「心配ない。薬のせいだ」
 よろめきながら焚き火の前に戻ってきたユナに、イーラス大佐と呼ばれた男がいった。
 ユナはこたえる元気もなかった。ため息をつき、ひざを抱えて座る。
 灰色が、今度は飲み物だけをさしだした。ためらっていると、炎越しに大佐がいう。
「毒ではない。飲むと気分が楽になる」
 ユナは、受け取って匂いをかいだ。テタイアでよく飲まれている普通のお茶のようだ。湯気をふうふうと吹いたあと、ひと口すすってみる。
 大佐がいったことは本当だった。むかむかしていた胃が、すうっと落ち着いてゆく。
 ユナはほっと息をつき、おどる炎を見つめた。
 ヒューディとジョージョーは無事だろうか。わたしを薬で眠らせたあと、灰色たちはそのままあの場から去ったのか、それとも||
「いつからあとをつけていたの?」ユナは大佐を見る。「わたしの友だちに、ひどいことしてないでしょうね?」
 殺すという言葉は、とても口にできなかった。
「彼らに手出しはしていない」
 大佐はこたえ、ユナは安堵のため息をもらす。
「彼らが休まずに追ってきたとしても、われわれには追いつけまい」彼は淡々と言葉を継ぎ、「追いついたところで、その場で始末するまでだ」
 ユナは黙って大佐をにらむ。
 だからそのままにしたのだろう。けれど、アリドリアスは素晴らしい馬だ。もしかしたら、ヒューディは追ってきてくれるかもしれない。少なくとも、彼らは司令部に行って、なにが起こったかを伝えてくれるはずだ。
 熱いお茶は、ぼうっと霧がかかったようだった頭にも作用した。飲みながら、できるだけ冷静に状況を分析してみる。
 灰色は十騎。人間の将校が一名。この場で剣を奪い返して逃げるのは、どうみても不可能だ。
 イーラス大佐はグルバダの側近だろう。ユナに対する丁重ていちょうな扱いは、きっとグルバダの指示によるものだ。
 りょとして戦争の取引に使うつもりなのか、あるいは、自分の手で確実に殺したいと思っているのか。そのあたりはわからないが、少なくとも、グルバダの前に突きだされるまでは、殺されることはないのではないか。
 そのグルバダはいま、アデラで指揮を執っているはずだ。
「アデラに向かっているの?」ユナはたずねる。
 大佐の顔にはなんの変化もなかった。
「出発の時間だ」彼はおもむろに腰をあげ、先ほどの長身の灰色に、ユナを乗せていくよう命じる。
 灰色は敬礼をし、片手を高く上げて指を鳴らす。遠巻きに彼らを囲んでいた仲間が、乗り手のいない二頭の馬を引き連れてきた。
 灰色にうながされるまま、ユナはそのうちの一頭に乗る。
 いまは生き延びることだけを考えよう。生きていれば、希望はある。剣を取り戻す方法が浮かぶかもしれないし、そのうち助けが来るかもしれない。
 灰色は、片手で手綱をつかんでユナの後ろにまたがると、あいている腕でユナをがっしりと抱える。はがねのような冷たい腕と身体にはさまれ、うなじにかかる息もぞっとするほど冷たい。そのこもったような息づかいを聞いているだけで、また胃がむかつきそうだった。
 大佐が声をかけ、別の一騎とともに先頭に立つ。ユナを乗せた灰色がそれに続いた。
 ユナは身を乗りだすように振り返る。
 後続の騎士たちの彼方、丘の稜線りょうせんがうっすら白み始めているのが見えた。夜明けが近いのがわかった。そして、アデラに向かっているのではないことも。
 
 若駒わかごまは、使命を帯びた戦士のように、揺るぎない足取りで灰色どもの跡を追っていた。
 進路は西北西。切り立った崖や流れの急な川が現れるたびに迂回しながら、基本的には西北西の方角だ。
 いまやヒューディには、彼らがどこに向かっているかわかっていた。
 目指しているのは、伝説の古代遺跡。天変地異で消えたといわれるダイロスの迷宮跡。
 グルバダは、きっとその発掘現場にいる。ひそかにアデラを発ち、その過去の栄光の地で、発掘と全軍のすべての指揮をっているのだ。
 ヒューディは、彼と同じく孤独な旅の途上にいるジョージョーのことを思った。
 無事、連合軍司令部にたどりつき、デューに会うことができるだろうか? そしてデューは、ユナがどこに連れ去られたかを察し、助けにきてくれるだろうか? おそらく、首都防衛の決戦は近い。もしも、彼やヨルセイスがすでに司令部を発っていたら?
 考え始めるときりがなかった。だが、いまここでそんな心配をしても、ユナを救えるわけではない。ヒューディは手綱をぎゅっと握りしめ、いっさいの不安を封印する。
 あたりが少しずつ明るくなってきた。小高い丘にさしかかる。岩だらけの急斜面だ。
 そして、ヒューディも若駒も心臓が破れてしまうかと思われたとき、そのいただきで、若駒が足を止めた。
 ヒューディは目をしばたたく。
 眼下には盆地状の草地が広がり、ひづめの跡が続く先に、焚き火の跡が残っていた。まわりには灌木かんぼくの茂みが点在し、どこから水が湧いているのか、細い小川が流れている。
 ヒューディは、はやる気持ちをおさえて、一気に丘を駆けおりた。
 
 焚き火はまだくすぶっていた。ヒューディの心に希望が芽生える。ユナのために休んだのだ。灰色どもはそんな必要などないのだから。
 おりしも、駆け降りてきた丘から朝日が射し、草に残ったいくつもの長靴ちょうかの跡を浮かび上がらせた。それよりずっと小さな足跡も、うっすらと残っている。
 間違いない。レクストゥールにもらったという、やわらかな革の編み上げ靴の跡。
 ユナは、生きている||
 全身の力が抜けた。すぐに追いかければ、ユナたちの姿が見えるだろうか。けれど、もう限界だった。
 若駒にも自分にも、休みが必要だ。この先、敵の巣窟そうくつまで追い続け、そこで待ち受けるものに対して、できる限りそなえるためにも。
 ヒューディは、よろめきながらせせらぎのほとりに行き、新鮮な水で喉をうるおすと、倒れるように横になる。
 近くで草をはんでいた若駒が、大きな濡れた瞳をこちらに向けた。
「おやすみ、相棒」
 ヒューディはささやき、またたくまに深い眠りに落ちた。