20

 エレドゥ峡谷きょうこくは、風が吹きすさぶ荒涼とした谷だった。まさに見捨てられた死の谷で、岩棚のはるか上から届く朝の光でさえ、あたたかさを感じさせることはない。岩の隙間から生えていた草は、深く進むにつれて見られなくなり、いまや、切り立った岩肌だけが、そのいかめしい姿をさらけだしている。
 ユナは、峡谷に入ったときから、ただならぬ息苦しさを覚えていた。
 乗り手の思いが伝わるのか、ローレアの足取りも、沼の中を進むかのように重い。ユナは、ローレアをなだめながら、左手首の感覚に集中する。ブレスレットからは、微かに、けれどもはっきりと、さざめくような振動が伝わってくる。これが正しい道だと、彼女にささやきかけるかのように。
 道幅が次第に狭くなり、岩壁に、ぽっかりと、穿うがたれたような空間があらわれた。その先は、人がひとりやっと通れるほどの幅しかない。馬では無理だ。
 四人は地面に降り立ち、視界をさまたげるストールを外した。
「ジョージョー。ここで馬をみていてくれ」ルドウィンがいう。
 こんなところにひとりで残るのは、ひどく心細いに違いないが、ジョージョーは文句もいわずに引き受けた。
「ユナ」ルドウィンはユナを振り向き、「弓は置いていったほうがいい」
「なぜ?」ユナは眉をひそめる。
「きみには、光の剣を探すことだけに集中してほしいんだ」
「でも||
「必ず援護する」ルドウィンはさえぎった。「いいね?」
 鳶色の瞳に、明るい笑みが浮かぶ。初めて会ったときと同じ、大胆で自信にあふれ、どこか少年を思わせる笑みだった。
「わかった」ユナはこたえる。
 彼は笑顔のままうなずいて、愛馬に向き直り、軽く首をなでて抱いた。
「いいこにしてろよ、アリドリアス」
 その抱擁ほうようが、いつもよりほんの少し長かった気がして、ユナの心に、かすかな不安が忍び込む。
 だが、すぐにその不安を振りはらった。
 しっかりして、ユナ。そう自分にいい聞かせる。ここから先が肝心かんじんよ。心を静め、あらゆる感覚をぎ澄まし、剣の間を突きとめなくては。
「わたしが先に立つわ」
 ユナの言葉に、ルドウィンはうなずいた。
 
 風がひゅうひゅうとうなり声を上げるなか、彼らは、そそりたつ岩壁に沿って歩き始めた。ユナのあとにヒューディが続き、ルドウィンがしんがりだ。
「わっ!」ヒューディが声を上げる。
 ユナが振り返ったときには、ルドウィンのたくましい腕が彼をつかみ、ぐいっと壁の方に引き寄せていた。
「気をつけろ」ルドウィンがいう。
 ヒューディの真横で、崖縁の岩が崩れ、ばらばらと落ちてゆく。ヒューディは青い顔でうなずき、ユナはぞっとして谷底を見た。流れる川が見えないほどの深い谷。次に誰かが足を踏み外したら、今回ほど幸運ではないかもしれない。
 ユナは口をきつく結び、一歩一歩、慎重に歩いていった。
 進むにつれて、過去が現在に重なるように、ずっしりとおおいかぶさってくる。
 切り立った崖。底知れぬ谷。上の方にわずかに見える狭い空。とぎれることのない風の音。そのすべてを、心と身体が覚えている。
 ひと足ごとに息苦しさがつのり、全身から血の気が引き、いまやユナは、肩で息をしていた。
 そして、彼女の左手首では、ブレスレットがさざめき、その感覚が徐々に強くなってゆく。ユナにはわかった。三粒のダイヤモンドと、光の剣||かつてはひとつであった大いなるダイヤモンドが、互いに呼びあっているのだ。
 突然、その左手首に衝撃が走った。ユナは足を止める。
「どうした?」ヒューディが聞いた。
 彼の後ろで、ルドウィンも立ち止まる。
「あそこに、岩が突きだしているのが見える?」ユナは行く手を指さし、かすれた声でいった。「洞窟は、あのむこうよ」
「確かか?」ルドウィンが聞く。
「ええ」ユナはきっぱりとうなずいた。
 そして、その言葉通り、三人が岩を回りこむと、大きな洞窟がぽっかりと口をあけていた。
「ヒューディ。ここで見張ってろ」松明たいまつに火を灯しながら、ルドウィンがいう。
「どうして?」
「なにかあったら、大声で知らせるんだ」
「ぼくも一緒に入るよ」
「いや、ここにいてくれ」
 ヒューディは抗議しかけたが、ルドウィンの鋭い視線に言葉を呑んだ。ルドウィンは彼の腕に手をかけ、ぎゅっと力を込める。
「頼んだよ」
 ヒューディはルドウィンを見つめ、それから、ユナを見た。
「気をつけて。ふたりとも」
 ユナはほほえむ。
「すぐ戻るわ」
 
 洞窟のなかは、ひんやりとしていた。静かだったが、真の静寂ではない。どこか悪意をはらんだ静寂だ。
 ルドウィンは松明をかざし、ユナの一歩先を行った。岩壁に、ふたつの影が照らしだされる。少し進んだところで、ユナは動けなくなった。
 記憶の彼方から遠い過去がよみがえり、次々とひらめいては消えてゆく。どの断片も、ごく一瞬、脳裏をよぎるだけで、ユナがイメージをつかむより早く、次の場面に切り替わってしまう。けれど、ひとつだけ、はっきりとわかった。
 二千年前も、彼女はこうしてルドウィンとともに来たのだ。こうして彼の松明をたよりに、ふたりで暗がりを歩いたのだ。ルドウィンは、今回と同じように長剣と短剣を帯び、彼女は||
「それ以上思いだすな!」
 ユナは、びくっとしてわれに返った。ルドウィンは声をやわらげる。
「剣の間は近くにあるはずだろう? もう充分だよ」彼は言葉を切り、笑顔で彼女を見つめる。「なにが起ころうと、ぼくを信じろ。いいね?」
 不意にルドウィンは、ユナを引き寄せ、くちづけした。
 その瞬間、暗い過去も、恐怖も消えた。ユナはすべてを忘れ、身も心も彼にゆだねる。切ないほどの甘さに、全身がふるえた。
 やがて、そっと身体を離し、ルドウィンはいった。
「だいじょうぶ。きっと、なにもかもうまくいくよ」
 
 しばらく進むと、道は二手に分かれていた。
 ユナは、右手の道の前に立つ。何も感じなかった。次に、左手の道の前に立ってみる。腕を通して、力強いさざめきが心臓に伝わってきた。
「こっちだわ」
 その直後、背後でガシャッと重い金属音が響いた。
 振り向く余裕もなかった。ユナは、氷のように冷たい手に首をつかまれ、宙に持ち上げられていた。ふりほどこうともがいたが、恐ろしい力で絞めつけられ、気が遠くなってゆく。
 と、急に身体が自由になり、ユナはどさっと地面に落ちた。
「ユナ!」ルドウィンが、肩を抱いて上半身を起こす。「だいじょうぶか?」
 こたえようにも、息ができなかった。激しく咳き込んだあと、ようやく、空気を吸いこむ。それから、かすれた声でこたえた。
「ええ」
 後ろを見ると、鉄の仮面とよろいをまとった巨大な騎士が倒れていた。岩壁の隅には松明が転がっており、その炎に照らされ、手の先から足の先まで全身金属でおおわれているのがわかる。死の従者||。胸もとには、ルドウィンの長剣が深々と刺さっていた。
 ユナは、ふるえながら、ルドウィンに支えられて立ち上がる。
 そのとき、どこか遠くから、かすかに、ゴゴゴ……という低い音が聞こえた。ユナは眉をひそめる。足もとも、わずかに揺れなかったか?
 ユナは耳を澄ます。けれども、入口の方から、遙かな風の音がこだまするばかりだ。
「ユナ」
 その声に顔を上げると、ルドウィンが、心配そうにのぞきこんでいた。その手の中で、小さなガラスびんが、内側から淡い金色の光を帯びてきらめいている。
「これを飲んだほうがいい」
 リュール||。ルシナンの草原でルドウィンの命を救ったエレタナの秘薬。ほんの一滴で一日歩くことができ、心を静めるという、エルディラーヌの花のみつで作った飲み物。
「知らなかった。暗闇で光るのね」
 ユナはささやく。そして、瓶を開けようとした彼の手を止めた。
「とっておいて。わたしならだいじょうぶ。ただ、遠くで地鳴りのような音が聞こえたような気がしたの」
「地鳴り?」ルドウィンは眉根を寄せる。
 ユナはうなずき、もう一度耳を澄ました。ルドウィンも、じっと聞き耳を立てる。
「聞こえないな」彼はかぶりを振り、倒れた従者の胸から、剣を引き抜いた。
「そうね」
 気のせいか……。
「ルド、あのとき、何人の従者を倒したか覚えてる?」
「いや」彼はもう一度かぶりを振った。「だが、まだ何人か残っているだろう」剣をぬぐってさやにおさめ、松明を手にしてユナを見る。「覚悟はいいか?」
 とび色の瞳を見つめ返し、ユナはうなずいた。
「ええ」