ヒューディは、ふたたび若駒を走らせていた。
 若駒わかごまは最初の勢いを取り戻し、岩場の多い丘陵地帯を軽やかに駆けてゆく。引きしまった明るい身体は日の光を帯びて輝き、鹿というよりはく色に近い。
 ふと、琥珀アンバーという名が浮かんだ。本当の名は知るよしもないが、自分なら、きっとそう名づけるだろう。
 けれど、名前で呼んだりしたら、いっそう情が湧く。若駒は、終着点に着いたら手放すつもりだった。賢い馬だ。きっと生まれ育った牧場に帰りつくだろう。
 向かうは敵地。そこら中にドロテ兵や灰色どもがいる。若駒をどこかにつないで待たせておくわけにはいかない。そんなことをすれば、自分が侵入したあかしを残すことになる。脱出する際は、彼らの馬を失敬するしかないだろう。
 ただ、どうにかしゅよくもぐり込めたとして、ユナを救い出し、光の剣を奪い返して、そこから脱することなどできるのか?
 ユナは伝説のルシタナの生まれ変わりだ。だが、自分はなんのとりえもない平凡な少年に過ぎない。
 ||ヒューディ・ローですと? まだほんの少年だ。それに、なんの戦歴もない||
 ||戦歴がないどころか、入隊して訓練を受けたことすらないではありませんか||
 旅立つ前の作戦会議で、ルドウィンが彼を連れて行くといったとき、いっせいに上がった非難の声がよみがえる。
 ||ルドウィン殿下、女と子ども連れとあっては、両手に大きな荷物を抱えていくようなものですぞ||
 遺跡についたら、へたに動いたりせず、助けが来るのを待つべきかもしれない。
 けれど、もしジョージョーが司令部にたどりつけなかったら、ユナと彼のことを知る者はいないのだ。それに、もしそれまでにユナの身になにかあったら? 万が一、グルバダが、預言にうたわれた者は死んだと知らしめるために、衆人しゅうじんかんのなかで、彼女を処刑しようとしていたら||
 えんでもない。ヒューディは、ぞっとしてかぶりを振る。余計なことは考えるな。まずは、ユナのあとを追うことだけに集中しろ。
 
 その後しばらく走って、もう一度短い休みを取ったあと、ヒューディは灌木かんぼくの森に入った。
 ほとんどがマレンの木で、この国に入った当初まだ青かった実は、いまや太陽のもとで金色に輝き、みずみずしく甘酸っぱい香りを漂わせている。
 空腹の胃が、なにかよこせと訴えた。ルドウィンから生の実には毒があると聞いていたが、これだけ熟していればだいじょうぶではないか。
 いや。若駒は見向きもせずに駆けている。手を出さない方が賢明けんめいだ。
 その若駒が、森を抜けたところで立ち止まった。なにかを聞きつけたように耳をピンと立てる。
 ヒューディは、傾き始めた太陽に目を細め、片手をかざして行く手を見晴らした。その先は下り斜面になっており、眼下には、ゆるやかにこうする流れが見える。
 蒼穹そうきゅうの川に違いない。蒼穹山脈に水源を発し、二千年前、美しい古代都市のふもとを流れていたという壮大な川だ。
 このまま進むと、その川にかかる橋を渡ることになるが、橋の手前には検問所があった。河畔では、衛兵が剣の手合わせや弓の稽古をしている。その喧騒けんそうが、若駒を警戒させたのだろう。
「そうだな、相棒」ヒューディは、湯気を立てている若駒の首をぽんぽんと叩く。「かいしよう」
 見渡す限り、橋はそのひとつだけだったので、ヒューディは浅瀬を渡ろうと下流に向かった。
 下流は穏やかそうに見えたが、実際にたどりついてみると、遠くから見るよりずっと流れが速かった。
 しかし、若駒はすこぶる落ち着いており、ヒューディの意志を感じとって、迷わず水に入ってゆく。中ほどの、最も深く流れが速いところでも、その足はしっかり水底をとらえ、広い流れを渡りきった。
「いいぞ。よくやった」ヒューディは、冷たい水をしたたらせている友を、やさしくねぎらう。
 対岸にはこんもりとした木立があり、赤い実がたわわに実っていた。スモモのようだ。
 ヒューディは空腹を通り越して目が回りそうだった。若駒も、迷わずそちらに駆けてゆく。あんずやスモモは馬の好物だ。
 彼らは、新鮮な果実を思い思いにかじった。午後の陽ざしは強く、ずぶ濡れになった身には、すこぶるありがたかった。
 とはいえ、すっかり乾くまで休んではいられない。革の水筒に澄んだ川の水をたっぷり汲むと、ヒューディは追跡に戻る。
 ユナは無事だろうか。いまごろもう迷宮の発掘現場に着いているだろうか。たったひとりで、どんなに怖い思いをしているだろう。
 待ってろ、ユナ。いま行くから。きっと、きみを助けるから。
 次第に日が傾くなか、ヒューディは心に誓い、ひたすら若駒を走らせた。
 
 薬草の匂いがした。喉が焼けるように痛み、全身の節々もひどく痛む。
 朦朧もうろうとする意識のなか、ユナはとらわれの身だったことを思い出す。この感触は地面ではない。寝台だろうか。
 人の気配がした。目をあけようとしたが、まぶたが鉛のように重い。そのとき、左手首にかすかなさざめきを感じた。
 ダイヤモンドのブレスレット||
 次の瞬間、誰かがその手首にふれ、袖のボタンを外した。
 やめて! ユナはパニックになる。
 これだけは渡せない。このブレスレットは、わたしを守り、この世界につなぎとめる最後のとりで||
 必死にあらがおうとしたが、指一本動かすことができない。
 ブレスレットが外され、衝撃が心臓を貫く。そしてユナは、射止められた鳥のように、暗闇に落ちていった。