ルドウィンが気を失っていたのは、ほんの一瞬だった。目を開けると、ユナが松明を手にして彼の前に飛び出し、従者に向かってゆくのが見えた。
 従者が松明を飛ばし、彼女も仰向けに飛ばされる。ユナ||
 瞬時に意識が鮮明になった。ルドウィンは剣を取り、振り向いた従者の胸を、体当たりで貫く。剣は深々と刺さった。あたかも、なにも纏っていないかのように。
 剣を抜くと、相手はぐらりとかしいで横ざまに倒れた。衝撃で地面が揺れる。
 ユナがふらふらと立ちあがるのが見えた。彼を目にして、駆け寄ってくる。
「ルド!」
「おちびちゃん」彼女を抱きとめ、「ありがとう。助かったよ」
「まだいるかも……」
 ユナはいい、ふたりは岩陰や天井を確かめた。敵の気配はなく、通路からも物音ひとつ聞こえない。ルドウィンは剣を構え、ユナとともに、巨大な黄金の箱に一歩一歩近づいてゆく。
 片方は、間違いなくわな。開けたとたん、毒矢が飛び出すか、首をき切られるか。
 ユナは手前の箱の前で止まり、じっと聴き入った。左手の袖を透かして、ダイヤモンドが淡い光を放っている。彼女は袖口のボタンを外した。三粒のダイヤモンドがきらきらと青い光を放ち、繊細せんさいな調べがこぼれ落ちる。
「聞こえる?」ユナはささやいた。
「ああ。聞こえる」
 それは、どこか遠い星から聞こえてくるような、神秘的で、悲しく美しい調べだった。ユナが奥の箱の前に立つと、音楽は消えた。彼女は手前の箱の前に戻って身をかがめる。
「これが正しい箱なのね」それから、愕然と、「そんな||鍵が必要なの?」
 ルドウィンも、ふたの中央に鍵穴に気づき、片ひざをついて確かめる。
「ただのみせかけかもしれない。鍵が必要なら、ルシタナはいい残したはずだ」
 剣を置き、ふたりで蓋に手をかける。息を合わせて持ち上げようとしたが、蓋はぴたりと閉ざしたまま、まったく動かない。ユナの左手首では、三粒のダイヤモンドがいっそう輝き、美しい音色を奏でている。遠い昔その一部であった大いなるダイヤモンドと、いまふたたびひとつになりたいと願うかのように。
「ルド。もしかして……」ユナがささやき、左手首を鍵穴に近づける。
 ダイヤモンドのひと粒が鍵穴にふれたとたん、鍵穴から真っ白な光が射した。息を呑むふたりの前で、巨大な黄金の蓋が、音もなくゆっくりと開く。
 光の剣は、瀟洒しょうしゃな銀のさやにおさまり、深い色のベルベットの上で、静かにその身を横たえていた。
 ユナがルドウィンを見る。彼はうなずき、ユナが剣を手にするのを見守った。彼女はふるえる手で柄にふれ、剣を持ち上げる。そのずっしりとした重みが、ありありと伝わってくる。
 ユナがゆっくりと鞘から剣を引き抜くと、まばゆいばかりに燦然さんぜんと輝くダイヤモンドの刀身とうしんが姿をあらわした。
 遙か昔に失われた大いなるダイヤモンド。二千年ものあいだ、誰の目にふれることなく眠っていたフィーンの至宝||
 ルドウィンは、息をするのも忘れた。ユナも茫然とダイヤモンドの刀身を見つめている。
「ユナ」我に返って声をかけると、彼女は夢から覚めたかのようにまばたきをした。
 彼女は剣を鞘におさめ、身につけていた剣帯けんたいにしっかりとさす。
「行こう」彼がユナの肩に手をかけ、立ち去ろうとしたとき、背後で微かな気配がした。
 ふたりは、同時に振り返る。
 奥の箱の蓋が、わずかにきしみながら開き、何者かに操られるように、死の従者が身体を起こした。その大きさは、これまでの従者の比ではない。
 ルドウィンは、とっさにユナの前に立つ。
 その瞬間、すべての記憶がよみがえった。二千年前、ここで起こったことのすべてが。封じ込めていた思いのすべてが。恐怖、痛み、悲しみのすべてをこえて深く魂に刻み込んだ記憶||自分自身への固い誓いが、一瞬のうちに、あざやかに。
「ユナ」従者に目をえたまま、ルドウィンはささやく。「走れ」
 あの日、彼はこの戦いを落とし、それゆえルシタナは、あとを追ってきた従者に命を奪われた。今回は、必ず仕留める。そして、彼女を守る。彼女が使命を果たし、預言が成就じょうじゅされるように。そのためにこそ、彼はきたのだ。
 あの日、彼は恐怖心から、この戦いを落とした。死の従者に対する怖れではない。そうではなく、最愛の人を失う怖れだ。かけがえのない者が死ぬかもしれないという恐怖が、鎧の強い魔力を生みだし、彼は従者を打ち負かすことができなかった。
 それゆえずっと||生まれる前からずっと、深く胸に刻んできたのだ。彼女を愛してはならないと。彼女を守るために、敢えて気持ちを封印しなければならないと。
 結局、そんなことは不可能だったけれど、それでも、その強い思いは、彼をここまで支えてきた。ならば、預言を成就させることはできるはずだ。
「ユナ! 走れ!」彼はもう一度、鋭くささやく。
 ユナが躊躇ちゅうちょした瞬間、死の従者が剣を抜き、電光石火の勢いで飛びだしてきた。ひらめくその刃を、彼の剣が受け止める。
 そのとき、ゴーッと不気味な音が鳴り響いた。従者の注意がれ、ルドウィンは相手の剣を振りはらう。
天井からバラバラと土砂が降り、従者がふたたび襲いかかってくる。
「ユナ!」容赦ない攻撃をかわしながら、ルドウィンは叫んだ。「使命を忘れたのか?」
 落ちてくる土砂が大粒になり、激しい音を立て始める。
「逃げろ!」
 ユナは、背を向けて走りだした。
 
 土砂が降りそそぐ闇のなか、ユナは走った。前方に明かりが見えてくる。
「ユナ! ルド!」
 ヒューディの呼び声が聞こえ、ユナは日の光のもとに飛びだした。
「ルドは?」ヒューディの問いかけに、ユナはかぶりを振る。
 ヒューディが洞窟に飛び込もうとした瞬間、大音響とともに入口が消えた。もうもうと砂埃を立てて、あとかたもなく。
 不気味な地鳴りがとどろき、いまや山全体が崩れようとしているかのようだった。
「行こう!」ヒューディが叫ぶ。
 岩棚の上から石が降りそそぎ、ふたりが走るあとから地面が谷底に呑みこまれてゆく。
 ジョージョーは、その恐ろしい光景のただなかで、興奮する馬たちをなだめながら辛抱強く待っていた。馬に飛び乗ると、三人は全速力で駆けだした。
 エレドゥ峡谷を抜け、マレンの荒野に入ったところで、彼らはようやく速度をゆるめた。小さな流れのほとりで、誰からともなく地面に降り立つ。
 ほかの馬が喉をうるおすなか、アリドリアスは、うるんだ瞳で来し方を見つめた。
「アリドリアス……」ヒューディはささやき、その首筋を抱く。
「山が揺れ始めたとき、すごく切なそうにいなないたんだ」ジョージョーが目を真っ赤にしていった。「アリドリアスはどんなときも、決して騒がなかったのに」
 ヒューディの顔がゆがみ、榛色の瞳に涙がきらめいた。ユナは彼に歩み寄る。
「ユナ」彼はかすれた声でささやく。「ぼくには信じられない」
「わたしも……」
 ルシタナに恋人がいたことを、なぜエレタナがいわなかったのか、ルドウィンがなぜ、なにも話そうとしなかったのか、いまならわかる。二千年前も、ルドウィンはあの洞窟で命を落としたのだ。死の従者から、彼女を守るために……。
 ヒューディは、ふるえながらユナを抱きしめ、彼のほおを伝う涙が、彼女のほおを濡らしてゆく。けれど、悲しみはあまりに深く、ユナは泣くことすらできなかった。
 オレンジ色に染まる空が、まぶしいほどに輝く夕暮れ。砂漠の砂を運ぶ遠い風の音が、テタイアの地に夏の訪れを告げていた。