「これはこれは。フィーンのお姫さまがウォルダナに迷い込んだかな」
 紫の黄昏たそがれが降りるなか、背の高い男がユナを見おろしていた。薄汚れた格好をしているが、どこか精悍せいかんな顔立ちをしており、口もとに軽い笑みを浮かべている。
「怪我は?」
「だいじょうぶ」ユナはこたえた。地面に引き上げられたあと、ふらつく身体を支えられ、助け起こされたところだ。「ありがとう」
「こんな時間にこんなところにいるのは感心しないな。このあたりじゃ、近ごろあまりいいうわさは聞かない。得体えたいの知れない奴らがうろついてるんだ」彼はいう。「このオオユリの木のことは知っているだろう? 百二十年に一度しか花が咲かない。そして、咲いた年にはよくないことが起こる。それが今年ってわけだ」
 ユナはまじまじと男を見た。本気でそんなことを信じているのだろうか?
「こんな平和な国じゃ、なにも起こりはしないわ」ユナは笑う。
「どう思おうと勝手だが、ひとつ覚えておくんだ。二度とここには近づくな。いいね?」
 その有無をいわさぬ態度に、ユナは思わずカチンときた。
「あなたこそ、こんなところになにしにきたの?」
「噂を確かめにきた」
「それはご立派だこと。あなたもひとつ覚えておいて。わたしがどんな時間にどこにいようと、あなたの知ったことじゃないわ」
「それは失礼。きみが崖から華麗に舞い降りるのも、知ったことじゃなかったな」
 ユナは赤面する。そして、赤くなった自分に腹を立てた。
「お望みなら、もう一度もとの場所に戻すこともできる。そうでなければ、年上の者のいうことを聞くんだな。空を飛ぶ練習は、昼間、家の近くでするんだ。二度とこのあたりをうろつくんじゃない。とくに、若くてきれいな娘さんはね」
 とび色の瞳がユナを見つめ、笑いかけた。そんなほほえみは見たことがなかった。大胆で自信にあふれ、どこか少年を思わせるいたずらっぽさがある。目をそらせようとしたけれど、なぜかできなかった。
 彼はどこからきたのかをたずね、ユナが村の名をいうと、ヒューッと口笛を吹いた。
「ずいぶんきたもんだな。近くで馬が待ってる。送っていこう」
「けっこうよ」ユナはツンと澄まし、「ちゃんとしたレディはちゃんとした紳士にしか送ってもらわないものですもの」ほうら、いってやったわ。
 男はにやりと笑った。
「きみがレディとは知らなかったな。レディってのは、親切にされたら心からの礼がいえる女性のことだと思っていたよ」
 ユナはもう一度赤くなり、ものもいわずに歩き始める。後ろで男の声がした。
「そっちは逆方向だぜ、お嬢さん」
 
 いつしか日は落ち、青い月明かりが草原を照らすもと、栗毛の馬は軽快な足取りで進んでいった。見事な濃い栗毛で、額に白い星がある。持ち主より馬の方がずっと立派だと、ユナは思った。
 男がアリドリアスだと紹介したとき、栗毛は大きなやさしい目でじっとユナを見た。その瞳を見たとたん、胸の奥がきゅっとなった。いまも、金色を帯びたつややかなたてがみにつかまって、全身に馬の温もりを感じながら、ユナは不思議ななつかしさをおぼえる。なぜだろう。アリドリアスという響きも、どこかとてもなつかしかった。
 ユナは家の近くで降ろしてもらい、アリドリアスの首をなで、ありがとうと伝える。アリドリアスは、またやさしいまなざしで彼女を見た。
「おっと、忘れ物だ」行こうとしたユナを、男が呼び止める。「レディなら、ほおにお礼のキスのひとつもするんじゃないのか?」
「なんですって?」ユナは振り返った。
「なあ」男は眉を上げ、「きみはきれいだが、いまに鼻持ちならない女になるぜ。気をつけな、おちびちゃん」彼はひらりと馬に飛び乗る。「きみとはまた会える気がするよ」
 ユナは去ってゆく男に向かって叫んだ。
「わたしは全然そんな気しないわ!」憤然と歩きだしたあと、もう一度振り返る。「それに、全然ちびじゃないわよ!」
 
「どうして夕食にご招待しなかったの?」イルナ伯母がいった。「それに、どこのどなたかも聞かなかったなんて」
「どんなひとだった?」スープをよそいながら、レアナが聞く。
「みすぼらしい格好をしてた。それに、口は最低」
「ユナ。命の恩人になんてことを」伯母はため息まじりにかぶりを振り、パンを切り分けにかかった。「それにしても、いい年をした娘が蝶を追いかけるなんて。いったいいくつになったら分別がつくのかしら」
「イルナ伯母さんだって、あんな蝶を見たら、きっとそうするわ。信じられないくらいきれいな虹色をしてたんだもの」
 伯母の手が止まる。
「虹色?」
「そう。銀色がかった虹色でね、オオユリの木の群生地まで、きらきら輝きながら飛んでいったの。それに、もうひとつめずらしいものを見たのよ。なんだと思う?」
「もしかして||オオユリの花が咲いていたの?」伯母はかすれた声で聞いた。
「イルナ伯母さん、よくわかったわね!」
「亡くなったひいお祖父さまが子どものころ見たという年から、ちょうど百二十年になるから。オオユリの花が咲く年には、虹色の蝶が舞うといわれているの。そして||
「そして、よくないことが起こるっていわれてるんでしょ? そんなの迷信よ。あんなきれいな蝶や花が、悪いことの起こる前触れのはずないもの」
「百二十年前にはルクセド王子が暗殺されたのよ。その百二十年前には、世界中で火山の噴火や大きな洪水が怒ったし||テタイアの内戦が飛び火しないといいけれど」
「イルナ伯母さんったら、そんな遠い国のこと気にするなんて」
「二千年前の戦争も、最初は小さな戦いだったというわ。そしてその最後の年にも||
「イルナ」伯父がやさしく止める。「どの年にも、よいことも悪いことも起こるものだ。だが、それは本当なんだね、ユナ? オオユリの花が咲いていたというのは」
「ほんとよ、ロデス伯父さん。咲き始めたばかりで、つぼみでいっぱいだった。淡い色の大きな花で、すごく甘い香りがするの。百二十年に一度しか咲かない花が見られるなんて、わたしたち運がいいかも。そうだレアナ、明日ピクニックのあとで見にいかない?」
 ユナは男の忠告などすっかり忘れてレアナを誘った。
「とんでもない!」レアナがこたえるより早く、伯母がいう。「絶対にいけません。レアナ、明日は、子どもたちが遠くへ行かないよう気をつけるのよ。オオユリの木の群生地では、このごろぼうれいがでるという噂だわ」
「そのことはわたしも耳にしている」伯父がいった。「だが、オオユリの花のことは初耳だ。村には昔話を信じる者もいる。あまり騒ぎにならないといいが」