ヒューディは、ジョージョーと避難した洞窟の中から、降りしきる雨を見つめていた。
朝焼けに染まるウォロー山脈。陽気にまわる水車の音。ローレアの花のやさしい香り。ユナの好きなものは、みんなウォルダナにある。
世間知らずでわがままなところもあったけど、素直でまっすぐで、幼いころからまわりのすべてを愛していたユナ。
雪
ユナは、彼の秘めた想いに気づいていた。幼いころから、彼女はいつも、彼の気持ちをわかってくれたっけ。いまになってわかる。それは、ユナが彼と同じように、ほんとうはとても寂しがり屋だからだ。彼女の
「ヒューディ、俺||」
彼と並んで雨を見つめていたジョージョーが、雨に目をやったまま口を開く。
「ずっと隠してたけど||」いいにくそうに、そして、心から申し訳なさそうに言葉を継いだ。「その||泥棒なんだ」
ヒューディは黙ってジョージョーを見た。
「俺たち||フォゼと俺、ほんとは、ユナの役に立ちたくてついてきたわけじゃない||その||俺たちの目当ては、ダイヤだったんだ」ジョージョーは目をふせる。「ごめん||みんなのこと、だましちまって||」
「みんなじゃないさ」ヒューディはにやりとした。
ジョージョーは彼を見る。
「じゃあ||ひどいやつだと思ってたんだ」
「元気出せよ、ジョージョー。そんなこと思っちゃいないさ」
「ほんと?」
「ほんとさ」
ユナは、ジョージョーと彼に、剣を見つけたら肌身離さず身につけておくよう、決して
だが、ヒューディにはわかる気がした。
大いなるダイヤモンドのかけらだというブレスレットのダイヤモンドにふれただけで、この世のものとは思えぬ
ジョージョーも畏怖の念を抱いているのか、あるいは、フォゼとルドウィンが犠牲になったことを思ってか、ユナがずっと腰に帯びているのに、一度だってふれようとしたことはない。見せてほしいとといったことすらなかった。
「ダイヤが目当てだったっていうけど、いまは盗もうなんて思っちゃないだろ?」ヒューディは、涙でうるむジョージョーの目をやさしく見つめる。
「そうだけど……」
「ルドだって、なにもかもわかっていて、ついてこいっていったんだと思うよ。それに、ヨルセイスだって」
「||ヨルセイス?」ジョージョーは眉をひそめた。
「ああ」ヒューディはうなずく。「へんだと思ったことはないのか? ヨルセイスはフィーンの中でもずば抜けて耳がいい。会議のとき、誰かが天井裏に隠れて聞き耳を立てていれば、気がつかないはずはないよ」
ジョージョーは黙って彼を見つめ、そうかというように長いため息をついた。
「きっと、ルドもヨルセイスもわかってたんだ。いざとなったら、おまえらが本気で力を貸してくれるって。フォゼのことを思えば、本当にその通りだった……」
「でも、俺は
「そんなことないさ! エレドゥ
雨は相変わらず激しく地面に叩きつけており、ジョージョーは跳ね返す水を見つめながら、なおもいった。
「でも、もしあのとき、おれがフォゼを止めていたら、運命はもっと違っていたかも。ルドは死ななくてすんだかもしれないし、フォゼだって||。ああ、ユナもいまごろどうなっているか||」
「ジョージョー。もっと前向きに考えたらどうだ? たとえば、ユナはいまごろ誰か親切な人に助けられて、火のそばでチキンスープの一杯も飲んでるかもしれないとかさ」
ジョージョーはぞっとしたように彼を見た。
「そのチキンってのは、やめてくれないかな?」
「どうして?」
「ガキのころ、
ヒューディはジョージョーをじろっと横目で見る。
「ジョージョー。ぼくの前で、二度とその言葉をいうなよな」
「なに? きのこのこと?」
「ジョージョー」ヒューディはおもむろにいった。「いまのは聞かなかったことにしよう。けど、よく覚えておいてくれ。今度その言葉を口にしたら、同時にふたつのものを失うことになるよ」
「なにを?」
「友だちと」ヒューディは指をバキバキと鳴らす。「その鼻さ」
赤い炎が勢いよく燃え、
「このスープ、とってもおいしいです」ユナはひとくちすすり、小さなカップで湯気を立てているきのこのスープをふうふうと吹く。
ささやかな家の主が、三日三晩鶏を煮込んでだしをとったというきのこのスープは、ユナの空腹にしみて、猫舌でなかなか飲めないのがじれったいほどだった。
「お口に合いましたか」主は
白髪で、かなり腰の曲がった老人だったが、体格は案外がっしりしていて、若くてしゃんとしていたころには、背も高かっただろうと思われた。
「ほんとに、ご親切にありがとうございます。服も貸していただいて、真夏なのに暖炉まで……」
「なに、いまは家内もなく、気楽な独り身です。
「ありがとうございます」ユナは飛んできた羽虫を手で払いながらいう。「でも、はぐれてしまった友だちを捜さないと。嵐がやんだらおいとまします」
「そうですか。ではせめて、食事だけでも、この年寄りと一緒にしていってくださらんかな。嵐もまだしばらくはおさまらんでしょう」老人は立ち上がり、台所に姿を消した。
本能は、こんなところでぐずぐずするなと告げていた。ブレスレットをはめた左手首にも、小さな痛みがちりちりと走っている。
けれども、ユナはもう疲労
ユナはカップを置いて立ち上がり、窓に顔を押しあてて表を見る。しかし、外は暗く、怒り狂ったように叩きつける雨のせいで、すぐそこで大きく身をうねらせている
ヒューディとジョージョーはどうしただろう。せめて、ふたりが一緒にいればよいが。
しばしふたりのことを案じたあと、ユナの思いはデューへと移る。デューは無事だろうか。そして、ヨルセイスは? ヴェテールの作戦は成功しただろうか。彼らは、連合軍司令部の情報が
ユナにとってデューは、いまでも、ほかのひととは違う、どこか特別な存在だった。以前のように、デューを想って胸が高鳴ることはなかったが、心の
ユナはため息をつき、火のそばに戻ってカップを持ちあげる。それから、カップをのぞき込み、がっかりしてつぶやいた。
「ちょっと||。それはないんじゃない?」
まだほとんど残っているスープには、羽虫が一匹浮かんでいた。さきほど飛んでいた羽虫だろうか。
「泳ぐなら、場所を考えてからにしてほしかったわ」うらめしげにいって、動かなくなった羽虫を、しばし見つめる。
つまみだして、なにごともなかったかのように続きを味わおうか、それとも、老人の用意している夕食に期待してあきらめようか。
やがて、かぶりを振ると、ユナはスープをそっと暖炉のわきの
ユナは手早く着替え、空になったカップを手に台所に行く。
かまどの火があたりを照らし、壁にかかった
「ごちそうさまでした」ユナはカップを流しに置く。「本当においしかったです」
「それはよかった。温まりましたかな?」
「ええ。すっかり」ユナはあくびをかみ殺した。「なにかお手伝いをさせてください」
「ひとりでだいじょうぶです。ゆっくり休んでいてくだされ」
「そうですか。じゃあ、お言葉に甘えて」そうこたえたあと、ふと
なにかがおかしい。いま目にしているもののなにかが。もっと早く気づくべきだったなにかが||。
ユナは、もう少しで声を上げそうになった。
壁に床に、彼女の影はゆらめいているのに、老人の影はまったく映っていなかった。
ヤンの言葉がよみがえる。ルシナンへの旅の途上、彼とヒューディの交わした会話が。
||あの者たちは、時に人を
||じゃあ、普通の人と見分けがつかないってことですか||
||いいえ||彼らには、影がないのです||
老人はこちらに背を向けており、彼女の表情の変化には気づかなかった。
ユナは急いで居間に戻る。嵐など、かまってはいられない。一刻も早くここを発たなくては。
と、急に目がかすんだ。
いったいどうしたんだろう? ユナは腕に力を入れ、どうにか身体を起こそうとした。けれども、頭のなかがぐるぐるまわり、抵抗しがたい強い眠気が襲ってくる。
「スープだ……」ユナは目を閉じながらつぶやいた。「あれは……眠り……きのこ……」
意識が急速に遠のいていった。
次の瞬間、頭が床に打ちつけられる。衝撃と痛みで、ユナはまぶたを上げた。
目の前にあったのは、黒いふたつの目。ユナのことを不思議そうに見つめている。その下には、ひくひく動く小さなピンクの鼻。
ネズミ||! この世で最も苦手な生き物||!
瞬時に意識がはっきりした。ユナは弓をつかみ、嵐の中に飛びだした。
ローレアはユナを乗せ、飛ぶように駆けだした。
老人はすぐに追ってきた。
生きようという本能と、とてつもない恐怖が、ユナを先へ先へとせきたてる。冷たく激しい雨が手伝って、しばらくは正気でいられそうだ。羽虫がスープに飛び込んだのは、いまから思えば幸運だった。
青い
雷がジグザグに駆け抜け、すぐそばの大木を直撃する。木はすさまじい音を立てて真っ二つに裂け、その片割れが倒れてきて、行く手をはばんだ。ユナは
ふたたび
稲妻が走るたびに、灰色の騎士は増え、次第に距離を縮めてくる。後ろに気をとられていると、前方の木立から、一騎が飛びだしてきた。ユナはとっさに弓を構える。
この風雨のなか、しかも眠りきのこのスープを飲んだあとで、まともに飛ぶとは思えなかったが、狙いをさだめた瞬間、すべてが動きを止めた。
ユナは矢を放つ。
銀の矢は風を
さらに二騎を倒したあと、ユナは一気に速度を上げる。
真っ白な光が閃き、行く手に長い橋が照らし出された。その下を、
ローレアがおびえるのがわかった。ユナは声をかける。
「だいじょうぶだよ。渡ろう!」
橋のなかほどまで駆け抜けたとき、雷が夜空を引き裂いて、対岸からせり出した背の高い松に落ちた。
バリバリっというものすごい音がして、松は燃えながら、四方八方に砕け散る。折れた枝のひとつが風にあおられ、ものすごい勢いでユナたちの方に飛んできた。
枝は
全身に衝撃が走り、一瞬気が遠くなる。
必死に自分を
目の前に広がった光景に、ユナは息を呑む。
対岸に押し寄せたのは、ドロテの大軍。振り向くと、背後からは灰色の騎士たちが迫ってくる。そのうち先頭の一騎は、すでに橋にさしかかっていた。
そのとき、声が響いた。近くから、はっきりと。
「ユナ!」
忘れようにも、忘れることのできない声。かたときも、忘れたことのない声||。
ユナは声のした方を見る。嵐のなか、ルドウィンの姿が見えた。欄干の向こうから、こちらに手をさしのべている。
「ルド!」
ユナが叫ぶと、その姿は雨に溶けるようにゆっくりと薄れていった。
「ああ、ルド!」ユナは身を乗りだす。
駆けつけた騎士が、彼女のほうへ手を伸ばした。その手がむなしく宙を切り、ユナは、絶叫とともに、
第22章(2 / 2)に栞をはさみました。