店の中は薄暗く、ほこりっぽさにまじって、なにやら陰気な匂いがした。
「こんにちは!」ヒューディは、その陰気さを追い払おうとするかのように、努めて明るい声でいう。
 ユナは、彼とジョージョーに続いて中に入りながら、天井や壁を見まわした。間口のわりに奥行きのある細長い店で、入口の上の高窓と、突きあたりにひとつあるほか、光が入ってくる窓はない。隣の建物と接した壁にも、小さな窓がいくつかあるが、明かり取りとしては、役に立っているとはいえなかった。
「どなたかいませんか?」ヒューディがもう一度声をかけたとき、テーブルの陰から白いかたまりが飛びだしてきた。
 ぞうに重ねてあったグラスが、床に落ちて粉々に砕ける。ジョージョーが短い悲鳴を上げた。
「ジョージョー。ただの猫だよ」ヒューディは笑う。
「ああ、びっくりした」ジョージョーはほっと息をついた。「心臓が止まるかと思った」
「聞いて!」ユナがささやく。「足音がしない?」
 三人は、じっと耳を澄ました。
 けれども、自分たちの息づかいと風のうなり声が聞こえるばかりだ。
 ユナは開け放した扉のところに戻って、素早く通りを見まわす。先ほどの猫の影が、すーっと横切った。
「風の音だったんじゃないか?」ヒューディがいう。
「そうかな」
 確かに、風の音は次第に強まってきている。またひどくならないといいけれど。そう思いながら店の中に戻って、少年たちに続いた。
 ユナの前を歩いていたジョージョーが、ぶるっと身をふるわせて、両腕で身体をかき抱く。
「だいじょうぶ、ジョージョー?」
「な||なんだか||||寒くなってきちまって||
「暑くてくらくらするんじゃなかったのか?」ヒューディが振り向く。「しょうがないなぁ。いま熱い飲み物を頼んでやるよ」店の奥に向き直り、カウンターの陰で主らしき男が背を向けて座っているのを目に留めて、呼びかけた。「あの||すみません」
 反応はない。
「居眠りしてるんじゃない?」とユナ。
「そうだね」ヒューディはカウンターの後ろにまわり、男の肩に手をかける。「あの||お休みのところすみませんが||
 男の身体がぐらりと揺れた。
「うわっ!」ヒューディは飛びのく。
 男はどさりと床に落ち、あおむけに転がった。
 ユナは悲鳴を上げる。男の胸には、ナイフが深々と刺さっていた。ジョージョーは口をぱくぱくさせて後ずさりし、なにかにつまずいてひっくり返った。手をさしのべようとして、ユナはもう一度悲鳴を上げる。
 ジョージョーの足もと、冷たい石の床の上に、びっしりとひげを生やした男が、むなしく天井をにらんだまま横たわっていた。
「出よう」ヒューディが飛んできて、ジョージョーの腕を取る。
「俺||||足が||」ジョージョーが尻もちをついたまま、情けない声でつぶやく。
「しっかりして、ジョージョー」ユナが反対の腕を取ろうとしたとき、ヒューディがいった。
「ユナ、馬を頼む」
「わかった」
 表に飛びだすと、門の方から蹄の音が響いてきた。ユナの全身が警告を放つ。敵か味方か?
 旅人らしき男が、細身の馬に乗って、こちらにやってくるのが見えた。頭からストールをまとってはいるが、顔はおおってはいない。
 ユナは眉をひそめた。あの顔、どこか見覚えがある||
 一瞬のち、どこで見たかを思い出した。心臓が激しく打ち始める。相手もユナに気づいたのか、ぐっと速度を上げる。
「ユナ!」ヒューディが、なかばジョージョーを引きずるように飛びだしてきた。
 
 男は、ユナたちの前で馬から飛び降りた。
「わたしはハン中尉||連合軍の使者です」胸もとからメダルを取りだし、連合軍の紋章を見せる。
「覚えています」ユナはいう。「一度セティ・ロルダの館で会いましたね」
「ええ」一瞬、中尉の顔にほっとした表情が浮かぶ。それから、さっと店の中に目を走らせたあと、問いかけるように彼女を見た。「ルドウィン殿下は?」
 思わず動揺したユナにかわって、ヒューディがさっとこたえる。
「あとで話します。それより、なにかあったのですか?」
「連合軍司令部の情報が漏れました」中尉は切迫した表情でいった。「全員、無事脱出しましたが、この先、旧司令部までのルートは敵の手に落ちています。新しい司令部まで、わたしが||
 ひゅんと風を切る音がしたかと思うと、鈍い音がその言葉をさえぎった。中尉は驚いたように目を見開き、ヒューディに倒れかかる。その胸の真ん中からは、鋭いやじりが突きだしていた。
 ジョージョーが悲鳴を上げ、ヒューディが中尉を抱きとめて必死に呼びかけるなか、ユナはすでに射手を見つけていた。
 通りを隔てた斜め後ろの建物の屋上。こちらに狙いを定め、次の一矢を射ようとしている。それがなにを狙っているか、すぐにわかった。
「ジョージョー! 伏せて!」叫びながら背中の弓を外す。
 ひゅん! ジョージョーが伏せた瞬間、彼の上半身があった位置を、矢がかすめた。建物の壁に当たって跳ね返る。
 あたかもそれを合図にしたかのように、ユナが矢をつがえるより早く、あちこちの屋根や窓から、狙撃手たちがいっせいに姿をあらわした。
「まずい」ヒューディがいう。「ずらかろう!」
 ユナはうなずき、ヒューディが地面でかたまったままのジョージョーを立たせるあいだに、馬たちを杭からはずす。
 ジョージョーとヒューディのあいだを矢がかすめ、ジョージョーが悲鳴を上げた。
「早く!」ユナは叫び、三人は馬に飛び乗って走りだす。
 石畳の道に、矢の雨が降りそそいだ。
 射手は敏腕ぞろいで、明らかに、ヒューディとジョージョーを標的にしていた。その一本がジョージョーの肩先をかすめる。
 ユナは馬を走らせながら、弓を構えた。前方、斜め左手の屋根に立つ狙撃手が、ヒューディに矢先を向ける。ユナは狙撃手の弓に狙いを定め、瞬時に放った。
 矢は力強く飛んでゆき、狙撃手の腕から弓がはじき飛ぶ。だが、息つく暇はなかった。矢は背後から次々と飛んでくる。
 ユナは後ろを向き、新たな射手を狙って矢を放った。彼の手からも弓が飛ぶ。
 そうして、次の矢を放ったときだった。通りの向こうで土煙が上がった。
 ユナは息を呑む。それから、前に向き直って叫んだ。
「ドロテ騎兵が来るわ!」
 ヒューディとジョージョーが振り向く。ジョージョーは悲鳴を上げたが、その声はとどろく地響きに呑まれた。
「急げ!」ヒューディが叫び、三人は速度を上げる。
 村のアーチを駆けぬけたとき、後ろから迫りくるドロテ騎兵のほか、左手、西の方角から、ゴーッという不気味な音が聞こえてきた。
 ユナはそちらを仰ぎ、目を疑った。
 黄色っぽい、もくもくとした煙幕が、巨大な壁のように立ち昇っている。それは、彼女が見つめるわずかなあいだにも、みるみる高くなり、空をどんどん覆いながら、ものすごい勢いで迫ってくる。
「ヒューディ! ジョージョー! 砂嵐よ!」ユナは声を限りに叫び、片手に弓を握ったまま、纏っていたストールで鼻と口を覆った。
 ヒューディたちも、はっと左手を見て、ストールをしっかりと巻きつける。
 低い山並みが次々と消えてゆき、ゴーッという音にまじって、バラバラという音が響き始めた。必死に馬を駆りながら、ユナは衝撃に備えて、手綱をぎゅっと握りしめる。
 次の瞬間、砂嵐はすべてを呑み込み、一気に襲いかかってきた。