24

 大きな水しぶきが上がり、次の瞬間、ユナは水の上にはね起きていた。
 すべての音がやみ、静寂が世界を包む。聞こえるのは、自分の激しい息づかいだけだ。
 そこには魔犬の姿はなく、灰色の騎士の姿もなかった。彼らはまるで、最初から存在していなかったかのように、跡形もなく消えていた。ユナの腕や胸にも、爪痕ひとつ残っていない。左手首には嵐で負った傷があったが、光の剣は銀のさやにおさまって、腰の剣帯に留められていた。
 ユナは目をしばたたき、茫然ぼうぜんとあたりを見まわす。
 霧がゆっくりと晴れ、枯れた木々と陰気な沼地が、緑の森とやわらかな草地に変わってゆく。
 そして気がつくと、澄んだ泉のほとりにたたずんでいた。泉の底からはこんこんと水が湧き、さざ波がユナの素足と泉をふちどる草を洗っている。太陽の光が降りそそぎ、まわりの木立で小鳥たちが歌い始めた。
 ユナは立ち尽くす。
 これは夢だ。本当のわたしはにごった水に横たわり、死が訪れるのを待っている……。
「ユリディケ」りんとした女性の声が響いた。
 ユナはおずおずと振り返る。
 そこには、ひとりのフィーンがたたずんでいた。
 銀色の髪。薄い水色の瞳。長身に、たなびくオーロラのような衣装をまとい、月の光を帯びたように淡く輝いている。その姿は声と同じように凜として、静かな威厳があった。
 やはり夢だ。見知らぬフィーンがわたしの名前を呼ぶはずはない。
「夢ではありません」彼女の心を読んだかのように、フィーンはいった。
「でもわたし||灰色の騎士に追われて、ここで魔犬に襲われたんです。それに、ここは沼地でした」
「灰色の騎士や魔犬は、最初からいませんでした。それに、ここはずっと緑の森だったのですよ」
「じゃあ||あれが夢だったのですか?」
「あるいは、幻影といったほうがいいかもしれませんね。ここは訪れる者の心を映す森。人は森が罪を裁くといって怖れますが、そうではなく、己の心によって裁かれるのです」
 フィーンは言葉を切る。
「あなたは先ほど恐れや絶望に身をまかせましたね。あの魔犬も騎士も、あなたの心の中の影。ですから、あなたがそれを手放したとたん、跡形もなく消えたのです。あなたが自分を取り戻した瞬間に」
「いったい、あなたは……」
 薄い水色の瞳が、時の彼方からのようにユナを見つめた。
「わたしはレクストゥール。かつては、預言者レクストゥールと呼ばれていました」
 
 レクストゥールは澄んだ泉でユナの額の傷を洗い、セティ・ロルダの館でエレタナがルドウィンにしたように、そっと手をあてて癒した。傷口はきれいに閉じ、痛みもすっと引いていった。
 ほかの打ち身やり傷も丁寧ていねいに診たあと、レクストゥールは、森の中にひっそりとたたずむ家へとユナを案内した。
 家の前の草地には、一本のにれの木が枝を広げ、テーブルと切り株で作ったが置かれている。そのささやかな空間は、トネリコや名も知らぬ木々に縁どられ、煙突からは煙が上がって、あたりにはなんとも香ばしい香りがただよっていた。
「いい匂い」やわらかな草の上を歩きながら、ユナは急に空腹を覚えた。そういえば、ゆうべ眠りきのこ入りのスープをひとくち飲んだきり、なにも口にしていない。
「ちょうどパンが焼き上がるころです。一緒にいかが?」
 喜んでとこたえようとして、ふと、ヒューディとジョージョーのことを思い出す。
 なんてこと。
 われながら、あきれた。どうしていままで忘れていたのだろう? ふたりとも無事だろうか? いまごろ、どこでどうしているだろう?
「わたし、友だちを探さないと||
「ユナ。あなたが思い浮かべているお友だちは、ふたりとも無事ですよ」
「え?」ユナは驚いて彼女を見る。
「ここからさほど遠くにないところに一緒にいます。それから、あなたがずっと心にかけている別の人も」
 ユナはどきっとする。デューの顔が思い浮かんだ。
「ええ」レクストゥールはやさしくうなずいた。「その人です」
「じゃあ、ヴェテールは||
奪還だっかんしました」
「ヨルセイスも無事でしょうか? ワイス大尉は? みんな、連合軍司令部が変わったことを知ってるんですか?」
「ええ」
 ユナは安堵のため息をもらす。全身の力が抜けた。
「司令部の場所もあとで教えましょう。少し休んでから、お友だちを探せば、きっと会えますよ」
 レクストゥールはユナを家の中へ入れ、パンが焼き上がるまでのあいだに着替えるといいといって、奥の部屋から、生成りの衣装と金糸で縁取られた白いストールと、しなやかになめした革の編み上げ靴を持ってきた。
 服も編み上げ靴も、あつらえたようにぴったりだった。
 
 楡の木陰のテーブルには、林檎りんご酒と焼きたてのパン、チーズに蜂蜜、あんずやすもも、いちなど、みずみずしい森の果実が魔法のように並んでいる。
 そよ風がれの音を奏で、鳥たちが陽気にさえずるもと、シューシューと泡を立てる甘酸っぱい林檎酒を飲むうちに、ユナの中に新たな力があふれてくるようだった。
「わたしたち、二千年前にも会ったのでしょうか?」
 先ほど見知らぬフィーンだと思ったにもかかわらず、食事をするうちに、その薄い水色の瞳にどこかで出逢った気がしてきて、ユナはたずねる。
「いいえ。あのときは、直接会うことはかないませんでした」
 やはり気のせいか……。ユナは濃いはく色の蜂蜜をパンにたっぷりとのせ、大きな口を開けてほおばった。
「おいしい。この蜂蜜、すごくいい匂いがしますね」
「この森で咲く春の花の蜜です。ウォルダナにはない花が多いのではないかしら」
 ユナは、故郷の丘を水色に染めるローレアを思い出し、ちょっと切ない気持ちになる。その感傷をふりきるように、彼女は聞いた。
「エルディラーヌを離れてから、ずっとここに?」
「ええ」
「それなのに、なぜいろいろなことがわかるんですか? まるでその目で見てきたように」
 そよ風が木漏れ日を躍らせ、レクストゥールの長い銀色の髪をなびかせた。
「心の目で見て、心の耳で聴くのです。心は世界を映す水面。おだやかな水の面がすべてを映すように、心を静かにたもっていれば、いろいろなことがわかるのですよ。静けさの中では羽が落ちる音も聞こえるように、遠い微かな音も聞こえます。風の音、水の調べ、鳥の歌、人の思い、木々の囁き、石の声。すべてのものには翼があり、世界をめぐっているのですから。それに||
 薄い水色の瞳がいたずらっぽくきらめく。
「親しい者が夢で伝えてくれることもあります」
 親しい者||。ユナははっと思いあたる。
 レクストゥールはうなずいた。
「あの子は遠縁にあたります」
 レクストゥールの髪は銀色で、顔立ちも違う。けれど、瞳の色はヨルセイスと同じだ。とても澄んでいて、どこかその奥に悲しみを秘めたような薄い水色。どうしてすぐに気づかなかったのだろう。
 そこまで考え、つと眉をひそめる。
「じゃあ||エレタナとも?」
「そうなりますね」
 ユナはため息をつく。どちらもそんなことはひとこともいってなかった。
「わたしたちは、必要なこと以外、あまり話さないのです。||もちろん、例外もありますけれど」
「おしゃべりなフィーンもいるのですか?」
「ええ。なかには」
 レクストゥールは涼やかに笑い、ユナも笑う。ちょっと想像がつかないが、人に個性があるように、フィーンにもさまざまな個性があるのだろう。
「ヨルセイスは、あなたがここにいることを知っているのですか?」
「ええ。王宮を離れるとき、彼と王だけには、密かに別れを告げました」
 彼と王だけには……。では、エレタナは知らないのだ。
 「知らない方がいいこともあるのです」レクストゥールはユナを見つめ、静かにいった。
 それから彼女は、銀色羽衣草とすみれのお茶をれてくれた。やさしい香りのそのお茶を飲みながら、ユナはふと思った。
 もしかすると、レクストゥールがエルディラーヌを離れて人の世界に渡ってきたのは、いつかここで自分と会うためだったのだろうか。
「ええ。それもあります」
 それも……。では、それだけではないのだ。いったいほかにどんな理由で、ひとり故国を離れたのか。ユナには想像もできなかった。
 けれど、そこは立ち入ってはならない聖域だという気がして、たずねることはしなかった。レクストゥールも、それ以上なにもいわなかった。
 ユナはカップを両手で包み、ほのかに甘いお茶を飲む。やわらかな風が吹き、さわさわという葉擦れの音を奏でてゆく。
「今日のこと、ヨルセイスに夢で伝えるのですか?」
「そうしなくとも、彼はきっと、心のどこかで感じているでしょう」レクストゥールはほほえんだ。