大きなりんの木が、ぽつんと一本だけ岸辺にたたずんでいた。遅咲きの花は、ちょうど満開を迎えていた。めったに見られない真っ白な花で、降るような星空のもと、花びらの一枚一枚が淡く光っているかのようだ。
 ユナは太い幹によりかかり、ひざをかかえて、ぼんやりと川面を見つめていた。鏡のような水面には花を抱いた林檎の木が映り、星々もきらめく影を落としている。
 かたわらでは、ヒューディが安らかな寝息を立てており、ルドウィンは、少し離れたところで夜番をしていた。そのルドウィンが声をかけた。
「よお、おちびちゃん、元気ないな」
「あなたには関係ないわ」ユナは顔も上げず、そっけなくいう。
「俺の代わりに、寝ずの番をするつもりかい?」
「いいわよ。今夜は眠れそうもないから」ユナはこたえ、小声でいいそえる。「ううん、もう一生、眠れそうもない」
「一生?」ルドウィンは笑った。「女ってのは、オーバーな生き物だな」
 ユナはきっと彼を見る。
「あなたなんかに、デリケートな乙女心がわかるもんですか」
 ルドウィンは立ち上がると、薄手の毛布を手に歩み寄り、そっとユナの肩にかけた。
「きみのデリケートな身体が風邪を引くといけないからね。今夜は冷えそうだ」
 やわらかな毛布の感触がユナを包む。それは、傷心の彼女を無言のうちになぐさめるかのようだった。
「ルド||
 ルドウィンは黙って彼女を見た。そのまっすぐなまなざしに、ユナはなぜか、急にどぎまぎして、思わず目をふせる。それから、ためらいがちに言葉を継いだ。
「好きなひとがいてね||とても好きなのに、そのひとは、ほかの誰かを愛してる||。そんな気持ち、あなたにはわからないでしょうね」
 短い沈黙のあと、ルドウィンは静かにいった。
「いや||わかるよ」
 ユナは顔を上げる。ルドウィンはいつになくしんな瞳をしていた。花明かりが淡い光でふたりを包み、夜風が枝のあいだを吹きすぎてゆく。
 そのとき、背後の茂みで、ガサッとかすかな音がした。風とは異質の物音だ。ルドウィンは、振り向きざまに剣を抜いた。
「誰だ!」
「ひゃっ! ま||待って」聞き覚えのある声。「お||俺たちだよ」
 茂みの中から小さな太った影が現れ、その後ろで、ひょろりとした影が動いた。
「フォゼ!」ユナが小さく叫ぶ。
「ジョージョー!」ヒューディも目を覚まし、声を上げた。
 少年たちは、どちらも旅装束しょうぞくを身にまとい、大きな荷物を背負っている。
「おまえら、いったいここでなにしてる!?」ルドウィンが大股でふたりに詰め寄った。
「つ||ついてきたんだよ」フォゼはあとずさりする。
「あきれたな! 歩いて追ってきたのか?」
 ふたりはこっくりとうなずいた。ルドウィンがさらになにかいいかけると、フォゼはすかさず口を開く。
「帰れっていうんじゃないよね? 俺たち、準備万端で、食料もたっぷり持って、必死の思いでついてきたんだから」
「誰も頼んでないよ」ヒューディが冷ややかにフォゼを見た。「どうせその服も盗んできたんだろ?」
 フォゼは、彼の言葉を無視する。
「俺たち、知ってんだ。どこへなにしにいくのか、なにもかも。だから、へたに返さない方がいいよ。途中で敵につかまったら、あらいざらいしゃべっちまうから」
「なにぃ!?」ルドウィンはフォゼの首根っこをつかまんばかりにいう。
「か||会議の話、全部聞いたんだ」
「なんだって!?
「天井裏に隠れて、全部聞いてたんだよ」
 ルドウィンは頭を抱える。
「とんでもないやつらだ!」
「でも」とユナ。「どうしてそれでついてくる気になったの? 危険な旅だってわかっているのに」
「俺たち||少しでもユナを助けたいと思ったんだ。なあ、相棒?」フォゼはジョージョーを振り向き、ジョージョーは黙ってうなずく。
「まあ……」
「冗談じゃない」とヒューディ。「おまえらが一緒だと、ろくなことにならないよ。いつかだって、おまえがちゃんと夜番をしてたら、あんなことには||
「ヒューディ」ユナがさえぎる。「誰にだって、出来心が起きることってあるわ」フォゼとジョージョーに目を移し、「でも、だいじょうぶなの? テタイアに入ったら、テタイアなまりを話さなきゃだめなのよ」
 ずっと黙っていたジョージョーが、口をひらいた。
「それ、得意なんだ」そこから独特のテタイア訛りで言葉を続ける。「俺、ひい祖母ちゃんに育てられたんだけど、ひい祖母ちゃんは生粋のテタイア人で、子どものころ、ウォルダナに渡ったんだ。それに、館の厨房にはテタイア人が三人いて、フォゼも毎日それを聞いてたし、ついてくって決めてから、密かに特訓したんだよ」
「そうとも。まかしとけって」とフォゼ。こちらも完璧に訛っている。「職業柄、こういうことは得意でさ」
「よし、ガキども。命を捨てる覚悟があるならついてこい」ルドウィンは、ふたりを交互ににらみつけ、厳しい声でいう。「ただし、少しでもおかしなまねをしたら、その場で始末する。いいな」
「ルド||」ヒューディは困惑した表情で彼を見た。「気は確か?」
「追い返しても、どうせついてくるさ」
「でも||」ヒューディはいいかけ、口を閉ざす。
 ルドウィンの目には、それ以上の言葉を寄せつけないなにかがあった。
 
 翌日、一行は貸し馬車屋を兼ねた宿に泊まり、フォゼとジョージョーの馬を調達して、春から初夏へと移りゆくルシナンの大地を旅した。
 ユナは相変わらず言葉少なだった。
 無理もない。そうヒューディは思う。伝説によると、ルシタナは、ダイロスの剣を見つけたものの、あとを追ってきた死の従者に殺された。これは、その従者たちが眠る洞窟へと向かう旅、死と隣り合わせの旅なのだ。
 そんなユナにひきかえ、フォゼたちは、なにやら陽気に話しながら、旅を楽しんでいるようにすら見えた。
 ユナを助けたいだって? 冗談じゃない。敢えて危険な旅についてくる動機は、最初からみえみえだ。もしいまここに、大いなるダイヤモンドのかけらがあると知ったら、フォゼは即座にそれを盗んで逃げだすだろう。
 そのかけら||ユナの左手首、長い袖の中に隠したダイヤモンドのことは、決して知られてはならない。
 ユナから話を打ち明けられ、ブレスレットに手をふれたときの衝撃は、いまもはっきりと彼の身体に残っている。
 光の風が腕から胸へと駆けぬけたような感覚。あの瞬間、ヒューディは、フィーンの輝ける生命いのちの象徴だというダイヤモンドの無限の力を、全身で感じたのだ。そして、その瞬間、フィーンにまつわる伝説、二千年前の戦争にまつわる伝説は、すべて真実だと悟ったのだった。
 数日後、一行は、すいの海から続く山岳地帯にさしかかった。南北に長いこの山岳地帯は、何か所か、あたかも、怒り狂った巨人が両側から引っぱったかのように、ジグザグに断ち切られている。二千年前の大異変で生じたれつだといわれており、山岳地帯の東西を結ぶ、天然の切り通しとなっている。
 彼らはそのひとつを通って、起伏の激しい緑の丘陵地帯へと抜けた。左手、連なる丘の彼方には、白銀をいただ急峻きゅうしゅんみねが見える。
「あの山の向こうがエルディラーヌだ」ルドウィンがいった。
 そこから進路をやや南寄りに変え、彼らは湖水地方に入った。ルシナンで最も美しい地方のひとつで、上質のくり麦が実ることでも知られている。刈り入れの時期を前に、そこここの丘で、赤く色づき始めた穂が風に揺れていた。
 ヒューディはとりわけ、澄んだ色の水をたたえたエルシディ湖に心かれた。ずっと物思いに沈んでいたユナも、忘れな草が咲く湖畔で休息をとるあいだ、その美しい光景に、心やすらいだようだった。
「きれいなところね、ヒューディ。クレナと同じくらいきれい。レアナにも見せてあげたいね」ユナはため息をつく。「いつか一緒に来たいな……」
 ヒューディもまた、彼女のことを想っていた。
「そうだね」彼はうなずく。「いつかきっと、一緒に来よう」
 
 セティ・ロルダの館を発って十二日目、テタイア入りを前に、彼らは、かの国の風習に従って、生成りの旅装束に、金糸や銀糸で縁取られた白いストールを頭からすっぽりかぶった。
 やがて、国境のリーズ川が見えてきた。
 テタイアで内戦が勃発ぼっぱつしたあと、ドロテ軍が勢力を広げる北の国境は、警備が厳しくなったが、こちら、エルディラーヌに近い南部は、王立軍の統制下にある。リーズ川にかかる橋の両側には、それぞれの国の国境警備兵がいた。彼らは、トリユース将軍から渡された通行証をたずさえており、それがあれば問題なく通れると聞いている。
 だが、ルドウィンは、浅瀬を渡ろうといった。
「万が一、警備兵に敵の密偵がまぎれていたら、のちのち厄介やっかいなことになる。このところずっと天気がよかったから、水位はかなり下がっているようだし、流れもゆるやかだ」
「え?」フォゼがぎょっとしたようにいう。「それって、馬で渡るってこと?」
「おまえが泳いで渡るつもりじゃなければな」
「お||おれ||泳ぎはあんま得意じゃ||。それに、川って、浅そうに見えても、意外と深いときが||
「心配するな。馬は泳げる」にやりとしていうと、ルドウィンは橋とは逆の方向へと馬を進めた。中州のある浅瀬を見つけ、全員がそろっているのを確かめて渡り始める。
 ヒューディはユナと並んで、あとに続いた。
 このあたりも、大異変のあと地形が大きく変わった地域だ。リーズ川流域の広大な台地は、かつては険しい山で、それがシャナイ山脈の南端だったと伝えられている。
 ヒューディは、渡りながら右手を仰いだが、北の空は厚い雲に覆われ、そちらにそびえているはずのシャナイ山脈は、影も形もなかった。
「ぎりぎりのタイミングだったな」渡り終えて、ルドウィンがいう。「あの様子じゃ、山ではすでに降り始めている。じきに濁流だくりゅうが押し寄せて、水位が上がるだろう」
 フォゼはづなにしがみつき、少し流れが深くなるたびに悲鳴を上げてはジョージョーになだめられていたが、結局、水は深いところでも馬の腹まで届かなかった。ようやくどうにか渡り終えると、フォゼはため息をつき、したたり落ちる汗をストールでぬぐった。
 テタイア王国の西には、死の砂漠と呼ばれる不毛の地が果てしなく続いており、ストールはもともと、そこから吹きつける強風から顔を守るためのものとのことだった。特に、春から夏にかけての季節の変わり目には、砂漠の砂が大量に飛んできて、白いストールも衣装も黄色く染まることがあるという。
 この日は風もなくおだやかで、遠い砂漠から砂が飛んでくるなど信じられなかったが、西へ進むにつれて、緑の大地は、低い灌木かんぼくだけが生えた、ごつごつした岩場のある荒野にかわっていった。灌木は小さな青い実をつけている。
「マレンの木だ」ルドウィンはいった。「テタイアの固有種で、真冬に白い花を咲かせる。熟した実は蒸留酒につけてマレン酒にするが、生だと強い毒がある。特に、こうした若い実は」彼はフォゼを見る。「間違っても食うなよ」
 そのマレンが茂る荒野に、追っ手の気配はなかった。途中小さな農村を通った際も、ドロテ軍や灰色の騎士の噂を耳にすることはなく、国境を越えたというのに、拍子抜けするほど平穏な道中だった。エレドゥ峡谷きょうこくまでのあいだは、まだ反乱側の手に落ちていないとのことだったが、どうやら、情報通りのようだ。
 日没が近づくと、あたりは岩場が多くなってきた。右手には、荒涼とした森も見える。夕陽が前方の岩場に隠れたとたん、気温が急激に下がって寒々としてきた。ヒューディは気遣うように、隣を行くユナを見たが、その顔はひどくあおざめて見えた。
 少し痩せたのではないだろうか。セティ・ロルダの館を発ってから、食事もあまりとらないし、夜もよく眠れないようだ。
 ヒューディ自身、昨夜は、テタイア入りをすることを思って、ほとんど眠っていなかった。そのせいだろう。すいが襲ってきて、次第にうつらうつらし始める。最初は必死に眠気と戦っていたが、とうとう、首ががくっとなっては、はっと目を開けることの繰り返しになった。
 そうして、またふっと眠り込んだときだった。突然、重い金属音が聞こえた。
 全身が総毛立ち、瞬時に目が覚める。ほとんど同時に、ルドウィンが叫んだ。
「奴らだ!」
 身構える余裕もなかった。前方の岩陰から灰色どもが姿をあらわし、剣を構えて、次々と襲いかかってくる。ガチャガチャという馬具の音とひづめの音、重いマントが風にひるがえる音が響き、フォゼとジョージョーが悲鳴を上げる。
「逃げろ!」ルドウィンが叫びながら、先頭の灰色を相手にする。
 ユナはどこだろう? ヒューディははっとして隣を見る。しかし、先ほどまでそこにいたはずの姿はなく、一騎の灰色が、剣をまっすぐこちらに向けて突進してきた。
「うわっ!」ヒューディは思わずのけぞる。
 身体が宙を舞い、次の瞬間、背中に衝撃が走った||
 
 ヒューディは目をあけた。草と空が見える。その夕暮れの空を舞うとんびの姿も。
 起きなくては。奴らにやられてしまう。それに、ユナを助けなくては||。そう思ってなんとか起き上がろうとしたとき、あたりが妙に静かなことに気がついた。
「ヒューディ」ユナの声がして、それから、彼女の姿が見えた。
「ユナ||。無事だったのか?」
「ヒューディ」心配そうに彼をのぞきこむ。「それはわたしの台詞よ。怪我はない?」
「え? ||奴らは?」
「奴ら? フォゼとジョージョーのこと?」
「いや||」ヒューディは上半身を起こし、あたりを見まわす。
 ユナの馬ローレアがすぐ先で止まっており、彼の馬が申し訳なさそうに戻ってくるところで、フォゼとジョージョーもすぐ近くで、馬上からこちらを見おろしていた。
「どうした、ヒューディ?」フォゼがさもしそうに笑う。「乗馬はお手の物じゃなかったのか?」
「だいじょうぶかい?」とジョージョー。「突然目の前で落ちて、びっくりしたよ」
 ヒューディはようやく、自分が夢を見ていたことに気がついた。
「だいじょうぶだ」ユナがさしだした手をとり、もう一方の手で背中をさすりながら立ちあがる。「ありがとう」
 ルドウィンは少し先で馬を止め、そんな様子を、ただあきれ顔で見ていた。
 だが、その夜更け、夜番の交替をするとき、ヒューディの瞳をじっとのぞきこむと、ルドウィンは、いつになく真剣なおも持ちでこういった。
「いいか、ヒューディ。ユナの使命は重い。それを一番助けてやれるのは、幼なじみのきみなんだ。ユナはきみのことを誰よりも頼りにしている。わかるね? どんなときも目を離さないで、そばにいてやってくれ」
「もちろんだよ」いまさらどうしてそんなことをいうのだろうと思いながら、ヒューディはこたえる。
 ルドウィンは、ヒューディの目を見つめたままうなずくと、軽く眉を上げ、いつもの口調に戻っていった。
「しっかり番しろよ。昼間みたいに寝ぼけないようにな」そして、夜露の降りた草の上に長身をよこたえた。
 その先では、ユナが、気の休まることのない浅い眠りの中で、遠くシャナイ山脈にいるデュー・レインに思いをせていた。