第Ⅰ部 虹色の蝶

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 ローレアの花が丘の上を一面に淡い水色のじゅうたんにしていた。午後の太陽が古い遺跡に降りそそぎ、それが落とした影のところだけ深みのある紫に染まっている。花から花へとみつばちが飛び交い、イチイの木では、はるうたどりが歌っている。
 ユナは、崩れかかった宮殿のなかで、あおむけに寝ながら空を見上げていた。ローレアの咲き乱れる早春からいまごろにかけてが、ユナの一番好きな季節だ。
 もうじき十七になるというのに、いつまでも気ままに家にいるので、伯母は将来を案じている。けれどもユナは、いつもくったくなく笑うのだった。
「イルナ伯母さん、未来はきらきら輝きながら、笑顔で両手をさしのべてくるものよ」
 両親を早くに亡くし、その記憶もおぼろげではあったが、ユナは緑豊かなこのウォルダナで、温かな伯父夫婦に見守られ、従姉いとこのレアナとともに、なに不自由なく育った。クレナの丘を望む小さな村は、澄みきった川や白樺の森があって、夜には降るような星がきらめく。
 けれども、ほんの時おり、ふとなにかを忘れているような気がすることがあった。どこかで遠い声が自分を呼んでいるような、不思議な気持ちになることが。
 ずっと昔、誰かと大切な約束を交わさなかったろうか? 別の時代、別の世界で||
 いまもなぜかそんな気がして、ユナは眉をひそめる。それから、すぐに笑ってかぶりを振った。わたしったら、またばかなことを。
 それにしても、なんて青い空だろう。星が見えそうなほど澄んでいる。
 ユナは目を閉じ、ローレアのやさしい香りを胸いっぱいに吸いこんだ。草原を渡ってきた風が、ほおをなでてゆく。ああ、わたし、世界とひとつになっている。身体がふるえるような幸福感が、ユナを包んだ。
 
「現代よりも進んだ文明がなぜ滅びたのか、まだよくわかっていません。二千年前、あの伝説の戦争があったあと、地上の温度が急激に下がって、世界は氷に閉ざされたといわれています。それが古代文明の最後だったと。そのとき、とこはるのフィーンの国、エルディラーヌに逃れたわずかな人たちが、ふたたびこの地上が暖かくなったときに戻ってきて、あらたな世界を築いたということです。わたしたちが暮らすこの世界をね」
 レアナは生徒たちを見つめ、にっこりする。
「今日の授業はここまで。なにか質問は?」
 ひとりの年少の男の子が、おずおずと手をあげた。
「なあに、ハモン?」
「あのう、父さんがいってたけど、フィーンは永遠の命を持ってるって、ほんとなの? 誰もが大人になったらそれ以上年をとらないで、いつまでも若いままだって」
「ばかいってらあ」別の少年が口をはさむ。「そんなの作り話だよ」
「ロディ」レアナはやさしくさとすようにいう。「ルシナンの人たちは、フィーンは何千年も生きて歴史を見てきたといっているわ。伝説の戦争もね。ただ、フィーンと交流のある人は、いまではほとんどいないということよ。ルシナンとエルディラーヌの国境に住む、ごくわずかな人だけ。
 エルディラーヌへ渡ろうとした学者もいるけれど、決して国境の白銀の川を渡ることはできないんですって。対岸は見えているのに、水の流れが複雑で、フィーンにしか船を操れないそうよ」
 少し言葉を切り、ハモンを見つめてにっこりする。
「わたしは、フィーンにまつわる話は本当だと信じているわ」
「じゃあ、先生は、二千年前に地上が凍ったのは、ダイロスが世界を死の吹雪に包んだからだって話も信じてるんですか?」ひとりの少女が聞いた。
「そのことは、正直いってよくわからないわ。ただふと、別のなにか、いまの常識では説明できないような力が働いたのではないかって思ったりするの。うまくいえないけれど」
「ぼくもそう思います」教室の後ろにすわっていた少年がいった。最年長で、利発そうな黒い瞳が印象的な少年だ。「気象の変化と長い戦争の終わりが偶然重なっただけかもしれないけど、過去に起こったことで、いまの常識で証明できないことは、ほかにもたくさんあるでしょう?」
「そうね」レアナはうなずく。「それに、こんなに長いあいだ語り継がれてきた話は、すべて作り話だとはいえない気がするわ。そうだ。明日はクレナの丘にピクニックに行きましょうか?」
 生徒たちからわっと歓声があがった。
「王宮の壁はほとんど崩れているけど、きれいに彫刻された円柱がいくつか残っているわ。二千年前のクレナは、ふもとまで美しい街が広がっていたそうよ。そんな世界を想像しながら、ゆっくり過ごしましょうね。それじゃ、また明日」
 生徒たちは、レアナにさよならをいっては、あっという間に教室を飛びだしていった。レアナはほっと息をつく。
 彼女は去年、ユナとともに高等科を卒業し、こうして地元の小学校の教師となった。子どもたちは可愛く、教えることは楽しい。けれども彼女は、いつか都の大学に行きたいと考えていた。そして、ユナだけはその夢を知っている。子どものころからずっと一緒だったユナは、誰よりも彼女の気持ちをわかっていた。そしてレアナも、誰よりもユナのことをわかっている。
 たとえばユナは、内気な自分と違って天真らんまんで陽気だが、本当はとても寂しがり屋だ。栗色の髪も明るい茶色の瞳もはっとするほどきれいで、村中の少年たちの胸を焦がしているのに、ユナの方にはまったくその気がない。そして、心の奥には、亡くなった父親と同じように、遠い国へのあこがれを秘めている……。
 片手に本を抱え、小さな校舎の扉を閉めて石段を降りると、レアナは空を見上げた。雲ひとつなく、吸いこまれそうに青い。こんな日はきっと、ユナはクレナの丘にいる。
 レアナはほほえみ、ローレアの咲く白樺の木立を歩き始めた。
 ローレアは、このウォルダナにだけ咲く花だ。古代の詩人ヨハンデリも愛したと伝えられ、早春の訪れとともに小さな水色の花を咲かせ、白樺の森や草原を染める。特にクレナの丘は、遠くから見ると、神々しい遺跡が、水色のヴェールのなかに幻のように浮かびあがって、息を呑むほど美しい。
 
 早春の丘を水色に染める
 うるわしのローレア
 
 レアナは歌を口ずさむ。旧世界から歌い継がれてきたという古い歌。
 こうして風そよぐ草原で、ローレアのやさしい香りに包まれていると、なぜか不思議なきょうしゅうが胸を満たす。そして、小さな水色の花が、遠い過去からのことづてを、そっとささやきかけているような気がしてくるのだった。
 
 われはるかな地をさすらうとも
 雪解けの故郷に||
 
 レアナは歌うのをやめる。
 遠吠えが聞こえた気がした。どこか切なく、胸を打つ響き。誰かに呼びかけるような、歌うような遠吠え。
 狼||
 レアナは立ち止まり、耳を澄ます。けれども、聞こえてくるのは、春歌鳥の声と蜜蜂の羽音、せせらぎと風が渡る音だけだった。
 レアナはかぶりを振って笑う。このあたりに狼はいない。それに、狼の遠吠えなんて聞いたこともないじゃないの。きっと空耳だ。
 白樺の木立を抜け、広々とした草原に出る。きらめく川の向こう、古い遺跡をいただくクレナの丘が見えてきた。