きな臭い匂いに、ユナは目を覚ました。そのたとたん、ガシャンという大きな音がして、バルコニーから二人の男が飛び込んでくる。
 ガラスの破片が、部屋中に飛び散り、ユナは飛び起きた。
「一緒に来てもらおう」松明を手に片方がいう。軍服にはドロテの紋章。
「なんの用?」動揺を抑え、ユナは落ち着いた動作で床に降り立った。
 ちょうど服も靴も身につけたままだ。酔いはすっかりめていた。
「わかっているはずだ」
「わからないわ。わたしはただの旅人よ」
「うまく訛りを隠しているな。あいにく、お仲間は違ったようだが」
 ユナは荷物の脇の弓へと目を走らせる。手を伸ばすには、少しばかり遠すぎた。
「今夜は火の回りが早い。この部屋も、じき焼け落ちる」兵士は松明を寝台に投げ、ユナに詰め寄る。
 そのとき、扉のノブがガチャガチャと鳴った。次の瞬間、その扉を破って、ルドウィンが飛び込んでくる。兵士は短剣をうけて倒れ、寝台が燃え上がるなか、残る兵士が剣を抜いた。ルドウィンも長剣を抜き、ユナに叫ぶ。
「逃げろ!」
 ユナは弓矢をつかみ、廊下に飛びだした。
 
 ヒューディは広間を抜け、正面玄関から出ようとして息を呑んだ。表にはドロテ兵が立ちはだかっている。煙の渦巻くなか、勝手口を目指して引き返すと、兵士も追ってきた。
 厨房は、どこもかしこも燃えていた。煙と涙で目がかすみ、ヒューディは片隅に追い詰められる。
 調理台と戸棚のあいだを抜ければ勝手口だが、炎に阻まれ通り抜けることができない。兵士が襲いかかってきた瞬間、ヒューディは身をかがめ、調理台の下をくぐって反対側に抜ける。そこへ、別のドロテ兵が飛び込んできた。
 ヒューディはとっさに、目についたフライパンを投げつける。フライパンは相手の顔面を直撃。兵士が倒れたところに、走ってきた最初の兵士と衝突し、もつれるように調理台の大なべにぶつかった。中の油がひっくり返り、近くの火がぱっと燃え移る。
 二人は絶叫とともに炎に包まれ、ヒューディは目を背け、勝手口から飛びだした。
 
 ユナは煙でいっぱいの廊下を走り、激しく咳き込みながら、手探りで階段の手すりを見つけた。弓を背負って後ろ向きにまたがり、踊り場まで一気に降りる。
「ユナ!」下からフォゼの声がした。
 階下へとすべり降り、フォゼとともに走り出す。
「みんなは?」
「ジョージョーは窓から||うわっ!」
 厨房の方から火だるまの男が現れ、フォゼはのけぞって尻もちをついた。男はよろめきながらくずおれる。黒い長靴。ドロテ兵だ。
「フォゼ!」ユナは彼の腕をとった。「立って!」
 起きようとしたフォゼの目が、大きく見ひらかれる。次の瞬間、彼はユナは思いきり突き飛ばす。ユナは仰向けに倒され、弓ごと背中を打ちつけた。バリバリッと恐ろしい音がして、ドーンと床が揺れる。
 気がつくと、フォゼがはりの下敷きになっていた。
「フォゼ!」ユナは悲鳴を上げる。
 彼はむなしく両目を開けたまま動かない。それでも、必死に呼びかけ、強く揺さぶる。
「フォゼ! フォゼ!」
「ユナ!」誰かが彼女を抱え起こした。ルドウィンだった。「来るんだ!」
 一瞬ためらい、手を引かれて走り出す。ふたりが逃げるあとから、天井が落ちてくる。
 表に飛びだすと、残党が襲いかかってきた。ルドウィンは、目にもとまらぬ剣さばきで彼らを倒す。次の瞬間、ごうおんとともに、正面玄関が崩れ落ちた。
 ヒューディとジョージョーが馬に乗って駆けてくる。アリドリアスとローレア、そしてフォゼの馬を従えている。
「フォゼは?」ヒューディが聞く。
 ルドウィンはかぶりを振ると、ユナを乗せ、アリドリアスに飛び乗った。
 
 燃えさかる宿をあとに、彼らは走った。さしあたっての追っ手はいないが、いまに仲間が駆けつける。彼らは浅瀬を渡って痕跡こんせきを消した。
「ここで休んで、夜明け前に峡谷に入ろう」トネリコに似た木が点在する草地で、ルドウィンが声をかけた。
 浅瀬から続く細い小川で、馬が水を飲むかたわらで、ジョージョーは草の上に座りこみ、ひざを抱えて両腕に顔をうずめる。ヒューディが隣にいき、その細い肩に腕を回した。
 ユナは呆然と立ち尽くす。ルドウィンが馬たちを木につなぎ、ユナに歩みよった。
「フォゼは||フォゼは、わたしを助けようとして||」ほおを大粒の涙がつたう。
 ルドウィンは彼女を抱き寄せた。ユナは肩をふるわせ、彼の胸に顔をうずめる。彼は、ユナが落ち着くまでしっかりと抱きしめていた。それから、ユナを草の上にすわらせる。
 月のない夜だった。いつしか風はやみ、満天の星が宝石のようにきらめいている。
「あなたはどうしてこんな旅に来たの?」ユナは聞き、彼はこたえた。
「そうしたいと望んだから」
「なぜ? 危険だとわかっていたのに」
「エレタナ王女の頼みとあってはね」彼は軽く眉を上げる。「さあ、もう休んだほうがいい」
 その表情か、あるいはその声の中なのか。ユナは、微かなためらいを感じとった。ルドウィンはなにか隠している。なにかとても大切なことを。ユナは彼のとび色の瞳を見つめた。
「ずっと前||どこかで逢った?」
 瞳の奥が、かすかに揺れる。その瞬間、雷に打たれたようにユナは悟った。わたしはこのひとを愛している。黄昏の崖で助けてもらう遙か前から||
 目の前に、霧に包まれた森があらわれた。その夜明け前の青い森を、彼女は素足で歩いている。誰かがあとをついてくる。彼女はゆっくりと振り返る。
 もちろん、そうだ。そこでほほえんでいるのは、ルドウィンそのひと||まだ少年ともいえる若さで、髪も瞳もいまより濃い色をしているけれど、その瞳がたたえる真摯な輝きと、どこかいたずらっぽいほほえみは、まぎれもない彼だった。
「遠い昔、わたしたち、一緒にいたのね」
 ルドウィンはこたえなかった。彼の沈黙は、どんな言葉よりも真実を語っていた。
「ずっと知っていたの?」
「いや」彼は静かにいう。「負傷して、あわいの世界をさまよっていたときに思い出した。だけど、最初に逢ったときから、どこかではわかっていた。きみは特別なひとだと」
 歳月を超えた恋人たちは、なにもいわずに見つめあった。始まりも終わりもない永遠の一瞬のなか、ユナは、自分がずっとこのひとときを待っていたことを知った。訪れるべくして訪れた瞬間なのに、それは奇蹟のように思われた。
 流れ星がふたつ、長い尾を引いて夜空を駆ける。ルドウィンは、彼女のほおをやさしく両手で包み込み、星明かりに輝く彼女の瞳に、彼の瞳が影を落とした||
「ルド」ヒューディの声が響き、ふたりはさっと身を離す。「夜番はぼくがやるよ」
「そうだな||」彼は咳払いをした。「ユナとジョージョーは休ませよう。まずは俺が見張りに立つ。夜明け前に起こすから、そのあと、交代してくれ」
 
 ルドウィンは、木陰で立ったまま眠る愛馬を見つめていた。かたわらでは、ユナとヒューディ、ジョージョーが、寄り添うように眠っている。
 ヒューディを起こすつもりはなかった。今宵、彼もまた、自分で思っている以上に衝撃を受けている。朝までいくらもないが、少しでも休ませたかった。
 トネリコに似た木々がれの音を立て、小川の流れるさらさらという音と二重奏を奏でている。どこかで、ふくろうが鳴いた。テタイアでは、梟は、の国の使いだと信じられている。ウォルダナでは、えいと真実の象徴だ。
 水車小屋で、ユナの従妹、レアナと別れたときのことがよみがえる。澄んだブルーグレイの瞳と、その瞳でまっすぐに彼を見つめ、こういった彼女の声が。
 ||どうかユナを守ってください。そして、きっと一緒に帰ってきて……||
 彼はこたえた。
 ||わかった。必ず守る。そして、きっと一緒に帰ってくるよ||
 夜明けとともに、いよいよエレドゥ峡谷に入る。運命の一日。その言葉と、これまでのすべてが試される。ふたたび梟が鳴いた。ルドウィンは夜の闇を見すえる。
 長く厳しい一日となるだろう。