28

 デュー・レインはテラスの欄干らんかんに身をあずけ、暮れなずむ空をながめていた。
 かつては天文台だった古い建物には、ほかに人影はない。駐屯地の遠い喧騒けんそう、葉れの音と鳥のさえずりが聞こえるだけで、あたりは静かだ。
 テラスからは、緑の木立のなか、先ほどまで作戦会議に参加していた連合軍司令部の砂色の建物が垣間見え、木立の彼方には、テタイア南部の遠い山並みを見晴らすことができる。
 金色と色の雲が西の空を染め、東の空には水晶のような月がかかっている。二日後は満月。そして、その七日後は
 テタイアでは、古くから夏至を盛大に祝う習わしがあり、満月は永遠の象徴とされている。夏至の前の満月は特に神聖であると信じられており、例年、その日から夏至までは停戦協定が結ばれていた。
 しかし、戦争が一気に拡大したいま、停戦を呼びかける声はなく、連合軍司令部では、連日緊迫きんぱくした空気が張りつめ、しゅく気分はじんもなかった。
 ドロテ軍は先日、ついにテダントンに侵攻。いまやルシナンとの国境も打ち破ろうとしている。
 一方、彼ら連合軍は、ヴェテールを奪還だっかんし、グルバダが指揮をるアデラの一歩手前まで迫ったものの、その後は苦しい戦いをいられていた。人間とフィーンの援軍に対して、グルバダは灰色の大軍を送り込んできたからだ。
 現在ドロテ軍は、アデラの南で、総攻撃に備えて着々と準備を進めており、それを迎え撃つべく、デューは明後日の早朝、ヨルセイスとともにこの地を発つ。
 そのような切迫した状況下、ダイロスの剣の探求者と、彼らのもとへ送った使者、そして、消える部隊の謎を追ったワイスは、いまだに戻っていない。
「自分も一緒に行くべきだったと思っているんじゃないでしょうね?」
 背後で響いた声に、デューは振り返る。
 いつのまに上がってきたのか。長い金髪を夕風にそよがせて、ヨルセイスが歩み寄ってきた。
「ワイスなら、必ず戻ってきます」彼はにっこりする。「わたしの馬は、どんなときでも乗り手を守ります」
「だが、馬が行けない場所もある。あいつは、いざとなったら身の危険をかえりみず、敵のただ中に潜り込む」
「彼は、必要以上のちゃはしません。今回は、いち早く情報を持ち帰ることがかんじんだと、わかっているはずです」 
 ヨルセイスは、ワイスのことをほとんど知らない。けれども、その声とまっすぐなまなざしは、どちらも確信に満ち、デューの不安は不思議と消えていった。
「待ちましょう」ヨルセイスはデューを見つめたまま静かにいう。「なにごとにも、待つべきときと、動くべきときがあります」
 ユナたちのこともいっているのがわかった。
「そうだな」彼はうなずく。
 ヨルセイスは、彼と並んで欄干にもたれかかった。
 そのまなざしは、遠い山並みにそそがれる。黄昏たそがれの光の中で、薄い水色の瞳が神秘的に輝いた。あの山並みの彼方、白銀の川の対岸には、フィーンの国エルディラーヌがある。そのはるかなる故郷へ思いをせているのだろうか。
 いつかセティ・ロルダの館でエレタナが話してくれたことがある。白銀の川の河畔にたたずむ王宮は、黄昏の館と呼ばれるその古い館と同じように、黄昏どきには夕陽にえ、本当に美しいと。
 あれはまだ、彼女に出逢って間もないころだった。そのときの夢見るような紫の瞳に、ヴェテールに旅立つ前日の悲しげな瞳が重なる。
 ||愛をささげた人は、ただひとりです||
 あの朝、彼は思い知らされたのだった。彼女の心に自分が入る余地は、どこにもないのだと。
 その瞬間、世界からすべての色が消えた。けれども、愛するものを失った彼女の永遠の孤独を思うと、その痛みは自分の痛み以上にたえがたかった。
 二千年前、フィーンの王が大会議を開いて、ランドリア王子が王宮を訪れ、ふたりが恋に落ちたとき、彼女は十六歳だった。王宮で大切に育てられた末の王女にとって、それは初めての恋だったろう。
 デューはため息をつく。
 思いを打ち明けたあの朝から、エレタナとのあいだには、微妙な距離ができていた。五日前、ヨルセイスとともにこの司令部に着いたとき、彼女は笑顔で出迎えてくれたが、その抱擁ほうようは、ヨルセイスへの抱擁と比べて、ごく短く控えめなものだった。
 あれから、ユナの身を案じて日ごとに表情をかげらせてゆく彼女を、彼はただ見守ることしかできないでいる。
 先ほどの会議でも、彼女は言葉少なだった。そして、終わると誰とも話さずに、部屋に戻っていった。その後ろ姿を見送ったあと、彼はあてもなく木立をさまよい、この古い天文台まで歩いてきたのだった。
 黄昏の空のもと、彼は木立のあいだに垣間見える砂色の建物を見つめ、静かに呼びかける。
「ヨルセイス」
 ヨルセイスは彼の方を見た。
「エレタナは王宮で生まれ育ったといっていたが、きみもそうなのか?」
「いいえ」短い間。「わたしは海辺で育ちました」
「海か」デューは彼の方に顔を向け、微笑する。「じゃあ、一緒だな」
「ええ」ヨルセイスは笑みを返し、「わたしの故郷は小さな入り江で、スリン・ホラムのように大きな港街ではありませんが、黄昏どきや夜明け前は、息をむほど美しかったものです」
「そこへは、時々帰るのか?」
「いいえ」彼は目をふせ、それから、遠いまなざしをした。
 デューは黙ってその横顔を見つめる。淡い光を帯びた瞳はどこか悲しげで、夜明け前の海のようにおだやかだ。
 ヨルセイスは、ふところから小さな横笛を取りだし、そっとくちびるにあてた。
 美しく切ない調べが、異国の夕べに静かに流れる。フィーンのあいだに伝わる古い歌だといって、これまでも、何度か奏でてくれた曲だった。
 デューは笛の音に身をゆだねる。
 セティ・ロルダの館で初めて聞いたときから、不思議ななつかしさを覚えたものだったが、いま、どこか遠くの星から聞こえてくるようなその調べは、これまでになく激しく、彼の心を揺さぶった。
 彼は瞳を閉じる。胸がしめつけられるようだ。
 遠い昔、この調べに乗せて、誰かが歌を歌っていなかっただろうか? ここではない、どこかほかの世界で、水晶のように澄んだ声で……。