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 狼は歌っていた。輝くたてがみをもつ銀色の狼だ。狼は、森を望む丘で歌っている。美しい鬣を風になびかせ、遠い世界から、誰かに呼びかけるように。金色の瞳が映すのは、ゆっくりと渦巻く銀河。色とりどりの星は、宝石のようだ。
 狼は歌っている。時が満ちた。その時がきたのだと。そしてユナは、自分がこたえるのを聞いた。
 わたしはここよ。ここにいる||
 
「やっぱりここにいた」
 やさしい声が響き、ユナは目を開けた。降りそそぐ太陽の光を背景に、本を抱えたシルエットが自分を見下ろしている。
「レアナ?」
 ユナは瞬きした。ついいましがた別の声を聞いていた気がして、少し戸惑う。それから、クレナの遺跡で寝転んでいたことを思いだした。ひとつあくびをしたあと、大きくのびをしながら身を起こす。
「眠ってたの?」
「そうみたい。夢を見てた」
「どんな夢?」
 そういわれて、ユナは眉をひそめる。夢の記憶は指のあいだから砂のようにこぼれ落ち、銀色の光が、一瞬、名残のようにきらめいて消えた。
「忘れちゃった」肩をすくめて笑い、レアナと並んで、崩れた壁の上に腰掛ける。
 ウォルダナの大草原を見晴らす、ふたりのとっておきの場所。ローレアが咲き乱れる草原は、遠くの方は水色のもやのようにぼんやりし、その果てには、ウォロー山脈が青くかすんでいる。
「明日は生徒たちとここにピクニックにくるの」レアナはいい、西に傾いた太陽に、まぶしげに目を細めた。
「ピクニック? 素敵!」ユナはため息をつく。「レビントン先生がレアナみたいな先生だったら、わたしも、もっとましな生徒だったのに」
 小学校時代のレビントン先生は、ユーモアのかけらもなく、授業はたいそう退屈な上、なにかと罰を与えるので、ユナはすっかり勉強嫌いになってしまった。レアナがなぜそうならなかったのか、ユナにはいまだにわからない。
「卒業の一か月前、レビントン先生が足の骨を折って代理の先生がきたときは、ほんとにうれしかったな。でも、レアナが辞めたら、子どもたちがっかりするね」ユナはレアナの方を向く。「ねえ、大学のこと、いつ伯父さんたちに話すの?」
 かすかなため息が、従姉いとこの口からもれた。
「そうね……ユナが村の誰かのプロポーズを受けて婚約したら」レアナはいたずらっぽくユナを見る。「そうなったら、父さんも母さんも、結婚の準備に気を取られて、わたしが都の大学に行きたいといおうが、月に行きたいといおうが、きっと気にも留めないわ」
「村の誰かと? 冗談でしょ。自分よりかけっこが遅い男の子と結婚だなんて」
 ユナは、子どものころから村の少年たちの誰よりも足が速く、木登りも誰よりも得意だ。もちろん、結婚する気になれないのは、そのせいではないけれど。
「みんな気の毒に」
「全然。誰も本気じゃないもの。イルナ伯母さんがよくいってるじゃない? みんなただちやほやするだけで、いざ結婚となったら、木登りより料理の上手なを選ぶって」
「母さんは、ユナに女性らしくしてほしくて、そんなふうにいうのよ」
「だったら、完全に失敗ね。そんなことより、わたし、広い世界を見てみたいな」ユナは夢見るようにいい、ウォロー山脈を見やる。あの山々の彼方には、隣国ルシナンの大地が広がっているはずだ。
「ここと家との往復ばかりしてて、どうやってその広い世界を見るの?」
「レアナ」ユナはにっこりする。「チャンスは空から降ってくるものよ」
 レアナは笑った。ユナの大好きな、音楽のようにやさしい声で。
「そろそろ帰らない?」
 ユナはかぶりを振る。
「先に帰って。わたし、もう少しここにいる」
「そう? あまり遅くならないようにね」
 
 オレンジと金色に燃える夕陽が、古代の遺跡に幻想的な光と影を投げかけていた。息をのむようなその神々しさのなか、ユナはまた世界とひとつになる自分を感じていた。
 そのとき、一羽のちょうが目の前をひらひらと飛んでいった。ユナははっと注意を惹かれる。虹色に輝く蝶||
 ユナは誘われるように蝶のあとを追った。つかまえようと思ったのではなく、ただ間近に見てみたかったのだ。けれども、虹色の蝶は、ローレアにとまったかと思うまもなく、ユナが近づく前に、銀色を帯びた美しい羽を広げ、ひらりと身をかわすように舞い上がり、遠くへ遠くへ飛んでゆく。ユナは夢中で追った。
 強い甘い香りに、ユナははっと我に返る。ゆっくりと顔を上げ、息をのんだ。あたりの木々は、枝という枝に無数のつぼみをつけ、ちらほらとほころび始めた花もある。淡い色の大輪の花だ。
 なんの花だろう? こんな花、見たことがない||。そう思ったとき、気がついた。これはオオユリの木だ。いつのまにかオオユリの群生地にきていたのだ。
 心臓がドキドキと音を立てて打ち始めた。オオユリの花は百二十年に一度しか咲かないと聞いている。もちろん、ユナが見るのは初めてだ。
 虹色の蝶は、花に気を取られているユナにアピールするように、鼻先をふわりと舞い、からかうように飛んでいった。
「待って!」ユナはあとを追う。
 オオユリの木がまばらになり、突然、視界が開けた。そこから先は崖だった。
「おまえの勝ちね、ちょうちょ。わたしはそこから飛べないもの。でも、ちょっとその羽を見せてくれない?」
 それにこたえたのか、蝶は崖からせり出すようにはえている一本の古木にとまった。
「いい子ね! じっとしてて。じっと、じっと……」
 ユナは蝶をおどかさないよう、そっと木に登る。こんなに斜めに伸びるなんて、根性の悪い木だ。しかも、お目当ての蝶は、うんと先の梢に咲く花に、すまし顔でとまっている。すべすべした太い幹から、注意深く枝に足を移しながら下を見た。薄暗くてはっきりわからないが、断崖の底まではかなりある。高所恐怖症じゃなくてよかった。
「おまえ、そんなところでのんびり構えて、わたしが行けないって高をくくっているんでしょ? いまに見てなさい。ほら||
 だしぬけに、バキッっと音がした。蝶は銀色の鱗粉りんぷんをふりまいて、驚いたように舞いあがり、ユナは身体が放り出されるのを感じた。とっさに右手でなにかをつかむ。
 つかんだのは、つけ根から裂け、いまにも木の幹と決別しようとしている、さっきまで彼女が乗っていた枝だった。
 ユナは、崖のふちをつかもうと、左手を伸ばしてみる。だが、あともう少しというところで届かない。
 この次から木に登るときは、崖っぷちの木だけはやめておこう。もしこの次ってものがあればだけど。
 ミシッといやな音がして、身体が下がった気がした。気のせいよね。そう思ったとき、ピシッと鋭い音がして、今度は確実に下がったのがわかった。いよいよ枝が幹とおさらばしようとしているのだ。
「神さま!」ユナは目を閉じた。
「つかまって!」
 神さまかどうかわからないが、男の声がした。
 ビシッ! ふたたび鋭い音がしたのと、ユナが左手を伸ばしたのは、ほとんど同時だった。
 次の瞬間、あわれな枝は遙か下へと落ちてゆき、ユナはたくましい腕でぐいっと引き上げられていた。