大きなりんの木が、ぽつんと岸辺にたたずんでいた。遅咲きの種だろう。めったに見ない真っ白な花はちょうど満開を迎え、降るような星空のもと、淡い光を帯びている。
 ユナは太い幹によりかかり、ひざをかかえて、ぼんやりと川面を見つめていた。鏡のような水面には、その純白の林檎が映り、星々もきらめく影を落としている。
 かたわらでは、ヒューディが安らかな寝息を立てており、少し離れたところでは、ルドウィンが夜番をしていた。
「おちびちゃん」彼が声をかける。「俺の代わりに、寝ずの番をするつもりかい?」
「ああ||なんなら代わってあげる」ユナは顔もあげずにこたえ、ため息交じりにつぶやいた。「どうせ、もう一生眠れそうもないから」
「一生? そいつはおおごとだ」
「あなたなんかに、デリケートな乙女心がわかるもんですか」
 ルドウィンは立ち上がると、薄手の毛布を手に歩み寄り、そっとユナの肩にかけた。
「きみのデリケートな身体が風邪を引くといけないからね。今夜は冷えそうだ」
 やわらかな感触がユナを包む。心が、無言のうちになぐさめられるかのようだった。
「ルド||」思わずささやく。
 ルドウィンは黙って彼女を見た。
「これまで||誰かを本気で好きになったことある? 切なくなるくらいに」
 いったとたんに後悔する。なんでそんなこと聞いたんだろう? しかも、よりによってこんな男に||。いまの忘れて。そういおうとしたとき、ルドウィンがこたえた。
「あるよ」
 彼はいつになくしんな瞳をして、そのまなざしはまっすぐだ。ユナはなぜか、急にどぎまぎした。淡い花明かりがふたりを包み、夜風が枝のあいだを吹きすぎてゆく。
 そのとき、背後の茂みで、ガサッとかすかな音がした。
「誰だ!」ルドウィンは、振り向きざまに剣を抜く。
「ひゃっ! 待って||」聞き覚えのある声。
 茂みの中から小さな太った影が現れ、その後ろで、ひょろりとした影が動いた。
「フォゼ!」ユナが叫ぶ。
「ジョージョー!」ヒューディも目を覚まして声を上げた。
 少年たちは旅装束しょうぞくを身にまとい、大きな荷物を背負っている。
「おまえら、ここでなにをしてる!」ルドウィンに詰め寄られ、フォゼはあとずさりした。
「見||見りゃわかるだろ? ついてきたんだ。食料たっぷり持って、死ぬ気で歩いて。へたに追い返さない方がいいよ。敵につかまったら、洗いざらいしゃべっちまうから」
「なんだって!?」ルドウィンはフォゼの首根っこをつかまんばかりだ。
「か||会議の話、聞いてたんだよ。天井裏に隠れて、なにもかも」
 ルドウィンは大きく息を吐く。
「じゃあ」とユナ。「危険な旅だってわかってついてきたの?」
「ああ」フォゼはうなずく。「俺たち、少しでも力になりたいと思って」
「冗談じゃない」とヒューディ。「おまえらが一緒だと、ろくなことにならないよ。いつかだって、おまえがちゃんと夜番をしてたら、あんなことには||
「ヒューディ」ユナはさえぎり、フォゼたちを見る。「でも、だいじょうぶなの? テタイアに入ったら、テタイアなまりを話さなきゃだめなのよ」
 ずっと黙っていたジョージョーが、口をひらいた。
「俺、ひい祖母ちゃんに育てられたんだ」見事なテタイア訛りに切り替え、「ひい祖母ちゃん、生粋きっすいのテタイア人で、昔ウォルダナに渡ってきたんだ。それに、館の厨房にはテタイア人がいて、フォゼも毎日それ聞いてたし、ついてくって決めてから猛特訓したんだよ」
「そうとも。まかしとけって」とフォゼ。こちらも完璧に訛っている。
「よし、ガキども」ルドウィンは彼らをにらみつけた。「命を捨てる覚悟があるならついてこい。ただし、少しでもおかしなまねをしたら、その場で始末する」
「ルド」ヒューディは困惑した表情で、「気は確か?」
「追い返しても、どうせついてくるさ」
「けど||」ヒューディはそこで口を閉ざす。
 ルドウィンの目には、それ以上の言葉を寄せつけないなにかがあった。
 
 翌日、一行は貸し馬車屋を兼ねた宿に泊まり、フォゼとジョージョーの馬を調達して、春から初夏へと移りゆくルシナンの大地を旅した。
 ユナは相変わらず言葉少なで、ヒューディはそんな彼女をただ黙って見守った。伝説によると、光の剣を見つけたルシタナは、あとを追ってきた死の従者に殺された。これは、その従者たちが眠る洞窟へと向かう旅、死と隣り合わせの旅なのだ。
 それにひきかえ、フォゼたちは、なにやら陽気に話しながら、旅を楽しんでいるようにすら見えた。力になりたいだって? 動機は最初からみえみえだ。もしブレスレットの存在を知ったら、フォゼは即座にそれを盗んで逃げるだろう。
 ユナに話を打ち明けられ、そのダイヤモンドに手をふれたときの衝撃は、いまもはっきりとヒューディの身体に残っている。光の風が腕から胸へと駆けぬけたような感覚||あの瞬間、彼はその無限の力を全身で感じ、二千年前の伝説はすべて真実だと悟ったのだ。
 数日後、一行は、すいの海の南から続く山岳地帯にさしかかった。南北に長いこの山岳地帯は、何か所か、巨人が両側から引っぱったかのようにジグザグに断ち切られている。二千年前の大異変で生じたれつで、山岳地帯の東西を結ぶ天然の切り通しだ。
 彼らはそのひとつを通り、起伏の激しい丘陵地帯へと抜けた。左手に連なる丘の彼方、白銀をいただ急峻きゅうしゅんみねが見える。その向こうがフィーンの国だとルドウィンがいった。
 そこから進路をやや南寄りに変え、湖水地方に入った。ルシナンで最も美しい地方のひとつで、上質のくり麦が実ることでも知られている。刈り入れの時期を前に、そこここの丘で、赤く色づき始めた穂が風に揺れていた。
 ヒューディはとりわけ、澄んだ色の水をたたえたエルシディ湖に心かれた。ずっと物思いに沈んでいたユナも、その美しい光景に、心やすらいだようだった。
「きれいなところね、ヒューディ。レアナにも見せてあげたいな」忘れな草が咲く湖畔で休息をとるあいだ、彼女はため息まじりにいった。「いつか一緒に来たいね……」
「ああ」彼はうなずく。「いつかきっと、一緒に来よう」
 
 セティ・ロルダの館を発って十二日目、国境のリーズ川が見えてきた。
 彼らはテタイア王国の風習に従い、金糸や銀糸で縁取られた白いストールを頭からすっぽりかぶった。大砂漠から吹きつける西風から顔を守るためで、特に春から夏にかけての季節の変わり目には、ストールも服も、砂漠の砂で黄色く染まるとのことだった。
 内戦が勃発ぼっぱつしたあと、ドロテ軍が勢力を広げる北部は警備が厳しくなったが、この南部は王立軍の統制下にある。リーズ川にかかる橋の両側には、それぞれ、ルシナンとテタイアの国境警備兵がいた。ルドウィは連合軍の通行証をたずさえており、それがあれば問題なく通れると聞いている。だがルドウィンは、橋は避けようといった。
「万が一、警備兵に敵の密偵がまぎれていたら厄介やっかいなことになる」
「え?」フォゼがぎょっとしたようにいう。「それって、馬で渡るってこと?」
「おまえが泳いで渡るつもりじゃなければな」
 ルドウィンは橋と逆の方向へ馬を進め、中州のある浅瀬を見つけて渡り始める。ヒューディはユナと並んで、あとに続いた。流れは思ったより早い。フォゼは手綱にしがみつき、ジョージョーに励まされながら水に入る。
 このあたりも、大異変のあと地形が大きく変わった地域だ。リーズ川流域の広大な台地は、かつては険しい山で、シャナイ山脈の南端だったと伝えられている。ヒューディは、渡りながら右手を仰いだが、北の空は厚い雲に覆われ、シャナイ山脈は影も形もなかった。
 水は深いところでも馬の腹ほどで、フォゼもどうにか渡り終えた。ルドウィンがいう。
「山ではすでに降り始めているな。じきに濁流だくりゅうが押し寄せる。いいタイミングだった」
 西へ進むにつれて、緑の大地は、ごつごつとした岩だらけの荒野へと変わっていった。荒野には低い灌木かんぼくが生え、小さな青い実をつけている。
「マレンだ。熟した実は蒸留酒に漬けて酒にするが、生だと強い毒がある。特にこうした若い実は」ルドウィンはフォゼを見て、「間違っても食うなよ」
 そのマレンの荒野に、追っ手の気配はなかった。途中小さな農村を通った際も、ドロテ軍や灰色の騎士の噂を耳にすることはなく、平穏な道中だった。エレドゥ峡谷きょうこくまでのあいだは、まだ反乱側の手に落ちていないとのことだったが、どうやら情報通りのようだ。
 日没が近づくと、岩場が多くなってきた。右手には荒涼とした森も見える。ヒューディは隣を行くユナを見た。その顔はひどくあおざめている。少し痩せたのではないだろうか。セティ・ロルダの館を発ってから、食事もあまりとらないし、夜もよく眠れないようだ。
 ヒューディ自身、昨夜は、テタイア入りを前にほとんど眠っていない。すいに襲われてうつらうつらし始める。
 そのときだった。突然、重い金属音が聞こえた。全身が総毛立ち、瞬時に目が覚める。
「奴らだ!」ルドウィンが叫んだ。
 身構える間もなかった。前方の岩陰から灰色どもが姿を現し、襲いかかってくる。フォゼとジョージョーが悲鳴を上げた。
「逃げろ!」ルドウィンが先頭の灰色を相手にする。
 はっとして隣を見たが、ユナの姿がない。一騎が、剣を向けて突進してきた。
「うわっ!」ヒューディはのけぞる。
 身体が宙を舞い、次の瞬間、背中に衝撃が走った||
 
 ヒューディは目をあけた。草と夕暮れの空が見える。起きなくては。ユナを助けなくては||。そう思ったとき、あたりが妙に静かなことに気がついた。
「ヒューディ」ユナの声がして、彼女の姿が見えた。
「ユナ||。無事だったのか?」
「ヒューディ」心配そうに彼をのぞきこむ。「それはわたしの台詞よ。怪我はない?」
「え?」どういうことだろう。「奴らは?」
「奴って?」ユナは怪訝けげんそうにいった。
 上半身を起こして見回す。ユナの馬がすぐ先にいて、彼の馬が申し訳なさそうに戻ってくるところで、フォゼとジョージョーが馬上でこちらを見おろしていた。
「どうした?」フォゼがさもしそうにいう。「またきのこの化け物でも見たのか?」
「だいじょうぶかい?」とジョージョー。
 ヒューディはようやく、自分が夢を見ていたことに気がついた。
「だいじょうぶだ」ユナがさしだした手をとって立ち上がる。「ありがとう」
 ルドウィンは、そんな様子をただあきれたように見ていたが、その夜更け、夜番の交替をする際、いつになく真剣なおも持ちでいった。
「ヒューディ。ユナの使命は重い。それを一番助けてやれるのは、幼なじみのきみなんだ。どんなときも目を離さないで、そばにいてやってくれ」
「もちろんだよ」なぜいまさらそんなことをと思いながら、ヒューディはこたえる。
 ルドウィンはうなずくと、彼の肩をぽんと叩いてこういい、草の上に長身を横たえた。
「しっかり番しろよ。昼間みたいに寝ぼけないようにな」