第2章
狼は歌っていた。輝く
狼は歌っている。時が満ちた。その時がきたのだと。そしてユナは、自分がこたえるのを聞いた。
わたしはここよ。ここにいる||。
「やっぱりここにいた」
やさしい声が響き、ユナは目を開けた。降りそそぐ太陽の光を背景に、本を抱えたシルエットが自分を見下ろしている。
「レアナ?」ユナは瞬きした。
ついいましがた、別の声を聞いていた気がして、少し戸惑う。一瞬、銀色の光が名残のようにきらめき、そして消えた。
「眠ってたの?」
「そうみたい」ユナは元気に起き上がり、レアナと並んで、崩れた壁の上に腰掛ける。
ウォルダナの大草原を見晴らす、ふたりのとっておきの場所。ローレアが咲き乱れる起伏にとんだ草原の果てには、ウォロー山脈が
「明日は、生徒たちと、ここにピクニックにくるの」
「ピクニック? いいなあ。わたしもレアナみたいな先生がよかった」
レアナの前に村の学校で教えていた先生は、ユーモアのかけらもなく、なにかと罰を与えるので、ユナはすっかり勉強嫌いになってしまった。レアナがなぜそうならなかったのか、ユナはいまだにわからない。
「レアナが辞めたら、子どもたち、きっと寂しがるね」ユナはレアナを見る。「ねえ、大学のこと、いつ伯父さんたちに話すの?」
かすかなため息が、
「ユナが、村の誰かのプロポーズを受けたとき。そうなったら、きっと父さんも母さんも結婚の準備でいっぱいで、わたしが都の大学に行きたいといおうが、月に行きたいといおうが、気にも留めないもの」
「レアナったら。わたしが結婚する気ないこと、知ってるでしょ? それに、みんなちやほやするだけよ。イルナ伯母さん、よくいってるじゃない? いざ結婚となったら、男は木登りが得意な娘より、料理上手な娘を選ぶって」ユナはいい、夢見るようにウォロー山脈に目をやった。「そんなことより、わたし、もっと広い世界を見てみたいな」
あの山並みの向こうには、隣国ルシナンの大地が広がっているはずだ。
「ここと家の往復ばかりで、どうやってその広い世界を見るの?」
ユナは、さあ、というように肩をすくめ、目をくるりと回す。レアナは笑った。ユナの大好きな、音楽のようにやさしい声で。
「そろそろ帰らない?」
「先に帰って。わたし、もう少しここにいる」
「そう? あまり遅くならないようにね」
オレンジと金色に燃える夕陽が、古代の遺跡に幻想的な光と影を投げかけていた。息をのむようなその神々しさのなか、ユナはまた世界とひとつになる自分を感じていた。
そのとき、一羽の
ユナは、誘われるようにあとを追う。
虹色の蝶は、ローレアにとまったかと思うと、ユナが近づく前に、銀色を帯びた美しい羽を広げて舞い上がり、遠くへ遠くへと飛んでゆく。ユナは夢中で追った。
強い甘い香りに、ユナははっと我に返る。顔を上げ、息をのんだ。あたりの木々は、枝という枝に
なんの花だろう? こんな花、見たことない。そう思って、気がついた。オオユリの木だ。ここはオオユリの木の群生地。オオユリの花は、百二十年に一度しか咲かない。少なくとも、言い伝えでは||。
心臓がドキドキと音を立てて打ち始める。蝶は、そんなユナの前に一瞬ふわりと舞い戻ると、ふたたび優雅に飛んでいった。
「待って!」ユナはあわててあとを追う。
オオユリの木がまばらになり、突然、視界が開けた。そこから先は崖だった。
「おまえの勝ちね、ちょうちょ。でも、少しだけその羽を見せてくれない?」
思いが通じたのか、蝶は崖からせり出すようにはえている一本の古木にとまった。
「いい子ね!」ユナはそっと木に登る。
こんなに斜めに伸びるなんて、根性の悪い木だ。しかも、お目当ての蝶は、枝の先に咲く花に澄まし顔でとまっている。薄暗くてよく見えないが、崖の底まではかなりありそうだ。ユナは、すべすべした太い幹から、注意深くその枝に足を移す。
「じっとしてて。じっと、じっと||」
だしぬけに、バキッっと音がした。蝶は銀色の
つかんだのは、つけ根から裂け、いまにも木の幹と決別しようとしている、さっきまで彼女が乗っていた枝だった。
幹の方へ左手を伸ばそうとしたとき、ミシッといやな音がして、身体が下がった気がした。続いて、ピシッと鋭い音。今度は確実に下がったのがわかった。
「神さま!」ユナは目を閉じる。
「つかまって! はやく!」
神さまかどうかわからないが、男の声がした。
ビシッ! ふたたび鋭い音がしたのと、ユナが左手を伸ばしたのは、ほとんど同時だった。
次の瞬間、あわれな枝は遙か下へと落ちてゆき、ユナはたくましい腕でぐいっと引き上げられていた。