や看護師と同室で、日中も軍医たちの監視下におかれていたが、ふたりだけになれたときは、情報を交換しあった。戦況やちょうほうに関することから、軍の極秘作戦までさまざまなことを。
 たとえば、特殊な力のある灰色による連合軍兵士の勧誘や、野営地に留めおかれたその兵士たちに、ラシルとリーが研究を手伝ったおぞましい薬が使われていること。そして、ルシタナの再来を探すべく、世界中に灰色の騎士が放たれていることを……。
「光の剣がこの近くに埋もれていたら、ルシタナを手伝えるのに」一度、リーがそういったことがある。「ダイロスのやつ、うんと遠くに隠したんだ」
「どうしてわかるの?」
「そんなすごい石が近くにあったら、その声が聞こえるに決まってるもん」
 祖母が生きていたら、弟のいうことがよくわかったに違いない。
 村の者は、祖母の血を受け継いだのはラシルだと思っている。祖母は蒼穹山麓では広く知られた薬草使いで、ラシルは、歩きだすよりも早く、あらゆる薬草や鉱物について教わり、六歳になるころには、祖母を手伝って、村人たちの病や怪我を診ていたから。
 一方、リーは言葉の遅い子で、ぼんやりと空を見たり、草や石を眺めていたので、少々頭が弱いと思われていた。
 けれど、リーはただ聞くほうに忙しかったのだ。祖母とラシルのあとをついて歩きながら、風やせせらぎ、草木や花、鳥や動物の声に耳を傾け、石切り場に行っては、石の声に耳を澄ましていたのだった。
 そんな弟には、もしかしたら、フィーンのダイヤモンドの声も聴こえるかもしれない。そう思って、はっとした。
「リー、まさか、洞窟どうくつに降りたんじゃないよね?」
 すると弟は、幼いころいたずらを見つかったときと、まったく同じ顔をした。
「この前こっそり降りてみたんだ。やつら、まるで見当違いのところを掘ってた」にやりとして、「あれじゃ百年掘っても見つかりっこないや」
 ラシルはぞっとした。
「いつ抜け出したの?」
「真夜中だよ」
「部屋の誰かが起きたらどうするつもりだったのよ」
「起きないさ。あいつらの寝酒にネムリタケの粉を入れてやったから」
「リーったら! 二度とそんなことしないで。見つかったら、ただじゃすまないんだよ」
「うまくやるって。それに||
「リー」ラシルはさえぎった。「あんたひとりじゃない。村のみんなの責任になるんだよ。見せしめに殺されることだってある。それ、わかってるの?」
「ルシタナを助けたかっただけだよ」リーは悲しげな瞳になった。「お祖母ちゃんが話してくれたルシタナの再来を……」
 ラシルは胸をつかれ、口調をやわらげた。
「だいじょうぶだよ。その人はきっと、光の剣を見つける。あいつより先にね」
 弟をなぐさめるためにいった言葉だった。囚われの日々の中で、ラシルは徐々に希望を失い、奇蹟を信じる心も失っていたから。
 だが、ルシタナの再来は、光の剣を見つけたのだ。
 それなのに||
 回廊から薬草園のある中庭へと向かいながら、ラシルの胸に、昨日の午後の衝撃がよみがえる。自分たちを救うはずの英雄が、イーラス大佐の腕に抱かれ、ぐったりとして運ばれてきたときの衝撃が。
 リーと話せるかもしれないと、急いで降りてきたけれど、話せたとして、いったいなにになるだろう? ふたりは子どもにすぎず、できることといえば、娘を健康な身体に戻すことだけだ。それもただ、グルバダにさしだすためだけに||
 ラシルは心を沈ませて、中庭へのアーチを抜ける。
 薬草園には、弟のほか誰もいなかった。ラシルに気づき、リーはすぐに飛んできた。
「姉さん」ささやくようにいう。「ひとり?」
 ラシルはうなずいた。
「よかった」
 濃いとび色の瞳が、陽光にきらきらと輝く。そこには、希望があった。