真夜中。デューは暗がりで目を覚ました。
 隣で眠るワイスが寝返りを打つ。風がひゅうひゅううなり、マレンの灌木がざわめく音や、天幕のはためく音があちこちから聞こえ、彼らの天幕も時おり激しく揺さぶられる。
 デューは暗闇を見つめた。ふたたびユナのことが気になって、気持ちが落ち着かない。外を風が吹くように、心に風が吹いている。彼はため息をつき、上半身を起こした。
 ほどなく、闇に目が慣れ、眠るワイスの向こう、ヨルセイスがいるはずの空間が、ぽっかり空いているのが見えた。どこへ行ったのだろうと思ったとき、唐突に風がやんだ。
 静けさが、あたりを包む。
 次の瞬間、遠くで、なにかがひそかにうごめくような音がした。戦慄せんりつが背筋を走り、全身が警告を発する。
 ワイスも、はっと目を開けた。デューが起きているのに気づき、なにかいおうとする。デューはそれを片手で制した。
 音は消えていた。ふたたび風が吹き、ひゅうひゅうといううなり声が天幕を取り巻く。だが、全身で感じたおんな気配は、濃い霧のように彼にまつわりついている。
「どうした?」ワイスが身を起こす。
「なにか聞こえた」
「ヨルセイスは?」
「起きたらいなかった」
 デューは立ちあがり、天幕からすべり出る。ワイスも続いた。
 月は沈み、雲が勢いよく流れるなか、星々が瞬き、野営地にはところどころ松明の炎が掲げられている。その西の端、テダントンの部隊の天幕が並ぶあたりで、複数の人影が動くのが見えた。何人もが列になって続いているようだ。
「なんだろう?」ワイスがいう。
 同時に、背後でなにかの気配がした。デューは、振り向きざまに短剣を抜く。
「わたしです」聞き慣れた声。
「ヨルセイス!」ほっと息をつき、短剣をさやに戻す。
 ワイスも、剣にかけた手を離した。
「なにが起こっているか見えるか?」デューが聞くと、ヨルセイスはうなずいた。
「人影の先頭にいるのは、灰色たちです」
「まさか||」ワイスは絶句する。
「全部で六名。手前にいるのは連合軍の兵士で、テダントンの軍服に身を包んでいます」
 ヨルセイスが話すうちにも、彼らの影は音もなく野営地を横切り、馬たちがつながれている囲いのほうへと動いていった。灰色どもの馬も、そこで待っているのだろう。
「これが、消える部隊の謎か」デューの言葉に、ヨルセイスはうなずく。
「そのようですね」
「跡をつけてみる」ワイスがいう。「これまでの部隊と同じところに行くかもしれない」
 デューはためらった。自ら追いたい思いに駆られる。だが、ヨルセイスと彼は、参謀として、急ぎトリユース将軍のもとに戻らねばならない。自由が効くのは、ワイスだけだ。
 星明かりのもと、ワイスのしんな瞳がデューを見る。
「わかった」デューはいった。「気をつけて行け」
「わたしの馬を使ってください。シルフィエムは彼らの馬に劣らず速いですし、気取られずに尾行するすべを知っています。これを」ヨルセイスは、ふところから、淡い金色の光を放つ小さなガラスびんをとりだす。「リュールです。一滴で丸一日しのぐことができます。人の部隊を率いるからには、灰色たちも休むでしょうが、厳しい旅になるでしょう」
「ありがとう」ワイスは瓶を受けとる。「恩に着るよ」
 
 デューとヨルセイスは、あしに乗ったワイスが、激しい風の音にまぎれて遠ざかるのを見送った。いいようのない不安に、胸がぎゅっとしめつけられる。
 ワイスとは、同じ師匠のもとで、剣術をせったくした仲だった。両親を亡くしたワイスが、都に住む伯父のもとにやってきたとき、デューは九歳、ワイスは七歳。同じスリン・ホラムの生まれで、すぐに気が合った。師匠は弟子を苗字で呼び、弟子同士もそうだったので、彼らはいまも、部下や上官がいないときには、レイン、ワイスと呼びあっている。
「わたしの馬は、必ず乗り手を守ります」ヨルセイスがいった。
 東の風が一段と強く吹きつけ、野営地の天幕を激しくはためかせる。灰色どもは、この風向きと激しさを利用して、西から密かに近づいたのだ。風はまた、彼らが去りゆく音も消すだろう。厚い雲が星々をおおい、次第になにも見えなくなるなか、彼はつぶやく。
「なぜだ? なぜあれほど簡単についていく?」
 永遠の命を約束されたとして、なぜすべてを捨て、なんの迷いもなくついていくのか?
「わたしも、ずっとそのことを考えていました」ヨルセイスがいった。「単なる推論ですが、こうして部隊を連れ去る灰色には、剣の魔力が、ことさら強く及んでいるのではないでしょうか」
 力を持つ灰色のことは、デューも聞いたことがある。ダイロスの二本の剣の魔力で永遠の命を得た者は、代償として影と魂を失い、盲目的に主の命令に従うだけだったが、主の復活を待ってさまよううちに、人をあやめ、その人物になりすます灰色が現れたと。
「彼らはごく最近現れました」彼の思いを読み、ヨルセイスはいった。「わたしは遭ったことはありませんが、昔、激しい憎悪を抱いた者に遭ったことがあります。その暗い情念は、魂がないとは信じがたいほど強く、こちらの心の隙に入り込むすべを知っていました」
 闇のなか、薄い水色の瞳と淡く輝く肌は、ひどく蒼ざめて見える。
「この夜気の中にも、強い想念が放たれた余波が感じられます。兵士たちはヴェテール奪還の知らせに祝杯を挙げ、少しばかり気を緩めて眠りに就いています。灰色はそこにつけこみ、兵士たちの心をからみとって、ある種の催眠状態にしたのではないでしょうか」
 デューは戦慄する。それも大いなるダイヤモンドの力なのか?
「出発するようです」その声に、はっとして野営地の彼方を見やる。「見えますか?」
「いや||」デューがこたえたとき、上空の風が厚い雲を吹き払った。
 星々の光が荒野に降りそそぐ。
 漆黒しっこくの馬に乗った灰色の騎士のシルエットが浮かび上がり、すぐあとを、騎乗の兵士たちが続くのが見えた。ごうごうという風の音で、蹄の音はすべてかき消されているが、それでも彼らは、地面に伝わる振動を抑えようとするかのように、速度を抑えて進んでいた。
 やがて、彼らが視界から遠ざかったころ、フィーンの葦毛の瀟洒しょうしゃなシルエットが荒野を横切り、夜のなかへと消えていった。