20

 エレドゥ峡谷きょうこくは、風が吹きすさぶ荒涼とした谷だった。生命の気配はなく、はるか上まで切り立った岩肌だけが、いかめしい姿をさらけだしている。
 ユナはただならぬ息苦しさを覚えていた。彼女は左手首の感覚に集中する。ブレスレットからはさざめくような振動が伝わり、正しい道に進んでいると彼女にささやいている。
 道幅が次第に狭くなるなか、岩壁に、ぽっかりと穿うがたれたような空間があらわれた。その先は、人がひとりやっと通れるほどの幅しかない。ユナたちは馬から降り立った。
「ジョージョー、ここで馬を見ていてくれ」ルドウィンがいう。「ユナ、弓は置いていったほうがいい」
「なぜ?」ユナは眉をひそめた。
「きみには、光の剣を探すことだけに集中してほしいんだ。必ず援護する。いいね?」
 鳶色の瞳に、明るい笑みが浮かぶ。初めて会ったときと同じ、大胆で自信にあふれ、どこか少年を思わせる笑みだった。
「わかった」ユナはこたえる。
 彼はうなずき、愛馬の首を抱いた。その抱擁ほうようが、いつもよりほんの少し長い気がして、心にかすかな不安が忍びよる。だが、すぐにそれを振りはらった。ここから先が肝心かんじんだ。
「わたしが先に立つわ」ユナは心を静め、岩壁に沿って歩き始めた。
 進むにつれて、過去が今に重なるように、ずっしりとおおいかぶさってくる。切り立った崖。底知れぬ谷。遙か上の狭い空。絶え間ない風音。そのすべてを心と身体が覚えている。ひと足ごとに息苦しさが増し、左手首のさざめきが強くなる。
 ユナにはわかった。三粒のダイヤモンドと光の剣が、互いに呼びあっているのだ。
 突然、その左手首に衝撃が走った。ユナは足を止める。間違いない。彼女はルドウィンとヒューディを振り返り、行く手を指した。
「あそこに岩が突きだしているのが見える?洞窟はあのむこうよ」
 三人が岩を回りこむと、彼女の言葉通り、大きな洞窟がぽっかりと口をあけていた。
「ヒューディ」松明たいまつに火を灯し、ルドウィンがいう。「ここで見張っていてくれないか」
「え?」ヒューディは戸惑ったように彼を見る。「ぼくも一緒に入るよ」
「いや、ここに残って、なにかあったら大声で知らせてくれ」
 ヒューディは抗議しかけたが、ルドウィンの鋭い視線に言葉を呑んだ。
「頼んだよ」ルドウィンは彼の腕に手をかけ、笑顔でいう。
「わかった」ヒューディは渋々うなずいた。「ふたりとも、気をつけて」
 
 洞窟は、ひんやりとして静まり返っていた。ルドウィンは松明をかざしてユナの先を行き、岩壁にふたつの影が照らしだされる。しばらくすると、ユナは動けなくなった。
 記憶の彼方から遠い過去がよみがえり、次々とひらめいては消えてゆく。どの断片も、一瞬脳裏をよぎるだけだが、ひとつだけはっきりとわかった。
 二千年前も、彼女はルドウィンとここに来たのだ。こうして松明をたよりに、ふたりで暗がりを歩き、彼は今回と同じように長剣と短剣を帯び、彼女は||
「それ以上思いだすな!」
 ユナは、びくっとしてわれに返る。
「剣の間は近いはずだ。もう充分だよ」ルドウィンは声をやわらげ、彼女を見つめる。
 それから、不意に彼女を引き寄せ、くちづけをした。その瞬間、暗い過去も、恐怖も消えた。ユナは身も心も彼にゆだねる。切ないほどの甘さに、全身がふるえた。
 やがて、そっと身体を離すと、彼はいった。
「なにが起ころうと、ぼくを信じてくれ。だいじょうぶ。きっとうまくいくよ」
 
 しばらく進むと、道は二手に分かれていた。
 ユナは、右手の道の前に立つ。何も感じない。次に、左手の道の前に立つと、腕を通して、力強いさざめきが心臓に伝わってきた。
「こっちだわ」
 その直後、背後でガシャッと重い金属音が響いたかと思うと、ユナは氷のような手に首をつかまれ、宙に持ち上げられていた。恐ろしい力で絞めつけられ、気が遠のいてゆく。
 気を失う寸前、急に身体が自由になった。ユナはどさっと地面に落ちる。
「ユナ!」ルドウィンが、肩を抱いて上半身を起こした。「だいじょうぶか?」
「ええ」激しく咳き込んだあと、ようやく息を吸いこみ、かすれた声でこたえる。
 背後には、鉄のよろいかぶとをまとった巨大な騎士が倒れていた。岩壁の隅には松明が転がり、その炎に照らされ、頭から足の先まで全身金属でおおわれているのがわかる。
 死の従者||。その胸もとには、ルドウィンの長剣が深々と刺さっていた。
 ユナはルドウィンに支えられ、ふるえながら立ち上がる。そのとき、どこか遠くから、微かにゴゴゴ……という低い音が聞こえた。足もともわずかに揺れなかったか? ユナは耳を澄ます。けれど、洞窟の入口の方から、遙かな風の音がこだまするばかりだ。
「ユナ」ルドウィンが、彼女を心配そうにのぞきこんでいた。その手の中で、小さなガラスびんが、内側から淡い金色の光を帯びてきらめく。「これを飲んだほうがいい」
 リュール||。ルシナンの草原でルドウィンの命を救ったエレタナの秘薬。ほんの一滴で一日歩くことができ、心を静めるという、エルディラーヌの花のみつで作った飲み物。
「知らなかった。暗闇で光るのね」ユナはささやき、瓶を開けようとした彼を止める。「だいじょうぶ。ただ、地鳴りのような音が聞こえた気がしたの」
「地鳴り?」彼は眉をひそめ、じっと聴き入る。「聞こえないな」
「そうね」念のためもう一度耳を澄ます。気のせいか……。「ルド、あのときどれだけ従者を倒したか覚えてる?」
「いや」彼は従者から剣を引き抜き、かぶりを振った。「だが、まだ何人か残っているだろう」剣をぬぐってさやにおさめ、松明を手にしてユナを見る。「覚悟はいいか?」
「ええ」とび色の瞳を見つめ返し、ユナはうなずいた。
 
 道はゆるい下り坂になった。左手首から心臓に伝わる波動が、ますます強くなってくる。
「なにかあるわ」ユナは足を止めた。
 ルドウィンは松明をかざして岩壁を調べる。なかば岩に埋もれた黒い鉄のとっがあった。彼は把手を手前に引く。岩はびくともしない。押してみても、やはり動かなかった。
「ルド。もしかして……」ユナはいい、彼の手に自分の手を重ねて、体重をかける。
 微かな手応えがあった。息を合わせて押し下げる。壁がゴーッと音を立てて地面に呑みこまれ、狭い通路があらわれた。むこうから、やわらかな金色の光が射している。
 ふたりは、一歩一歩慎重に進んでいった。心臓がいまにも飛び出しそうに打つ。通路はゆるやかに曲がり、その先に明るい空間が現れた。
 空間には、豪華な装飾がほどこされた黄金の箱が並んでいる。手前と奥にひとつずつ。闇の中で呼吸するかのように輝いている。
 剣の間||
 ふたりは足を止め、視線を交わした。息をひそめ、部屋の前まで進む。ルドウィンは、松明を入口にたてかけ、自分が先に行くと目で伝えてきた。ユナはうなずく。
 ルドウィンは剣を抜き、壁を背に音もなくすべりこむと、ふたたび目で合図をよこした。ユナもそっとすべり込む。
 岩の壁に囲まれた部屋は、天井が高く円形で、黄金の箱は、その中央に並んでいた。大きなひつぎほどもあり、息づくように光を放つなか、あたりにはちりひとつない。二千年の歳月は、あたかもこの部屋を素通りしていったかのようだ。
 ユナは息を呑み、ルドウィンとともに、箱に歩み寄る。
 と、低い音が響いた。奥の壁が裂けるように開き、死の従者が二人、躍りでる。
「さがってろ!」ルドウィンが叫び、前に飛びだした。
 ユナは凍りつく。二対一の激しい戦いが始まった。重々しいよろいの音は、ユナの記憶を呼び覚まさんと、揺さぶりをかけてくる。
 重く厚い鎧を纏っているにもかかわらず、従者たちの動きは機敏だった。だが、ルドウィンは野生動物のようにしなやかに身をかわし、一瞬の隙に、片方の厚い鎧を貫く。従者は鈍い音を響かせてガシャリとひざをつき、前のめりにどっと倒れた。
 残った従者が飛びかかってくる。すさまじい応酬おうしゅうが繰り広げられ、ついにルドウィンが従者の剣を払い飛ばした。だが、その直後、従者の長靴ちょうかが激しくルドウィンを蹴り、壁に叩きつける。ルドウィンは、そのまま地面にくずおれた。
 ユナは、夢中で松明を手にとり、従者の顔面に燃える炎を押しつける。従者はうなり声を上げ、鎧で覆われた腕を大きく振った||