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 若駒わかごまは、アリドリアスに勝るとも劣らない素晴らしい馬だった。並外れたしゅんそくで、持久力にもすぐれ、ヒューディの思いを察し、灰色どもを追ってどこまでも駆けてゆく。
 ひづめの音をたよりに、匂いをたどっているのか。降るような星空の下、険しい丘が連なる彼方に、彼らのシルエットが垣間見えた瞬間が、何度かあった。
 その後、疲れを知らぬ漆黒しっこくの馬との距離は次第に開き、その姿を見ることはできなくなったが、若駒は確信をもって追っていた。
 灰色は十騎前後。ユナを襲った際は、近くで待ち伏せしていたのか。あるいは、いつかルシナンの草原で襲ってきたときのように、音を忍ばせて近づいてきたのだろうか。
 ヒューディはくちびるをむ。ユナをひとりにするんじゃなかった。一緒に盗みに入った方がよほど安全だったのだ。彼女から目を離さないとルドウィンに約束したのに、一度ならず二度までも||
 連合軍の情報によると、グルバダは、ルシタナの生まれかわりよりも先に光の剣を手にすべく、長年にわたってダイロスの迷宮跡を探していたという。そして、ついにその遺跡を探しあて、対をなす影の剣を見つけたが、光の剣は見つからなかった。
 これまで彼が、ユナを生け捕りにしようとしていたのは、おそらく、彼女を使って光の剣を探すためだ。しかし、剣はすでにそこにある。そしてグルバダは、すでにその知らせを受けているのではないか?
 もしもグルバダが、、預言の成就を恐れ、剣が見つかり次第、ユナを殺すように命じていたら? そして、灰色どもは、その証拠に彼女の亡骸なきがらを運んでいるのだとしたら||
 落ち着け、ヒューディ。奴らは、剣とともに、ユナを連れてくるよう命じられているに違いない。
 二千年前、大いなるダイヤモンドを失ってから、フィーンには、新たな子は生まれなくなった。しかし、ランドリアが人間だったために、エレタナとのあいだにルシタナが生まれたのだ。
 ルシタナは、いわば、フィーンの血を引く最後のひとり。しかも、フィーンの王の正統なまつえいだ。そして、ユナはそのルシタナの生まれかわり。王を始め、フィーンたちのユナへの思いは、ひとかたならぬものがあるだろう。
 グルバダは当然、ユナには人質としてきわめて高い価値があることに気がついている。ならば、むやみに傷つけたり命を奪ったりすることはすまい。
 ヨルセイスは、灰色の騎士は眠らないし、彼らの漆黒の馬は疲れを知らずに何日も走り続けるといっていた。
 だが、大切な人質を消耗させるような無茶な走りはしないはずだ。おそらく、休息だってとる。
 すべて希望的な観測かもしれない。けれど、ヒューディはそれに賭けた。
 
 ユナはきりの漂う沼地にいた。
 背後から暗黒が迫ってくる。敵意を抱いた底知れぬやみだ。
 走り出したとたん、ぬかるみに足を取られて腰まで埋まった。
 ああ、追いつかれる||。恐怖に駆られながら、ユナは振り向く。
 霧の向こうから黒い波が押し寄せてきた。波の先から氷のような手がぐっと伸び、彼女の喉もとをつかむ。
 ユナは声にならない悲鳴を上げた||
 
 風がほおをかすめ、ユナははっとまばたきする。
 降るような星空が見えた。せせらぎの音とき火の匂い。顔を横に向けると、炎が赤々と燃えていた。そこは草地で、ユナの下には麻の布が敷かれている。
 どうしてこんなところに?
 そう思ったとたん、記憶がよみがえった。
 深夜の牧場。背後の茂みから飛びだしてきた黒い影。はがねのような冷たい腕。口に押しあてられた布の、強い薬品の匂い||
 逃げなきゃ!
 反射的に飛び起きようとする。が、身体がひどく重く、動かすことができない。
「もう少し休んだほうがいい」
 低い声がした。ひどくしゃがれている。これまで聞いた灰色のものとは、明らかに異質な声。
「彼らは休む必要はないが、われわれには必要だ」
 われわれ……。
 話しているのは人間なのか? あの鋼のような冷たい腕の感触は、まぎれもなく灰色のものだったが、人間のドロテ兵も一緒なのだろうか?
 声がした方を向こうとしたとたん、強い目まいに襲われ、地面がぐるぐる回り始めた。
 しゃがれ声が、またなにかいう。そして、なにも聞こえなくなった。
 
 気がつくと、あい色の空に星がまたたくなか、焚き火の匂いとせせらぎの音がした。あれからずっと、ひとところにいるのだろう。
 ユナはゆっくりと上体を起こす。目まいはおさまっていたが、まだ少し頭がぼうっとして、身体中がひどくだるく、あちこちが痛んだ。
 そこは、広々とした盆地状の草原だった。
 ところどころに灌木かんぼくが茂り、星々を映して澄んだ小川が流れている。少し離れたところでは、騎乗したままの灰色たちが、亡霊のような姿を闇に浮かび上がらせていた。
「目が覚めたようだな」
 突然近くで声が響き、ユナは飛び上がりそうになる。
 揺らめく炎の向こう、真っ黒なマントをまとった男が、折りたたみ式のに腰掛けて、飲み物を飲んでいた。
「ちょうどよい。じき出発だ」ゆうべと同じしゃがれ声。
 ユナは黙って相手を見つめる。
 ほおがこけた、神経質そうな男だった。マントの上からでも、せているのがわかる。その下からのぞいているのはドロテ将校の軍服。腰には二本の剣。
 ユナは、無意識のうちに自分の腰に手を伸ばす。しかし、そうしなくとも、もはやなにもないことはわかっていた。将校の剣の片方は、美しい銀のさやにおさまっている。光の剣||
「それ、あなたの剣じゃないわよ」ユナは冷ややかにいう。
 恐怖心よりも、悔しさと怒りのほうがまさっていた。ルドウィンが命をけて守った剣を、むざむざ奪い返されてしまったなんて。
「そう。わたしのものではない」将校は表情ひとつ変えずにこたえた。「これは、グルバダ元帥げんすいのものだ」
「違うわ。フィーンのものよ」ユナはきっぱりという。
 将校は、鼻先でわずかに笑っただけだった。ユナがいったことには、とりあう価値すらないとでもいうように。
 ユナはくちびるを噛み、両手をぎゅっと握りしめる。と、左手首に、微かな振動があった。
 ダイヤモンドのブレスレット||
 思わず手首に目を落とし、すぐにはっとする。
 ドロテ将校は、どこか爬虫はちゅう類を思わす目に赤い炎を映し、じっとユナを見ていた。心臓がものすごい勢いで打ち始める。
 将校は後ろを向き、飲み物のカップを抱えた片手を掲げた。
 そのときになってはじめて、ユナは、片ひざをついた灰色が、将校の数歩後ろに控えていることに気がついた。
 灰色は、合図を受けてさっと立ちあがる。背の高い男だった。
「イーラス大佐」こもったような声で、将校に応じる。
「娘に、飲み物とパンを」
「承知しました、大佐」
 ユナはほっと胸をなでおろす。どうやら、気づかれたのではなかったようだ。
 彼女は、まだなかばぼうっとしている頭を、懸命に回転させる。
 光の剣は奪われたが、イーラス大佐と呼ばれた将校も、牧場で彼女を襲った灰色も||おそらくその灰色がここまで彼女を抱えてきたのだろうに||ブレスレットには気づいていない。
 ユナ自身も、いまダイヤモンドがさざめくまで、その存在をまったく忘れていた。三粒のダイヤモンドは、おそらく、ずっとなりをひそめていたのだ。そうすることで自らを守るかのように。
 そしていま、ダイヤモンドはその不可思議な力で、ユナのことを守っているのではないか。
 灰色が目の前に来て、飲み物とパンをさしだした。その匂いにむっときて、たちまち吐き気に襲われる。
 片手で口をおおってせせらぎのほとりに行くと、ユナは身をかがめて戻し始めた。