23

 夜明け前のひんやりとした空気があたりを包んでいた。月はとうに沈み、西の空には名残の星が瞬いていたが、東の空が白んでくるなか、徐々に輝きを失いつつあった。
 ゆうべの荒れ模様からは信じられないような空。けれども地上では、ところどころなぎ倒された木が道をふさぎ、ごうごうと流れる茶色く濁った川は、嵐のすさまじさを無言のうちに語っている。
「渡ってみるか?」谷川にかかる長い橋を見ながら、ヒューディがいった。
「そうだな」ジョージョーはうなずく。
 上流から渡ってきたさわやかな風が橋の上を駆け抜け、彼らのストールをなびかせる。土ぼこりや砂でくすんでいたストールは、豪雨に洗われ、すっかりきれいになっている。
「これはあかつきの川じゃないかな」流れを見おろし、ヒューディはいった。
「暁の川||?」
「ああ。頭の中に入れておいた地図ではね」彼はジョージョーを見る。「それがどうかした?」
 一瞬ためらったあと、ジョージョーはいった。
「暁の川の下流には、恐ろしい森があるんだ」
「恐ろしい森?」内心どきっとする。「でも、ウォルダナの東の森ほどじゃないだろ?」
「比べものにならないよ。さばきの森といって、一度足を踏み入れたら、二度と生きては戻れない。ひい祖母ちゃんがいうには、美しい女に化けた魔女が住んでいて、旅人を誘惑しては、森に踏み入ったあがないとして命を奪うんだ。それはもう、いっそ生まれてこなけりゃよかったと思うほど、えらく残忍なやり方で」
 ヒューディはかたずをむ。
「もしユナが、その森に迷い込んでたらどうしよう? ヒューディ、探しに行くか?」
「もちろんさ。あたりまえじゃないか」ヒューディは寒気を覚えて腕をこすり、「けど、ユナはああ見えて案外しっかりしてるから、そんなところに迷い込んだりしないさ」言葉を切って、小さくいいそえる。「たぶん」
「そうだよな。ユナはそんなところには近づかないよな。でも||もしこのまま見つからなかったらどうしよう。なんか俺たち、さっきから、ただあてもなくさまよってるような気がしてならないよ」
 ヒューディは実際その通りだと思ったが、口に出してはいわなかった。
 せめて、なにか手がかりになるようなものが転がっていないだろうか。せめて、なにかひとつでも||
 そのとき、アリドリアスが不意に歩を緩め、ぴたりと止まった。
「どうした、アリドリアス?」ヒューディは眉をひそめる。
 と、雨ですっかり洗い流され、まだ濡れている橋の上で、小さな光がキラリと瞬いた。
 はっとして目を凝らす。夜明け前の薄明かりのなか、手すりの下で、なにかがふたたびきらめいた。
 ダイヤモンド||。大粒のダイヤモンドが三つ、繊細せんさいな銀のくさりに連なって、彼を呼ぶように輝いている。
 思わず飛び降り、身をかがめてそっと拾い上げる。これをめていたユナの手にふれたときと同じ、きらきらとした清冽せいれつな波動が伝わってきた。
「それは?」ジョージョーが馬上でいう。
「ユナのブレスレットだよ」ヒューディは立ち上がった。
「ユナの?」
 ヒューディはうなずく。
「セティ・ロルダの館でエレタナから贈られて、肌身離さず身につけていた」
 ブレスレットのことは、ジョージョーには打ち明けていなかった。けれど、いまや、彼もかけがえのない仲間ではないのか。
「大いなるダイヤモンドのかけらなんだ。このブレスレットが、ユナを剣の間へと導いてくれたんだよ」
「そうだったのか……」ジョージョーはダイヤモンドを見つめたままささやいた。それから、ぱっとヒューディを見る。「ユナはここを通ったんだ。まだ近くにいるかもしれない。もしかして、俺たちになにか知らせるために置いたのかも」
「ありえないよ。ユナがこのブレスレットを自分からはずすなんて、絶対にありえない」
「でも、だったらどうして||」ジョージョーの声がとぎれた。
 彼の視線をたどり、ヒューディは息を呑む。
 ジョージョーが見つめていたのは、橋のらんかん。そこには、真新しい傷がくっきりと刻まれていた。なにかが思い切りぶつかったかのような跡だった。
 
 ごうごうという激しい音にまじって、鳥たちのさえずりが聞こえた。まぶたにまばゆいものを感じ、ユナは瞬きする。目を開けたとたん、明るい光がさっと射し込んできた。
 全身がきしむように痛んだ。小さくうめいて、ゆっくりと上半身を起こす。
 ユナは、こうした川の岸辺にいた。にごった水がごうごうと音を立てて流れ、彼方の丘から、太陽がその日の最初の光を、金色のリボンにしてこちらに投げかけている。
 どうしてこんなところにいるんだろう? そう思ったとたん、ルドウィンの姿がよみがえった。嵐のなか、手をさしのべた彼の姿が。
 胸がぎゅっとしめつけられる。
 あれは彼の魂だったのか、それとも、ただの幻だったのだろうか。絶体絶命という状況のなか、彼女はルドウィンに導かれるまま、灰色の騎士の手をすり抜けて、うず巻く流れに身を投げた。
 ||ユナ!||
 彼女を呼んだその声は、あまりに生々しく、いまなお耳にこだまする。ユナは、感傷を振りはらうように立ち上がった。
 ストールとくつは流され、服もあちこち破れていたが、光の剣はしっかりと身に帯びたままだった。美しい銀のさやにふれ、ずっしりとしたその重みを感じながら、ユナは胸をなでおろす。せきだ。剣が失われなかったことも、重みで剣もろとも川底に沈まなかったことも。
 それから、左手の感覚がいつもと違うことに気がついた。あのさざめくような感覚が感じられず、ずきずきと痛む。
 手首に目を落として、愕然がくぜんとした。
 そで口のボタンがはずれ、むきだしになった手首には、三粒のダイヤモンドのかわりに、青あざとり傷ができている。
 ブレスレット……。
 橋の上で落馬したことが思い出される。あの衝撃ではずれたのだろうか。
 それでも、もしやというはかない期待を抱き、ユナはあたりを捜し始める。どこか近くに落ちていないだろうか。
 吹きつけた風が髪をかき上げ、額がズキンと痛んだ。片手でふれると、額からこめかみにかけ、ざっくりと切れていた。
 温かな血が流れ出し、服にしたたり落ちる。袖口を傷にあてて、ユナははっとした。
 ごうごうという水音にまじって、どこか遠くでなにか聞こえはしなかったか? ユナは音のした方に目をやる。
 視界に人影はない。聞こえてくるのは濁流の音だけだった。
 気のせいか……。ほっと胸をなでおろしたとき、ふたたび音がした。今度は、はっきりと。
 ひづめの音だ。それに、はく車の音と、武器のふれあう金属音。おそらくはドロテ騎兵。さほど大勢ではない。全部で十数騎といったところか。
 音からすると、まだかなり離れてはいるが、相手は馬、こちらは歩き。こんな開けたところにいれば、見つかるのは時間の問題だ。ユナは素早くあたりを見まわす。どこかに身を隠さなくては。
 灌木かんぼくの繁みの向こうに、緑の木立が見えた。トネリコの森||
 ユナは走りだした。身体のあちこちが悲鳴を上げる。だが、かまってはいられない。ユナは、全力で走った。