18

 デュー・レインとフィーンの一行は、ランカを発った四日後、シャナイ山脈に入った。
 軍勢は、革のよろいで身をかためたルシナン騎兵と、サッハルのつるで編んだ胴衣に薄い衣装をまとったフィーンの戦士、合わせて四千騎。フィーンの馬といると、ルシナン騎兵の馬も感覚が研ぎ澄まされ、険しく切り立った斜面でも決して足を踏み外さなかった。
 彼らは、急峻きゅうしゅんな山並みを縫って進み、ヴェテールが近づくと、敵に悟られぬよう、風を読みながら慎重に速度を落として蹄の音をおさえた。そして、初夏の風が吹き渡る午後、ついに眼下に、ヴェテールの街が姿をあらわした。山を背にして構えられた城塞じょうさいとは、あとはクランダの壁と呼ばれる断崖を隔てるだけだ。
 断崖の手前は幅の狭い盆地のようになっており、軍勢はそこに身をひそめた。予想通り山側の守りは手薄で、フィーンの中でも特に視力のよいヨルセイスが裏門を見下ろした。
「門番は五名です。狭間の衛兵には、居眠りをしている者もいます」
「よし。この壁を駆けおりて一斉攻撃に出よう。決行は明日の夜明けだ」
 デューの言葉に異議を唱える者はなかった。全軍が覇気と闘志にあふれていた。
 翌朝、名残の星が瞬く下、シャナイ山脈にフィーンの角笛がこだました。
 門番は誰も事態を把握できず、間の抜けた様子であたりをみまわす。居眠りをしていた狭間の兵士は目を覚まし、将校たちは次々と城壁に飛びだした。
 フィーンと人間の騎兵が、目の前にそびえ立つクランダの壁を、もうもうと土煙を上げながら駆けおりてくる光景に、城塞は瞬時にして狂乱状態に陥った。
 戦士たちは、一気に門を押し破り、どっと城内へ流れこむ。
 狭間のドロテ兵は、フィーンの銀の矢が雨あられと降ってくるのを見ると、の子を散らすように、われ先にと敗走し、ほとんどが逃げ場を失って降伏した。
 ヴェテールは古い港街でもある。南北を流れる紺碧の川には、膨大な艦隊が連なっていたが、軍艦の乗組員たちが異変に気づいたときには、ずらりと並んだフィーンの弓矢部隊が、河岸でいっせいに立ち上がった。
 決着はまたたくまについた。奇襲は、ほとんど戦闘を交えることなく勝利に終わった。
 
 戦果に酔いしれ、歓喜に湧く者たちのなか、ヨルセイスは長い金髪をなびかせて城壁にたたずみ、目の前を流れる大河と、マレンの灌木かんぼくが茂る荒野を眺めていた。
 デューが歩み寄ると、彼は静かにいった。
「二千年前も、この大地を渡りました。あるときはひとりで、あるときは人間の友と。この紺碧の川は、死の吹雪で凍った世界がふたたび温かくなったときにできたものですが、マレンの荒野は当時の面影を残しています。真冬には真っ白な花が咲いて、よい香りをあたり一帯に漂わせていたものです」
 彼が自分のことを話すのはめずらしかった。デューは彼の薄い水色の瞳を見つめる。
「親しい人間がいたのか?」
「ええ。かけがえのない友が」
「レイン! ヨルセイス!」ワイスが駆け上がってくる。「ドロテに反抗して牢に囚われていた将校や市民は、全員解放した。交替で、ドロテの奴らに入ってもらったよ」
「いいぞ。将校を集めよう」デューはいった。
 ドロテの北の本拠地からグルバダが指揮を執るアデラまで、すべての街がドロテ軍の手中にある。彼らは、四千騎の兵士を、残って守りを固める者と、乗っ取った艦隊で川を下って次の街を奪還する者とに分けた。
 トリユース将軍やエレタナほか、セティ・ロルダの館にいた連合軍の参謀は、首都の攻防戦に向けて、その近郊に構えた連合軍司令部に移っているはずだ。
 デューとワイス、ヨルセイスの三名は、彼らに合流するため、疲れた身体を休める間もなく、荒野へと繰り出していった。
 
 二日後の夕方、彼らは連合軍の野営地に着いた。野営地は、ヴェテール奪還の吉報に沸き立ったが、彼らには思わぬ知らせが待っていた。連合軍司令部の在りが漏れたという。
「幸い、事前に情報を得て、敵が襲ってくる前に全員脱出したとのことで、トリユース将軍もエレタナ王女もご無事です」
 テタイアの将校の言葉に、デューはあんの息をもらす。けれども、新たな懸念が胸をよぎった。ユナたちは、そのことを知っているのだろうか? ワイスがちらっと彼を見る。同じ不安を抱いたようだ。だがワイスは、それを悟らせない冷静な声でこう聞いた。
「前線の戦況はどうですか?」
「どこもなんとか持ちこたえています。しかし、ここにきて、ドロテ軍は、ルシナンやテダントンとの国境に膨大な軍隊を送り始めました。この戦争が内戦の枠を越えるのも、時間の問題でしょう」
 重い沈黙が落ちる。予期していたよりはるかに早い展開だった。
「消えていった部隊の行方はつかめましたか?」気を取り直し、デューはたずねる。
「いいえ、まったく。十日前も、北の駐屯ちゅうとん地でテダントンの部隊が消えました。天幕はそのままで、争ったあとは一切なかったそうで、気味が悪いといったらありませんよ」
「どちらの方角に行ったのですか?」
「それが、ひづめの跡ひとつ残っていないのです。直後に砂嵐が吹き荒れましてね。前にルシナンの騎兵隊が消息を絶った際には、河畔で行軍のあとが途絶えていましたし」将校は苦い顔をする。「ここも夜番を増やしました。強風で砂が舞う日は、護衛だけでなく、調理番泣かせですが、このところ風がおだやかで助かります」表情をゆるめ、「幸運でしたね。今夜の飯は、ひと口ごとに口の中がじゃりじゃりいったりはしないでしょう」
 
「きっとだいじょうぶですよ」ヨルセイスが落ち着いた声でいった。「必要な者へは、必ず使いが送られています」
 上弦へと満ちゆく月が、藍色の夜空にかかるなか、彼らは天幕の外で焚き火を囲んでいる。テタイアの将校たちはすでに休み、時おり夜番の兵士がかけあう声と、夜行性の小動物がマレンの繁みで動く音が聞こえるほか、あたりは静かだ。
「だが」デューは、赤々と燃える炎を見つめる。「ヴェテールには来なかった」
「いまごろ着いているんじゃないかな」ワイスがいった。「どこかで入れ違ったんだよ」
「こちらは、近道しようと危険な沼地を抜けましたからね」ヨルセイスがいいそえる。
「心配するな」ワイスは笑顔でデューを見つめ、「使者は必ずユナたちを見つけるよ」
 デューはうなずく。ふたりのいう通りだ。ユナの旅の成功を、強く信じなくては。ユナのためにも、そして、二千年のあいだ、愛する娘を待っていたエレタナのためにも……。
「そうだな。夜明けにはここを発って、司令部へ急ごう」
 風が出てきて、炎を揺らした。空を仰ぐと、雲が東から西へと勢いよく流れている。
「この時期に東の風とは」ワイスも空を見上げ、「先日この国にいたときは、ひとっ飛びに真夏を呼ぶように、十日続けて強い西風に吹かれ、うち三日は砂嵐で洞窟に閉じ込められたんだが」そう笑ったあと、ふと口をつぐみ、風が吹いてくる東の方を眺めやる。
 ルシナンの都にいる恋人を想っているのだろう。出逢った瞬間、恋に落ちたという娘のことを。その話を聞いたとき、デューには、誰かをひと目で好きになるなど信じられなかった。いまならわかる。
「ヨルセイス」しばしの沈黙のあと、ワイスが聞く。「家族はいるのか?」
「フィーンは、みな家族です」ヨルセイスはほほえんだ。
「恋人は?」
 ひゅーっと強い風が吹きつけ、炎の勢いをそぐ。風はヨルセイスの長い髪をなびかせ、衣装の裾もひるがえらせて、きらきらとした淡い光が流星のようにこぼれ落ちた。
「そろそろ休みましょうか」彼は立ちあがる。「明日も早いですからね」