朝焼けに染まるウォロー山脈。陽気にまわる水車の音。ローレアの花のやさしい香り。ユナの好きなものは、みんなウォルダナにある。
 ヒューディは降りしきる雨を見つめながら考えた。
 世間知らずでわがままなところもあったけど、素直でまっすぐで、幼いころからまわりのすべてを愛していたユナ。
 雪けのきらめく小川。初夏の風を運ぶ草原。黄昏たそがれえるクレナのせきあんず胡桃くるみの焼き菓子。ロデス伯父さん、イルナ伯母さん。そして、レアナ……。
 ユナは、彼の秘めた想いに気づいていた。幼いころから、彼女はいつも、彼の気持ちをわかってくれたっけ。いまになってわかる。それは、ユナが彼と同じように、ほんとうはとても寂しがり屋だからだ。彼女の天真てんしんらんまんな笑顔が浮かんできて、心の奥がうずくように痛んだ。
「ヒューディ、俺||
 彼と並んで、同じように雨を見つめていたジョージョーが、雨に目をやったまま、ふと口を開く。
「ずっと隠してたけど||」いいにくそうに、そして、心から申し訳なさそうに言葉を継いだ。「その||泥棒なんだ」
 ヒューディはやさしいまなざしでジョージョーを見た。
「俺たち||フォゼと俺、ほんとは、ユナの役に立ちたくてついてきたわけじゃない||その||俺たちの目当ては、ダイヤだったんだ」ジョージョーは目をふせる。「ごめん||みんなのこと、だましちまって||
「みんなじゃないさ」ヒューディはにやりとした。
 ジョージョーは彼を見る。
「じゃあ||ひどいやつだと思ってたんだ」
「元気出せよ、ジョージョー。そんなこと思っちゃいないさ」
「ほんと?」
「ほんとさ」ヒューディはうなずく。
 ユナは、ジョージョーと彼に、剣を見つけたら肌身離さず身につけておくよう、決してさやから抜かないようエレタナにいわれたと打ち明けた。エレタナはなぜかはいわなかったし、ユナも聞かなかったという。
 だが、ヒューディにはわかる気がした。
 大いなるダイヤモンドのかけらだというブレスレットのダイヤモンドにふれただけで、この世のものとは思えぬ清冽せいれつな衝撃が、腕を通して心臓に伝わってきた。その本体である聖なるひとつの石、唯一無二のダイヤモンドには、人をとりこにする魔力があるに違いない。見たりふれたりしたら、その力に取りかれ、大きな代償を払うことになるのではないか。遠い昔、ダイロスがそうであったように……。
 ジョージョーも畏怖の念を抱いているのか、あるいは、フォゼとルドウィンが犠牲になったことを思ってか、ユナがずっと腰に帯びているのに、一度だってふれようとしたことはない。見せてほしいとといったことすらなかった。
「ダイヤが目当てだったっていうけど、いまは盗もうなんて思っちゃないだろ?」ヒューディは、涙でうるむジョージョーの目を見つめて静かにいう。
「そうだけど……」
「ルドだって、なにもかもわかっていて、ついてこいっていったんだと思うよ。それに、ヨルセイスだって」
||ヨルセイス?」ジョージョーは眉をひそめた。
「ああ」ヒューディはうなずく。「へんだと思ったことはないのか? ヨルセイスはフィーンの中でもずば抜けて耳がいい。会議のとき、誰かが天井裏に隠れて聞き耳を立てていれば、気がつかないはずはないよ」
 ジョージョーは黙って彼を見つめ、そうかというように長いため息をついた。
「きっと、ルドもヨルセイスもわかってたんだ。いざとなったら、おまえらが本気で力を貸してくれるって。フォゼのことを思えば、本当にその通りだった……」
「でも、おれは臆病おくびょう者の役立たずだ」
「そんなことないさ! エレドゥきょうこくで馬をみててくれたじゃないか。でなきゃ、アリドリアスのほかは、みんな怯えて逃げちまったよ。それに」ヒューディはにっこりして、ジョージョーの細い肩を抱く。「雨を降らす男なんて、そうざらにいるもんじゃない」
 雨は相変わらず激しく地面に叩きつけており、ジョージョーは跳ね返す水を見つめながら、なおもいった。
「でも、もしあのとき、おれがフォゼを止めていたら、運命はもっと違っていたかも。ルドは死ななくてすんだかもしれないし、フォゼだって||。ああ、ユナもいまごろどうなっているか||
「ジョージョー。もっと前向きに考えたらどうだ? たとえば、ユナはいまごろ親切な人の家でも見つけて、火のそばでチキンスープの一杯も飲んでるかもしれないとかさ」
 ジョージョーはぞっとしたように彼を見た。
「そのチキンってのは、やめてくれないかな?」
「どうして?」
「ガキのころ、にわとりに追いかけまわされたんだ。さんざつつかれて、怖いなんてもんじゃなかったよ。まだドロテ兵に追いかけられたほうがましだね。鶏のにの字を聞いただけで鳥肌が立つ」ジョージョーはぶるっと身をふるわせ、「ユナが飲んでるとしたら、チキンじゃなく――そうだな、きっと、きのこのスープだ」
 ヒューディはジョージョーをじろっと横目で見る。
「ジョージョー。ぼくの前で、二度とその言葉をいうなよな」
「なに? きのこのこと?」
「ジョージョー」ヒューディはおもむろにいった。「いまのは聞かなかったことにしよう。けど、よく覚えておいてくれ。今度その言葉を口にしたら、同時にふたつのものを失うことになるよ」
「なにを?」
「友だちと」ヒューディは指をバキバキと鳴らす。「その鼻さ」
 
 赤い炎が勢いよく燃え、まきがパチパチと盛んにはぜていた。大きな薪がひとつ崩れ、オレンジ色の火の粉が舞う。
「このスープ、とってもおいしいです」ユナはひとくちすすり、小さなカップで湯気を立てているきのこのスープをふうふうと吹く。
 ささやかな家の主が、三日三晩鶏を煮込んでだしをとったというきのこのスープは、ユナの空腹にしみて、猫舌でなかなか飲めないのがじれったいほどだった。
「お口に合いましたか」主はしわだらけの顔をほころばせる。
 白髪で、かなり腰の曲がった老人だったが、体格は案外がっしりしていて、若くてしゃんとしていたころには、背も高かっただろうと思われた。
「ほんとに、ご親切にありがとうございます。服も貸していただいて、真夏なのに暖炉まで……」
「なに、いまは家内もなく、気楽な独り身です。遠慮えんりょせずに泊まっていきなされ」
「ありがとうございます」ユナは飛んできた羽虫を手で払いながらいう。「でも、はぐれてしまった友だちを捜さないと。嵐がやんだらおいとまします」
「そうですか。ではせめて、食事だけでも、この年寄りと一緒にしていってくださらんかな。嵐もまだしばらくはおさまらんでしょう」老人は立ち上がり、台所に姿を消した。
 本能は、こんなところでぐずぐずするなと告げていた。ブレスレットをはめた左手首にも、小さな痛みがちりちりと走っている。
 けれども、ユナはもう疲労困憊こんぱいで、老人のすすめる通り、泊まっていきたい誘惑にかられていた。外はこごえる寒さだし、嵐はますます激しさを増し、恐ろしい力で家を揺さぶっている。とてもじゃないが、いますぐ発つ気にはなれなかった。
 ユナはカップを置いて立ち上がり、窓に顔を押しあてて表を見る。しかし、外は暗く、怒り狂ったように叩きつける雨のせいで、すぐそこで大きく身をうねらせているかしの木のほかは、なにひとつ見えなかった。
 ヒューディとジョージョーはどうしただろう。せめて、ふたりが一緒にいればよいが。
 しばしふたりのことを案じたあと、ユナの思いはデューへと移る。デューは無事だろうか。そして、ヨルセイスは? ヴェテールの作戦は成功しただろうか。彼らは、連合軍司令部の情報がれたことを知っているだろうか……。
 ユナにとってデューは、いまでも、ほかのひととは違う、どこか特別な存在だった。以前のように、デューを想って胸が高鳴ることはなかったが、心の片隅かたすみではいつもあんが気になっていた。
 ユナはため息をつき、火のそばに戻ってカップを持ちあげる。それから、カップをのぞき込み、がっかりしてつぶやいた。
「ちょっと||。それはないんじゃない?」
 まだほとんど残っているスープには、羽虫が一匹浮かんでいた。さきほど飛んでいた羽虫だろうか。
「泳ぐなら、場所を考えてからにしてほしかったわ」うらめしげにいって、動かなくなった羽虫を、しばし見つめる。
 つまみだして、なにごともなかったかのように続きを味わおうか、それとも、老人の用意している夕食に期待してあきらめようか。
 やがて、かぶりを振ると、ユナはスープをそっと暖炉のわきのみぞに流した。それから、大きなあくびをして、ロープにさがった服にさわる。もうほとんど乾いていた。
 ユナは手早く着替え、空になったカップを手に台所に行く。
 かまどの火があたりを照らし、壁にかかったなべの影がゆらめくなか、老人はジャガイモの皮をいていた。
「ごちそうさまでした」ユナはカップを流しに置く。「本当においしかったです」
「それはよかった。温まりましたかな?」
「ええ。すっかり」ユナはあくびをかみ殺した。「なにかお手伝いをさせてください」
「ひとりでだいじょうぶです。ゆっくり休んでいてくだされ」
「そうですか。じゃあ、お言葉に甘えて」そうこたえたあと、ふとまゆをひそめる。
 なにかがおかしい。いま目にしているもののなにかが。もっと早く気づくべきだったなにかが||
 ユナは、もう少しで声を上げそうになった。
 壁に床に、彼女の影はゆらめいているのに、老人の影はまったく映っていなかった。
 ヤンの言葉がよみがえる。ルシナンへの旅の途上、彼とヒューディの交わした会話が。
 ||あの者たちは、時に人をおそっては、その服を身につけることもあるそうです||
 ||じゃあ、普通の人と見分けがつかないってことですか||
 ||いいえ||彼らには、影がないのです||
 老人はこちらに背を向けており、彼女の表情の変化には気づかなかった。
 ユナは急いで居間に戻る。嵐など、かまってはいられない。一刻も早くここを発たなくては。
 と、急に目がかすんだ。も、ランプも、なにもかもが二重に見える。床がぐらぐらと揺れはじめ、ユナはよろめきながらテーブルにしがみつく。
 いったいどうしたんだろう? ユナは腕に力を入れ、どうにか身体を起こそうとした。けれども、頭のなかがぐるぐるまわり、抵抗しがたい強い眠気が襲ってくる。
「スープだ……」ユナは目を閉じながらつぶやいた。「あれは……眠り……きのこ……」
 意識が急速に遠のいていった。
 次の瞬間、頭が床に打ちつけられる。衝撃と痛みで、ユナはまぶたを上げた。
 目の前にあったのは、黒いふたつの目。ユナのことを不思議そうに見つめている。その下には、ひくひく動く小さなピンクの鼻。
 ネズミ||! この世で最も苦手な生き物||
 瞬時に意識がはっきりした。ユナは弓をつかみ、嵐の中に飛びだした。
 
 ローレアはユナを乗せ、飛ぶように駆けだした。
 老人はすぐに追ってきた。
 生きようという本能と、とてつもない恐怖が、ユナを先へ先へとせきたてる。冷たく激しい雨が手伝って、しばらくは正気でいられそうだ。羽虫がスープに飛び込んだのは、いまから思えば幸運だった。
 青い閃光せんこうが、ぱっと空を明るくする。
 雷がジグザグに駆け抜け、すぐそばの大木を直撃する。木はすさまじい音を立てて真っ二つに裂け、その片割れが倒れてきて、行く手をはばんだ。ユナはづなを引きしめ、ローレアに声をかける。ローレアは大きく地面をり、障害物を軽々と飛び越えた。
 ふたたびひらめいたいなびかりが、追っ手の姿を照らしだす。いつしか相手は三騎になっていた。
 稲妻が走るたびに、灰色の騎士は増え、次第に距離を縮めてくる。後ろに気をとられていると、前方の木立から、一騎が飛びだしてきた。ユナはとっさに弓を構える。
 この風雨のなか、しかも眠りきのこのスープを飲んだあとで、まともに飛ぶとは思えなかったが、狙いをさだめた瞬間、すべてが動きを止めた。
 ユナは矢を放つ。
 銀の矢は風をって飛び、灰色の騎士の胸をつらぬいた。騎士はもんどり打って馬から落ちる。あらたな騎士が木立からあらわれた。ユナは弓を引き、相手の胸もとに意識を集中して、冷静に次の矢を放った。矢は確実に騎士を射止めた。
 さらに二騎を倒したあと、ユナは一気に速度を上げる。
 真っ白な光が閃き、行く手に長い橋が照らし出された。その下を、濁流だくりゅうがごうごうと音を立て、うず巻きながら流れてゆく。
 ローレアがおびえるのがわかった。ユナは声をかける。
「だいじょうぶだよ。渡ろう!」
 橋のなかほどまで駆け抜けたとき、雷が夜空を引き裂いて、対岸からせり出した背の高い松に落ちた。
 バリバリっというものすごい音がして、松は燃えながら、四方八方に砕け散る。折れた枝のひとつが風にあおられ、ものすごい勢いでユナたちの方に飛んできた。
 枝は欄干らんかんに激突し、ローレアはいなないてさおだちになる。ユナは放りだされて宙を舞い、橋に叩きつけられた。
 全身に衝撃が走り、一瞬気が遠くなる。
 必死に自分をして、どうにか立ち上がったとき、ひときわ明るい稲光が全天を真昼のように照らした。
 目の前に広がった光景に、ユナは息を呑む。
 対岸に押し寄せたのは、ドロテの大軍。振り向くと、背後からは灰色の騎士たちが迫ってくる。そのうち先頭の一騎は、すでに橋にさしかかっていた。
 そのとき、声が響いた。近くから、はっきりと。
「ユナ!」
 忘れようにも、忘れることのできない声。かたときも、忘れたことのない声||
 ユナは声のした方を見る。嵐のなか、ルドウィンの姿が見えた。手すりの向こうから、こちらに手をさしのべている。
「ルド!」
 ユナが叫ぶと、その姿は雨に溶けるようにゆっくりと薄れていった。
「ああ、ルド!」ユナは身を乗りだす。
 駆けつけた騎士が、彼女のほうへ手を伸ばした。その手がむなしく宙を切り、ユナは、絶叫とともに、さかく流れの中へまっさかさまに落ちていった。