第19章 前半へ12第19章 後半へ

 きな臭い匂いに、ユナは目を覚ました。なんだろう? 階下もなにやら騒がしい。
 眉をひそめたとたん、ガシャンという大きな音とともに、バルコニーから二人の男が飛び込んできた。ガラスの破片が、部屋中に飛び散る。
 ユナは飛び起きた。
 男たちは、どちらも、ドロテの紋章の入った軍服を着ている。
「一緒に来てもらおう」片方がいった。
 ユナは動揺を抑え、落ち着いた動作で床に降り立つ。ちょうど服も靴も身につけたままだ。酔いはすっかりめていた。
「なんの用? わたしはただの旅人よ」
「うまく訛りを隠しているな」兵士はふっと笑う。「あいにく、お仲間は違ったようだが」
 ユナは荷物の脇の弓へと目を走らせる。手を伸ばすには、少しばかり遠すぎた。
 廊下から、みんなの怒鳴り声が響いてくる。
「この部屋にも火の手がまわる」兵士はいった。「生き延びる道は、この窓から逃れるしかない」
「さあ!」もう片方が詰め寄った。
 そのとき、扉のノブがガチャガチャと鳴り、次の瞬間、扉を体当たりで押し破って、ルドウィンが飛び込んできた。
 ユナに詰め寄った兵士は、身動きする間もなく、短剣をうけて倒れた。
「逃げろ!」ユナにいうと、ルドウィンは残る兵士を見すえ、長剣を抜く。
 ユナは弓矢をつかみ、廊下に飛びだした。
 
 ヒューディは、夢中で煙をかいくぐり、転がるように外に出た。
 そのとたん、ぴたりと足を止める。目と鼻の先に、ドロテ兵が待ち構えていた。その数二名||いや、三名だ。
「やあ。今晩は!」ヒューディはいうなり、くるりと向きを変える。まずい! 厨房の勝手口から出よう。
 彼らに追われながら、ヒューディは煙の渦巻くなかを夢中で逃げる。厨房は、どこもかしこも燃えていた。涙と煙で目がかすむ。
 ヒューディは、咳き込むうちに、ふたりの兵士から隅に追い詰められてしまった。彼は左右に目をやり、次に調理台を見る。彼らが同時に飛びかかってきたときには、すでに身をかがめ、調理台の下をくぐって反対側に抜けていた。そこで別の兵士が襲いかかってきた。とっさに目の前のフライパンをつかんで応戦する。
 腰に短剣を帯びていたのだと思い出したとき、先ほど避けたひとりが走ってきて、ヒューディは反射的に身をよけた。相手はそこにあった大なべに突進し、その勢いで鍋の油をどっとひっくり返した。近くの火がぱっと燃え移り、ふたりの兵士は絶叫とともに炎に包まれる。ヒューディは目を背け、激しく咳き込みながら、勝手口から飛びだした。
 煙が染みて、目がまともに開けられない。ただならぬ事態に怯えているのだろう。馬たちがさかんにいななく声が聞こえてくる。
 その声を頼りに走り、目をこすったとたん、ヒューディは息を呑んだ。抜き身の剣を構えた兵士が、オレンジ色の炎を無気味に目に映して立ちはだかっている。
 兵士は、にやりと笑って飛びかかってきた。ヒューディはとっさに身をかがめ、地面に転がる。
 わっという短い声がした。続いて、ドサッという大きな物音。
 顔を上げると、兵士はうつぶせで倒れていた。その後ろには、切り株がひとつ。
 と、兵士の腕が、地面をつかむように動いた。少し先には剣が落ちている。ヒューディは、ぱっと身を起こして、その剣をつかむと、起き上がろうとした相手に、夢中で突き立てた。
 気がつくと、兵士は彼の足もとで息絶え、ヒューディはぶるぶると震えていた。
 もちろん、やらなければやられていた。けれども、相手は自分と同じ、生身の人間だ。いや、灰色を殺したときでさえ、あとになって、いいようもない後味の悪さが胸の中に広がった。決して消し去ることのできない、苦い思いが。
 そのとき、馬小屋の前で人影が動いた。彼は、はっとわれに返る。母屋から火の粉が強風に舞うなか、目を凝らすと、もう一度、人影が動いた。木の枝を思わすシルエット。
「ヒューディ?」
「ジョージョー!」ヒューディは叫んで駆け寄る。
「よかった、ヒューディ! 手を貸してくれ」
 
 ユナはかんをたよりに煙でいっぱいの廊下を走り、手探りで階段の手すりを見つけると、弓を手にしたまま後ろ向きにまたがり、踊り場まで一気に降りたあと、さらに階下へとすべり降りた。下では、フォゼが待っていた。
「行こう!」彼はユナの手をとる。
 壁もカーテンも、なにもかもが燃えていた。走りすぎる横で、棚が炎に包まれながら崩れ落ちる。
 厨房から、火だるまの男がわめきながら走り出てきた。フォゼは悲鳴をあげ、手を離して尻もちをつく。男はひざを折るようにして床にくずおれた。
「フォゼ!」ユナは彼の腕をとる。「立って!」
 起き上がろうとして、フォゼはふと天井を見あげた。その目が大きく見ひらかれる。次の瞬間、フォゼはユナの手を放すと、思いきり突き飛ばした。
 ユナは、身体が床に転がるのを感じた。弓が手を離れ、耳もとでバリバリと恐ろしい音がして、床がドーンと揺れた。
 気がつくと、フォゼが大きなはりの下敷きになっていた。
「フォゼ!」ユナは悲鳴を上げる。
 フォゼは、両目をむなしく見開いたまま動かない。
「フォゼ! フォゼ!」必死に呼びかけ、強く揺さぶる。
「ユナ!」誰かが彼女を抱え起こした。「行こう!」
 ルドウィンだった。
「フォゼはどうするの?」
「死んでるよ! 早く!」ルドウィンはユナの手を引いた。
「待って!」ユナは、床に転がっていた弓をつかむ。
 ふたりが逃げるあとから、天井が落ちてきた。
 表に飛びだすと、残党が左右から襲いかかってきた。ルドウィンは、ユナをかばいながら、目にもとまらぬ剣さばきで彼らを倒す。次の瞬間、いまくぐり抜けた正面玄関が、ごうおんとともに崩れ落ちた。
「ユナ!」
「ルド!」
 ヒューディとジョージョーが馬に乗って駆けてきた。アリドリアスとローレア、そしてフォゼの馬を従えている。
「フォゼは?」ヒューディが聞く。
 ルドウィンはかぶりを振ると、ユナをローレアに乗せ、アリドリアスに飛び乗った。
 
 燃えさかる宿をあとに、四方八方から吹きつける風のなか、彼らは走った。
 襲撃者たちは絶命したか重傷を負ったか、さしあたっての追っ手はいなかった。だが、いまに仲間が駆けつける。彼らをくため、浅瀬を渡って痕跡こんせきを消した。
 どのくらい走っただろうか。ルドウィンが声をかけた。
「夜明けまでまだ少しある。ここでちょっと休もう。明るくなる前に、峡谷に入ったほうがいい。ドロテの奴らが、こっちにも手を伸ばしてくるだろうからな」
 そこは、トネリコに似た木が点在する草地だった。木々のあいだには、浅瀬から続く細い小川が流れている。彼らは無言のまま馬をつなぐ。
 馬が水を飲むかたわらで、ジョージョーは草の上に座りこんだ。ひざを抱えて、両腕に顔をうずめる。ヒューディが隣にいき、小刻みにふるえている細い肩に、黙ったまま腕を回した。
 ユナはその場にたたずみ、呆然とふたりを見つめていた。フォゼが死んだ。ジョージョーの大切な友だちが。およそ死とはなんの関係もないような楽天的なフォゼが……。マレンの蜂蜜がたっぷりかかった真っ白なチーズを、世にも幸せそうにほおばっていたのに、その少しあとには、突然断ち切られたように逝ってしまうなんて……。
「ユナ」ルドウィンがそばに来た。
「フォゼは……」ユナは、ふるえながらつぶやく。「フォゼは、わたしを助けようとして……」
「知ってる」ルドウィンはうなずいた。
「わたしを待っててくれたのに……」ユナのほおを、大粒の涙がこぼれ落ちる。「宿の人たちは?」彼女はルドウィンを見あげた。
「助からなかっただろう」
 嗚咽おえつがこみあげ、ユナは目を閉じる。
「ドロテ兵に、密告するよう脅されていたんだ」ルドウィンはかすれた声でいう。
 部屋に飛び込んできた兵士の言葉から、おおよそ察しはついていたが、ユナは恨む気にはなれなかった。そんなことをするのは辛かったに違いない。それに、自分たちさえ来なければ、なにも起こらなかったのだ。
 ルドウィンは、黙ってユナを抱き寄せる。
「ルド……」ユナはたまらなくなって、彼の胸に顔をうずめ、わっと泣きだした。「クレナに帰りたい……。帰って、レアナに会いたい……」
 ルドウィンは、腕に力を込め、ユナが落ち着くまでそのまましっかり抱きしめていた。それから、ユナをそっと草の上にすわらせる。
 月のない夜だった。いつしか風は弱まり、満天の星が宝石のようにきらめいている。
 流れ星が続けてふたつ、尾を引いて消えた。
 ルドウィンにもたれながら、ユナは聞く。
「あなたはどうして、こんな危険な旅に来たの? 死ぬかもしれない旅に」
 わずかな間のあと、ルドウィンはこたえた。
「そうすべきだと思ったから。そうしたいと望んだからさ」
 ユナは、少し身体を離し、彼の信念に満ちた瞳を見あげた。
「怖くないの?」
 彼は眉を上げる。
「怖くないといえばうそになる。ただ、怖れていてはなにもできない。遅かれ早かれ、人は死ぬ。肉体はほろび、この世から消え去る。だけど、魂は永遠に滅びないんだ。灰色の奴らのようにならない限りはね。一番怖いのは、奴らのように魂を失うことだよ」
 ユナはため息をついた。
「どうしてそんなふうに思えるの? まるですべてが当たり前のことのように……」
「目の前に、伝説の人物の生まれかわりがいるからさ」ルドウィンは笑い、星空を見あげる。
 その笑顔のなかに、ユナはふと、ためらいに似たなにかを感じとった。
「ルド||」彼女はささやく。「なにか隠してる?」
「なにも隠してはいないさ」彼はもう一度笑った。
 ユナは悟った。ルドウィンは嘘をついている。彼女になにかを隠している。なにか、とても大切なことを。
「ルド||
「ユナ」ルドウィンは彼女をさえぎる。「もう寝た方がいい」
 ユナはその言葉を無視して、彼の瞳の奥をじっと見つめた。
||どこかで逢った?」ずっと前に。クレナの崖で助けてくれる前に。
 とびの瞳の奥が、かすかに揺れた。
 その瞬間、雷に打たれたような衝撃が全身を駆け抜ける。そして、ユナは悟った。
 わたしはこのひとを愛している。黄昏の崖で助けてもらったあの日から。いいえ、その遙か前から||
 目の前に、霧に包まれた森があらわれた。その夜明け前の薄青い森を、彼女は素足で歩いている。誰かがあとをついてくる。彼女は振り返った。
 もちろん、そうだ。そこでやさしくほほえんでいるのは、ルドウィンそのひと||まだ少年とも呼べる若さで、髪も瞳もいまより濃い色をしているけれど、その瞳がたたえる真摯な輝きと、どこかいたずらっぽいほほえみは、まぎれもない彼そのひとだった。
「あなただったの……」ユナはささやく。
 ルドウィンはこたえなかった。
「遠い昔、わたしたち、一緒にいたのね」
 ルドウィンの沈黙は、どんな言葉よりも真実を語っていた。
||いつわかったの?」
 少しのあいだ目をふせたあと、ルドウィンは遠くを見つめ、静かにいった。
「草原で傷を負ったあと、生でも死でもない、あわいの世界をさまよっていたときに」
「そうだったの……」
「だけど、最初に出逢ったときから感じていたよ」彼はユナの方を向く。「きみは、特別なひとだと」
 歳月を超えた恋人たちは、なにもいわずに見つめあった。
 時が、止まった。
 始まりも終わりもない永遠の一瞬のなか、ユナは、自分がずっとこのひとときを待ち続けていたことを知った。訪れるべくして訪れた瞬間なのに、それは奇蹟のように思われた。
 ルドウィンは、ユナを見つめたまま、彼女のほおをやさしく両手で包み込む。星明かりに輝く彼女の瞳に、ルドウィンの深い瞳が影を落とした||
「ルド」ヒューディの声が響き、ふたりはさっと身を離す。「夜番はぼくがやるよ」
 軽く咳払いをすると、ルドウィンはいった。
「そうだな||ユナとジョージョーは休ませよう。まずは、俺が見張りに立つ。夜明け前に起こすから、そのあと、交代してくれ」
 
 ルドウィンは、木陰で立ったまま眠っている愛馬を見つめた。
 かたわらでは、ユナとヒューディ、ジョージョーの三人が寄り添うように眠っている。
 ヒューディを起こすつもりはなかった。今宵、ヒューディは自分で思っている以上に、フォゼの死や、人間の兵士を殺したことに衝撃を受けている。朝までいくらもないが、少しでも休ませたかった。
 トネリコに似た木々がれの音を立て、小川の流れるさらさらという音と二重奏を奏でている。どこかで、ふくろうが鳴いた。テタイアでは、梟は、の国の使いだと信じられている。ウォルダナでは、えいと真実の象徴だ。
 ||クレナに帰りたい……。帰って、レアナに会いたい……||
 レアナ。ユナの従姉いとこ。ヒューディが想いを寄せているであろう、心やさしい少女。
 水車小屋の前で別れたときの、澄んだブルーグレイの瞳と、しんなまなざしで彼を見つめ、ささやいた声がよみがえる。
 ||どうか、ユナを守ってください。そして、きっと無事に帰ってきて……||
 ||わかった||
 彼はこたえた。
 ||必ず守る。そして、きっと帰ってくるよ||
 夜明けとともに、いよいよエレドゥ峡谷に入る。運命の一日。その言葉と、これまでのすべてが試される。
 ふたたび、梟が鳴いた。ルドウィンは夜の闇を見すえる。
 長く厳しい一日となるだろう。