19

 ユナたちは、南部の山々を回り込むように、エレドゥ峡谷きょうこくを目指していた。起伏の激しい荒野は、日中は強い日差しが照りつけ、夜になるとぐっと冷え込む。しかし、悪名高い西風に吹かれることもなく、旅は順調だった。
 テタイア入りして四日目。一行は、岩肌にぽっかりとあいた大きな洞窟を見つけ、夜を過ごすことにした。奥行きも深く、脇の岩場から新鮮な水が湧きでている。枯れ枝を集めて火を起こすと、わずかなきつけで大きく燃え上がった。空気が乾いているのだろう。
 ジョージョーが、携えてきた食料に、野草や香辛料で変化をつけて豆料理を作る。
「また豆か」フォゼがため息まじりにつぶやき、ジョージョーの顔が曇った。
「今夜の黒しょう風味、いけてるわよ」ユナが笑顔でいったが、フォゼはおかまいなしだ。
「あーあ、もっとまともな飯が食えたら!」
「気をつけろ」ルドウィンが厳しい声でいう。「ウォルダナなまり丸出しだ。仲間うちでもテタイア訛りを話せといっただろう?」
「ついうっかりしたんだよ」フォゼは口をとがらせ、完璧なテタイア訛りでこたえた。
「砂嵐がないだけましだと思え。いったん嵐になると、何日も動けないこともある。そうなったら、まずはおまえの飯を抜く」
「え? なんで俺から?」
「この中じゃ、おまえが一番たくわえがあるからな。何日か食わなくても、充分つりが来そうだ」ルドウィンは彼の腹に目をやると、夜番に立つため、さっさと外へ出て行った。
「ひでえや」フォゼは恨めしげにその姿を見送り、「太ってる分、俺が一番腹が減るんだ」
 
 深夜、ユナはごうごうという風の音に目を覚ました。風は洞窟にもひゅうひゅうと吹き込み、ヒューディも目を覚まして起き上がる。
「様子を見てくる」彼がカンテラを手にしたところに、ルドウィンが戻ってきた。
「東の風だ。この時期にはめずらしいな。少なくとも、砂嵐の心配はないってことだ」
「そうか。よかった」とヒューディ。
「あの、あんましよかないかも」ジョージョーもいつの間にか起きていた。「ひいちゃんが子どものころ、夏に東の風が何日も吹いて、大きな災いの前兆だっていわれて||
「ジョージョー」ルドウィンがいう。「明日は北に向かう。横風にあおられるきつい道中になるだろう。もう休んだほうがいい。とはいえ、こいつには起きてもらわないと」彼はぐうぐういびきをかいているフォゼを揺すり、「起きろ。交替だ」
 
 朝が訪れても、東の風は荒野を吹き荒れていた。翌日もいっこうにやむ気配はなく、エレドゥ峡谷に近い村にたどりついた夕刻になって、ようやくおさまってきた。
 小さな村には一軒の宿があった。この国ではめずらしく木造建てで、ルドウィンは宿帳に偽名と架空の村の名を記し、ヒューディとユナを弟と妹、少年たちを従弟いとこだといった。
 主は人のよさそうな初老の男だった。妻に先立たれ、息子は北の戦地に駆り出されたきりで、娘と二人で細々と宿を営んでいるという。その娘が、部屋に案内してくれた。
「すぐにお湯をご用意します」
「俺、風呂よか飯が先のほうが||」いいかけたフォゼを、ルドウィンがさえぎる。
「ありがとう」
 娘はほほえみ、階段を上がってすぐの向かい合った二部屋を、男性の方々にといった。
「妹さんは、つきあたりの、バルコニーのあるお部屋にご案内しますね」
 ルドウィンは、南と西に窓があり、周りが見渡せる方をヒューディと自分に、もう一方を少年たちにふりあて、娘がユナと奥の部屋に消えると、ぐいとフォゼの腕を取った。
「よけいなことをいうな。ウォルダナ訛りが出ていたぞ」
「あんまり腹ぺこだったからだよ。以後気をつけるって」
 
 暖炉には火が赤々と燃え、オイルランプが心づくしの料理を照らしている。五年ものだというマレン酒は、柑橘かんきつ系のさわやかなやさしい風味で、この地方独特の香りのよい草で育ったという山羊のシチューとの相性も素晴らしかった。今夜はほかに客はなく、ユナは久々にくつろいだ気持ちになる。
 デューのこと、自分の使命のこと、故郷のこと||。心配は尽きないが、せめていまだけは、すべてのうれいを忘れよう。ヒューディが、マレン酒のグラスを片手に、ユナを見つめてにっこりする。ユナもグラスを掲げてほほえみ返した。
 ふたたび東の風が吹き始め、窓をガタガタと揺らすなか、娘がデザートを運んでくる。雪のように白いチーズに、金色に輝く蜂蜜はちみつがたっぷりとかかっている。
「おっ、うまそう!」フォゼが目を輝かせた。
「マレンの蜂蜜と、作りたての山羊のチーズです」
「おかわり、あるよね?」
「ええ」娘は笑顔でこたえる。
「シチューを三度おかわりして、まだ食う気かよ」ヒューディが呆れるかたわら、フォゼはさっそく夢中で食べはじめる。
 娘がデザートのおかわりとお茶を運んでくると、それを合図にしたかのように、一気に風が強まり、ごーっとすさまじい音を立てて宿を揺らした。階段の向こうで、バタンと大きな音が響く。娘がちらっとそちらに目をやり、申し訳なさそうにいった。
「ごめんなさい。物入れの扉の立てつけが悪くなって、風の強い日はいつもこうで……」
「あとでみてみましょう」ルドウィンが申し出る。「美味しい食事のお礼です」
 お茶を飲み終えるころには、ユナはなかば目を閉じているような状態だった。マレン酒のせいだろう。美味しくてつい飲んでしまったが、思ったより強い酒だった。ヒューディも扉の修理を手伝うというので、ユナは少年たちと二階に上がる。
「だいじょうぶかい?」ジョージョーが心配そうにいった。「部屋まで送ろうか」
「ありがとう。だいじょうぶよ」ユナはにっこりしてお休みをいう。
 廊下をふらふら歩いて部屋に入り、まっすぐ寝台に向かおうして、ルドウィンに、窓も扉もしっかりとかぎを掛けるよういわれたことを思いだした。一瞬、聞かなかったことにしようかと思ったが、あの男のことだから、あとで確かめに来るかもしれない。
 仕方なく窓辺に行って錠を下ろし、回れ右をして扉に向かい、かんぬきをさした。
「ちゃーんと掛けましたよ、王子さま」
 大あくびをすると、ユナは靴も脱がずに寝台に倒れ込む。吹きすさぶ風の音も、その風が窓をガタガタ揺さぶ音も、すぐに聞こえなくなった。
 
 ルドウィンが蝶番ちょうつがいの具合をみるあいだ、ヒューディは廊下側から物入れの扉を支えていた。と、ガタガタと建物を揺らしていた風がとぎれ、厨房ちゅうぼうの方から主の声が聞こえた。
「……明日の朝ではいかんのか?」
「子どもたち、きっとお腹をすかせているわ」娘の声がこたえる。「それに、メグに薬も届けたいの。ほんとにひどい熱だったから。心配しないで。すぐに戻って……」
 ふたたび激しい風が吹きつけ、あとの声をかき消す。扉が開き、閉まる音がした。
「こいつは少々厄介だ」ルドウィンが廊下側に出くる。「いったん扉を外そう」
 ルドウィンの見立て通り、修理はかなり手間取ったが、彼はヒューディを助手にてきぱきと作業を進め、やがて、扉はしかるべき位置に取りつけられた。
「これでよし」彼はぽんと扉を叩き、軽々と開け閉めする。
 王室の教育には大工仕事もあるのだろうか? ヒューディが感心しながら主を呼びに行くと、厨房には娘の姿もあった。急いで戻ってきたのだろう。ほおが上気している。
 さっそく扉を見にくると、主は二度、三度と開け閉めし、うれしそうにいった。
「こりゃ、壊れる前よりずっといい」
 娘が飲み物を勧めたが、断って部屋に戻る。ヒューディはとたんに疲れが出て、寝台で休む贅沢ぜいたくを味わうまもなく眠りに落ちた。
 
 フォゼは、ひとり階段の陰に身をひそめていた。宿の主と娘が奥の居室に、ルドウィンとヒューディが上の部屋に入るのを待ち、そっと厨房にもぐりこむ。
 厨房にはまだシチューの香りが濃厚に漂っていて、口の中がつばでいっぱいになった。次にこんなごそうにありつけるのは、いつになるかわからない。手始めにマレン酒を何杯かやり、マレンの蜂蜜をたっぷりと頂戴する。それから、戸棚の壺を抱えて床に座りこむと、砂糖をいっぱいまぶした焼き菓子を、幸せな気分でほおばり始めた。
 
 風が激しく窓を揺らすなか、ルドウィンはじっと外を見つめていた。ヒューディは安らかな寝息を立てているが、先ほどから、なぜか気持ちが落ち着かない。
 風の音とは別の音が聞こえた気がして、はっと目を凝らす。
 二方向に面した窓からは、起伏のある荒野が見晴らせる。やみになれた瞳には、ぼんやりと木々のシルエットがわかるが、あたりには家もなく、明かりひとつ見えない。
「ルド」ヒューディが目を覚ます。「どうかした?」
 そのとき、ふたたび音が聞こえた気がした。
「様子を見てくる」ルドウィンは部屋を出る。
 足早に階段を降りて広間へ抜けると、正面玄関からカンテラを抱えた娘が入ってきた。そのほのかな灯りでも、娘が彼を見て、ぎくりとしたのがわかった。
 窓の外を、松明の火が尾を引いて通り過ぎる。全身に戦慄せんりつが走った。わな||
「脅されたんです」娘がかすれた声でいう。「父の留守中、ドロテ兵がきて||
 バンと音がして厨房の扉が開き、フォゼが飛びだしてきた。
「か||火事だ!」
 きな臭い匂いとともに煙が流れこむ。奥には、火の手が見えた。
「そんな||約束が違う||お父さん!」娘は走りだす。
 ルドウィンも同時に走りだし、階段を三段とびで駆け上がる。
「ヒューディ! 馬を出せ!」