第27章 前半へ12第27章 後半へ

27

 日がかなり高く昇ったころ、悠然と流れる川が見えてきた。川にかかる橋の手前には検問所があり、衛兵たちの姿が見える。
 ユナの前、イーラス大佐と並んで馬を走らせている灰色は、ずっと軍旗を掲げていたが、橋が迫ってきたところで速度を落とした。衛兵たちは、さっと敬礼の姿勢を取り、大佐と灰色は騎乗のまま橋の上を駆けてゆく。
 全員がそれに続いて、対岸へ渡ったところで河畔へと降りた。
「休憩だ」大きく馬首を返すと、イーラス大佐はユナを乗せた灰色に告げる。
 ずっと氷のような腕に抱えられてきたせいか、ユナはこごえきっていた。
 馬から降ろされたあと、寒気はいっそうひどくなり、ガタガタと震えていると、イーラス大佐があとから来た灰色たちに火をくよう命じた。
 数騎が馬から降り、手早く枯れ枝を集めて火を起こす。
 怖がっていると思われるのがしゃくで、ユナは震えを止めようと両腕をぎゅっと抱き、渡ってきたばかりの流れを見つめた。
 この先、上流のほうは、あの嵐に見舞われなかったのだろうか。小高い丘のあいだをゆったりとう流れは清らかで、まばゆい陽ざしを受けてきらきらと輝いている。
 太陽の位置から、ずっと西北西に向かっているのはわかっていた。
 頭の中には、おおよその地図がある。このあたりに急峻きゅうしゅんな山はないはずだ。襲われた牧場から、ほぼ同じ方向に進んできたとみて間違いない。
 だとすると、これは蒼穹そうきゅうの川。テタイア王国の西端、蒼穹山脈から流れる大河だ。
 世界が死の吹雪に包まれたあと、蒼穹の川は大きく流れを変え、二千年前に流れていた土地から姿を消したと伝えられている。そのため、かつて緑豊かだったその流域一帯は、いつしか荒地に変わり、河畔に近かった伝説の都を見つけるのは、なんわざだといわれてきた。
 しかし、ドロテ軍は、その幻の古代都市を発見し、グルバダはそこで、影の剣を見つけたという。
 旅の終着点は、彼らが見つけたそのダイロスの迷宮跡だ。ユナの直感は、そう告げていた。
 かつてダイロスはその地で、光と影、二本の剣の魔力を使い、不死身の騎士を生みだした。グルバダは、二千年前と同じ場所で、同じことをしようとしているのだ。
 そんなことが許されてよいはずはない。それは、神の領域だ。
 ユナはイーラス大佐の方へ目をやる。大佐はこちらに背を向け、ユナを乗せてきた長身の灰色を従えて、河畔を歩いていた。その腰には、光の剣をおさめた美しい銀の鞘がきらめいている。
 あの剣さえ取り戻すことができたら……。ユナはくちびるをむ。
 だが、彼がそれを一瞬でも離すことがあるとは思えなかった。
 パチパチという音に振り返ると、焚き火が赤々と燃えていた。灰色に身振りでうながされ、火の前に座る。
 灰色は、今朝と同じパンを差しだした。今回は、匂いをかいでも、吐き気はもよおさなかったが、かんがして、冷たいパンを食べる気にはなれなかった。
 ユナがかぶりを振ると、灰色はお茶をかしにかかる。
 ユナを乗せていた長身の灰色が戻ってきた。イーラス大佐は、少し離れた大きな岩に、腰を下ろして足を組み、その上にほお杖をついて、滔々とうとうと流れる川に目を向ける。
 対岸では、検問所の衛兵たちが、剣の手合わせをしていた。的をえて弓のけいに励む者や、馬を走らせている兵士もいる。彼らはごく普通の若者に見えた。どこにでもいるごく普通の若者に。
 いったい、どんな経緯でドロテ兵になったのだろう。
 内戦が起きた当初、イナン王子の掲げた強い国家という理念に共鳴したのだろうか。あるいは、その後、グルバダが実権を握ったとき、永遠の命ほしさに入隊したのだろうか。それとも、もともと王立軍の一員で、所属する部隊がドロテ側についたため、否応なしに、それに従っただけなのだろうか。
 火にかけていたお茶が沸き、例の長身の灰色が、湯気を立てているお茶を金属のカップに注いで大佐のもとに運ぶ。そのあと、ユナにも一杯差しだすと、焚き火をはさんで彼女の前に座った。残りの灰色はすでに馬のもとに戻って、遠巻きにこちらを囲んでいる。
 ユナはふるえる手でカップを包み、少しずつ熱いお茶をすすって、なんとか身体を温めようとした。
 灰色は、炎越しにじっとこちらを見つめている。フードを目深にかぶり、ユナの方からは、顔つきも表情もうかがい知ることはできない。耳ざわりでこもったような息づかいが聞こえるなか、拍車はくしゃつきの長靴ちょうかや、黒い革手袋をはめた手には、ひとかけらのぬくもりも感じられなかった。
 目の前にいるこの男は、その昔、本当に自分と同じ血の通う人間だったのだろうか。
「ねえ」ユナはフードの奥を見る。「ほんとに二千年もさまよってたの?」
 灰色はこたえなかった。
「人間だったときのこと、覚えてる?」
 やはり、返答はない。
「名前は?」
 問いかけは、みたび宙に浮き、焚き火の音とせせらぎの音だけがあたりに響く。
 人質とは口をきかないことにしているのだろうか。それか、実際に覚えていなくて話せないのかもしれない。おそらく、その両方だろう。永遠の命と引き替えに魂を失った瞬間、きっとそうした記憶も失ってしまったのだ。
「家族はいたの?」
 一瞬、相手が厚いマントの下でわずかに身じろぎした。
 いや、気のせいか||。ユナはまばたきをする。目がかすんで、灰色が二重に見える。
 風が吹きつけ、焚き火の炎を揺らめかせた。その炎を見つめながら、ユナはぶるっと身をふるわせる。熱いお茶を飲んでも、まだ悪寒がおさまらない。身体の芯が冷え切っているのだろう。
 ユナは灰色に目を戻した。いったい、この無口な男に、人間的なところが少しでも残っているのだろうかといぶかりながら。
「人間に戻りたいって思ったことない?」
 またもや、かたくなな沈黙が返ってきただけだった。ユナはため息をつく。
 きっと、ダイロスに魂を売ったとき、人間らしさはひとかけらもなく消え失せたのだろう。
「ダイロスのこと、覚えてる?」
 一瞬の間。それから、ごく微かな緊張がその身体に走った気がした。
「どんな人だった?」ユナはささやく。
 そのとき、長靴の音を響かせて、大佐が立ちあがった。
「行くぞ」
 長身の灰色もさっと立ちあがり、片手を挙げて周りの仲間に合図を送る。
 ユナはもう一度ため息をつき、カップを手に立ちあがった。そのとたん、くずおれるようにその場に倒れ込む。
 いったいどうしたんだろう。起きなきゃ。そう思って立とうとしたが、身体から力が抜けて、まったくいうことをきかない。
 灰色がなにかいった。足音が聞こえ、はがねのように冷たい腕が、彼女を抱き上げる。
 全身に鋭い痛みが走り、思わず悲鳴を上げた。
 灰色がもう一度なにかいう。あるいは、大佐だろうか?
 灰色が歩き始める。その振動が、ひと足ごとに、関節という関節に響く。
 助けて……。ユナは心でささやいた。
 それに応えるように、左手首でダイヤモンドがかすかにさざめく。そのほのかな感覚を最後に、なにもわからなくなった。