エレタナは、中庭を見おろす窓辺にたたずみ、深いもの思いに沈んでいた。夕闇ゆうやみがしのびよるなか、部屋にはまだ明かりも灯していない。
 彼女はチェストに歩み寄り、その上に置かれた小さなびんを手にとった。ユナの贈り物。セティ・ロルダの館で、はにかみながらさしだしてくれたローレアの香水。
 ||ローレアは、ウォルダナにだけ咲く花なんです||
 あのとき彼女にそういわれて、思わず言葉につまった。なにもいえずにいると、ユナは少し困ったような顔をした。
 ||ごめんなさい。エルディラーヌにはきっと、きれいな花がたくさんありますよね。香水だって、もっと素敵なものがいろいろあるでしょうし。けど、ローレアは、わたしにとって特別な花なんです。子どものころからずっと、ローレアに囲まれて育ったから||
 心の中で、エレタナはこたえた。
 わたしにとっても特別な花よ。わたしも昔、ローレアの花咲く森に住んでいたの。
 けれども、声に出してはいえなかった。口にしたとたん、そのなつかしい森でルシタナと過ごした日々がよみがえって、切なさで胸がつまりそうだったから……。
 ユナはいま、どこにいるのだろう。すべて順調にいっていれば、先日送った使者とともに、ここに着いてもいいころだ。使者はまだユナたちを探せていないのだろうか。それとも||
 エレタナは香水の瓶を握りしめる。
 心のどこかでは、自分の心臓が打っているように、ユナの心臓も確かに打っていると感じているのに、その一方で、いいようのない不安が暗い影を落としている。
 ヨルセイスも不安を抱いているだろうに、そんなそぶりは少しも見せず、つい昨日も、澄んだ水色の瞳で彼女を見つめ、こういってくれた。
 ||ユナは星のしずくを身につけています。かつてルシタナが、未来の自分に託したブレスレットを。それは、ルシタナの遺志や、あのとき彼女を助けた者たちの思いをまとい、どんなときもユナを導き守るでしょう。今度こそ、あらゆる試練を乗り越えて、ユナはきっと、あなたのもとに戻ってきます||
 星の雫||
 ユナには、三粒のダイヤモンドがそう呼ばれていたことは話していない。それをルシタナに届けた若者の物語も、ルシタナの恋人や友人たちの物語も、そして、フィーンとダイロスにまつわる遥かな国の伝説も。
 セティ・ロルダの館で、エレタナはユナにいった。
 ||いつの日か、すべてを話しましょう。ブレスレットのことも、なにもかも。でも、いまは、エレドゥ峡谷に行って剣を探すことだけに集中してほしいの||
 過去の出来事には、辛いものもある。
 今回、人の世界に渡る前に、父にもいわれたことだが、すべてを語るのは、ユナたちが光の剣とともに戻り、そのフィーンの至宝があるべき場所に還ったときだ。ユナを信じ、そのときが来るのを信じ、わたしも気持ちを強く持っていなければ。
 レクストゥールの水晶はエルディラーヌに送り返してある。なにかあれば、父が知らせてくるはずだ。かつてその水晶でルシタナの旅を見守っていたように、ユナの旅を見守っているはずだから。
 ただ、父は、ダイロスの魔力が強く及ぶところでは、水晶はなにも映さなかったといっていた。いまも、そうかもしれない……。
 エレタナの胸に、二千年前の悲しみがよみがえる。
 心が、激しく揺れた。
 あのときは、娘だけでなく、多くのものを失った。あまりにも多くのものを。
 かけがえのない友人たち、思い出の森、ローレアの花咲く大地、そして、彼女のために国を捨て、娘のために命をけた最愛の人を||
 フィーンの世界に戻ったあと、悲嘆に暮れる彼女に、レクストゥールは告げた。ルシタナはふたたびこの世に生を受け、そのときには、ランドリアもまた、よみがえるだろうと。
 そして、かつてランドリアとのおうを禁じた父は、彼女に約束した。いつの日か、ランドリアとふたたびめぐり逢ったとき、彼が自分から彼女のことを思い出したならば、そのときは心から祝福しようと。ふたりの愛が真実ならば、彼はきっと思い出すと。
 エルディラーヌの王宮での出逢い、星空のテラスでのダンス、真夜中の逃避行||
 ランドリアのことなら、どんなささいなことも、すべて胸に刻まれている。
 さいての国の森でともに過ごした日々、美しい森を見晴らすがけでランドリアは語らい、彼女はフィーンに伝わる古い歌を歌った。ふたりは、その最果ての国の素朴な人々を愛した。そして、ローレアの花咲く早春の輝きを。
 そうした思い出だけをよすがに、彼女は生きてきた。二千年のあいだ、ただひたすら、彼とふたたび会えることを信じて。
 そしてこの春。フィーンの代表として人の世界を訪れたとき、出迎えの者の中に、その姿があった。
 エレタナの心臓は打つのをやめた。トリユース将軍を始め大勢の将校がいたが、彼女の瞳には、たったひとりの姿しか映らなかった。
 髪の色も瞳の色もまったく違ったが、彼女にははっきりとわかった。ランドリア||
 けれども、彼は初めて会ったかのように彼女を見つめていた。将軍の斜め後ろに礼儀正しくたたずみ、澄んだ瞳に少年のようなはにかんだ笑みを浮かべて。
 挨拶をかわしながら、あふれる想いを隠すのが精一杯だった。彼の声も、その響きも、ランドリアそのままで、切なさに胸がつまった。
 彼はヨルセイスのことも思い出さなかった。ヨルセイスはかつて、ふたりの駆け落ちを手引きしてくれた恩人だのに。そして、そのあとユナに会ってからも、彼の記憶がよみがえることはなかった……。
 黄昏に沈む庭を見おろし、エレタナはいきをもらす。
 ヴェテールに発つ前日、夜明け前の庭で彼が想いを打ち明けたとき、どれほどそれにこたえたかったことか。
 もしかすると、かつて父がいったように、フィーンと人は、別の世界で生きるべきなのかもしれない。
 彼は、かつての娘を助けた。灰色たちのしゅうげきから救い、弓を教え、迷える心を導いて。それで充分なのではないだろうか。
 いまの彼には、デュー・レインとしての新たな人生がある。わたしも、しっかりしなければ。
 今回わたしは、フィーンの代表として、人の世界に来ているのだ。ユナが使命を果たせるよう支え、フィーンのほううばわれたことから始まった、この戦争を終わらせるために。そして、ユナが取り戻したダイヤモンドを、故国に持ち帰るために。
 それがフィーンの悲願であり、大切なのは、ユナのために祈り、彼女の力を信じて待つことだ。
 エレタナは、手の中の小さな瓶に目を落とした。それから、さいをほどこしたそのせんさいふたを開けようとして、はっと手を止める。
 聞き慣れた足音が、近づいてきた。階段を二段飛ばしで駆け上がって。
 
 ノックの音がしたのと、エレタナがとびらに手をかけたのは、ほとんど同時だった。
 開いた扉の向こうで、デュー・レインがまっすぐに彼女を見おろす。
 燃えるような、それでいて、どこか安らぎをたたえた瞳||。エレタナは、もうなにも隠す必要がないことを悟った。
 次の瞬間、彼女は愛するひとの腕の中にいた。香水の瓶がその手からすべり落ちる。
 ローレアの甘くやさしい香りが、あたりにぱっと広がった。気の遠くなるような歳月のあいだ、ずっと抑えられていたふたりの情熱のように。
 二千年の孤独は、ふたたびみいだした熱いキスに溶けていった。過去と現在をひとつに結びながら||
 あふれる涙がエレタナのほおを伝い、彼のほおもらしていった。
 長いキスのあと、デューは両手で彼女の顔を包み、彼女の瞳をのぞき込む。エレタナは黙って見つめ返した。
 デューは愛しているとささやき、こたえようとした彼女のくちびるを、もう一度キスでふさぐ。
 そのとき、突然階下が騒がしくなった。
 恋人たちのひとときは終わりを告げた。エレタナは身体を離す。玄関広間の方だ。みぞおちがぎゅっとしめつけられる。
 デューは、気遣うように腕に力を込めた。
ようを見てくる」
「わたしも行くわ」
 すぐに部屋を出て、玄関広間に通じる大階段へ急いだ。
 吹き抜けになった広間で、衛兵たちがひとりの少年を取り囲んでいる。少年はれた声でなにかを必死に叫んでいた。
 エレタナは足を止める。
「先に行っていて」デューにいい、さっと身をひるがえした。
 
「なにごとだ?」
 デューが駆けつけると、手前にいた兵士がぱっと敬礼をした。
「レイン少佐。うすぎたなぞうが少佐に会いたいといってきたのです。それが、やけに立派な馬に乗ってきて、仲間がその馬のことを||
「デュー!」衛兵に囲まれていた少年が、身をせりだして叫ぶ。
 デューは目を丸くした。セティ・ロルダの館から忽然こつぜんと姿を消したウォルダナの少年のひとりだ。
「ジョージョー!」
 知り合いだとわかると、衛兵たちは道を空けた。デューはジョージョーに駆け寄り、細い肩を抱える。
「だいじょうぶか?」
 ジョージョーは必死の形相ぎょうそうで彼を見た。
「ユナが||ユナが||
「ユナがどうした?」
 ジョージョーはあえぎながら、なにかいおうと、ぱくぱくと口を動かす。
「落ち着いて話すんだ。ユナと一緒だったのか?」
 ジョージョーはうなずく。
「それで、ユナは?」
「さらわれました」
 デューは息を呑む。
「ゆうべ||灰色に||」ジョージョーの目がうつろになり、足もとから力が抜ける。
 さっとその身体を支えると、誰かが、デューの腕にふれた。エレタナだった。
「リュールを持ってきたわ」彼女はいい、小さなガラス瓶をジョージョーの口に近づけ、金色の液体を含ませる。
 ジョージョーははっと目をあけた。
 ふたりは彼を支えて歩き、壁際かべぎわながに座らせ、両側に座る。ヨルセイスも駆けつけ、かたわらに来た。
「ジョージョー」デューはつとめて落ち着いた声で聞く。「ユナはどこでさらわれた?」
「農場です||ロサの||
「ユナは、剣を見つけたのか?」
 ジョージョーは激しくうなずいた。
「だのに奴ら||くやしそうに言葉を切り、「いま、ヒューディがあとを追ってます」
「ヒューディが? ルドウィンはどうした?」
 ジョージョーは、黙ったままつうなまなざしでデューを見た。
「まさか……」
「フォゼも||」彼は言葉を切る。それから、デューの腕をぎゅっとつかんだ。「早く||早くユナたちを||
 デューはうなずく。
「奴らはロサからどっちへ向かった?」
「西です」
「アデラの方角ではないですね」ヨルセイスがいった。
「そうだな」
「もしかすると||
 ヨルセイスの声をさえぎり、使者のかんを告げるつのぶえが響いた。
 デューは、はっとしてそちらを見る。それから、ヨルセイスとばやく視線を交わした。
「ジョージョーを頼む」エレタナにいい、ふたりは走り出す。
 表に飛びだすと、宵闇よいやみが迫るなか、ヨルセイスのあしはやのように駆けてきた。
「ワイス!」
 デューは叫び、くずおれるように馬から降りたワイスを、両腕で抱きとめる。
「レイン||
 ワイスは身体を離し、肩で激しく息をしながら、切迫した表情で彼を見た。
「ダイロスの迷宮跡に、巨大な宮殿が造られている。灰色の大軍が待機して、連合軍の消えた部隊もすべてそこに||。アデラにいるのは影武者だ。グルバダは、その新たな宮殿にいる」