大きな
ユナは太い幹によりかかり、ひざをかかえて、ぼんやりと川面を見つめていた。鏡のような水面には、その純白の林檎が映り、星々もきらめく影を落としている。
かたわらでは、ヒューディが安らかな寝息を立てており、少し離れたところでは、ルドウィンが夜番をしていた。
「おちびちゃん」彼が声をかける。「俺の代わりに、寝ずの番をするつもりかい?」
「ああ||なんなら代わってあげる」ユナは顔もあげずにこたえ、ため息交じりにつぶやいた。「どうせ、もう一生眠れそうもないから」
「一生? そいつはおおごとだ」
「あなたなんかに、デリケートな乙女心がわかるもんですか」
ルドウィンは立ち上がると、薄手の毛布を手に歩み寄り、そっとユナの肩にかけた。
「きみのデリケートな身体が風邪を引くといけないからね。今夜は冷えそうだ」
やわらかな感触がユナを包む。心が、無言のうちになぐさめられるかのようだった。
「ルド||」思わずささやく。
ルドウィンは黙って彼女を見た。
「これまで||誰かを本気で好きになったことある? 切なくなるくらいに」
いったとたんに後悔する。なんでそんなこと聞いたんだろう? しかも、よりによってこんな男に||。いまの忘れて。そういおうとしたとき、ルドウィンがこたえた。
「あるよ」
彼はいつになく
そのとき、背後の茂みで、ガサッとかすかな音がした。
「誰だ!」ルドウィンは、振り向きざまに剣を抜く。
「ひゃっ! 待って||」聞き覚えのある声。
茂みの中から小さな太った影が現れ、その後ろで、ひょろりとした影が動いた。
「フォゼ!」ユナが叫ぶ。
「ジョージョー!」ヒューディも目を覚まして声を上げた。
少年たちは旅
「おまえら、ここでなにをしてる!」ルドウィンに詰め寄られ、フォゼはあとずさりした。
「見||見りゃわかるだろ? ついてきたんだ。食料たっぷり持って、死ぬ気で歩いて。へたに追い返さない方がいいよ。敵につかまったら、洗いざらいしゃべっちまうから」
「なんだって!?」ルドウィンはフォゼの首根っこをつかまんばかりだ。
「か||会議の話、聞いてたんだよ。天井裏に隠れて、なにもかも」
ルドウィンは大きく息を吐く。
「じゃあ」とユナ。「危険な旅だってわかってついてきたの?」
「ああ」フォゼはうなずく。「俺たち、少しでも力になりたいと思って」
「冗談じゃない」とヒューディ。「おまえらが一緒だと、ろくなことにならないよ。いつかだって、おまえがちゃんと夜番をしてたら、あんなことには||」
「ヒューディ」ユナはさえぎり、フォゼたちを見る。「でも、だいじょうぶなの? テタイアに入ったら、テタイア
ずっと黙っていたジョージョーが、口をひらいた。
「俺、ひい祖母ちゃんに育てられたんだ」見事なテタイア訛りに切り替え、「ひい祖母ちゃん、
「そうとも。まかしとけって」とフォゼ。こちらも完璧に訛っている。
「よし、ガキども」ルドウィンは彼らをにらみつけた。「命を捨てる覚悟があるならついてこい。ただし、少しでもおかしなまねをしたら、その場で始末する」
「ルド」ヒューディは困惑した表情で、「気は確か?」
「追い返しても、どうせついてくるさ」
「けど||」ヒューディはそこで口を閉ざす。
ルドウィンの目には、それ以上の言葉を寄せつけないなにかがあった。
翌日、一行は貸し馬車屋を兼ねた宿に泊まり、フォゼとジョージョーの馬を調達して、春から初夏へと移りゆくルシナンの大地を旅した。
ユナは相変わらず言葉少なで、ヒューディはそんな彼女をただ黙って見守った。伝説によると、光の剣を見つけたルシタナは、あとを追ってきた死の従者に殺された。これは、その従者たちが眠る洞窟へと向かう旅、死と隣り合わせの旅なのだ。
それにひきかえ、フォゼたちは、なにやら陽気に話しながら、旅を楽しんでいるようにすら見えた。力になりたいだって? 動機は最初からみえみえだ。もしブレスレットの存在を知ったら、フォゼは即座にそれを盗んで逃げるだろう。
ユナに話を打ち明けられ、そのダイヤモンドに手をふれたときの衝撃は、いまもはっきりとヒューディの身体に残っている。光の風が腕から胸へと駆けぬけたような感覚||あの瞬間、彼はその無限の力を全身で感じ、二千年前の伝説はすべて真実だと悟ったのだ。
数日後、一行は、
彼らはそのひとつを通り、起伏の激しい丘陵地帯へと抜けた。左手に連なる丘の彼方、白銀を
そこから進路をやや南寄りに変え、湖水地方に入った。ルシナンで最も美しい地方のひとつで、上質の
ヒューディはとりわけ、澄んだ
「きれいなところね、ヒューディ。レアナにも見せてあげたいな」忘れな草が咲く湖畔で休息をとるあいだ、彼女はため息まじりにいった。「いつか一緒に来たいね……」
「ああ」彼はうなずく。「いつかきっと、一緒に来よう」
セティ・ロルダの館を発って十二日目、国境のリーズ川が見えてきた。
彼らはテタイア王国の風習に従い、金糸や銀糸で縁取られた白いストールを頭からすっぽりかぶった。大砂漠から吹きつける西風から顔を守るためで、特に春から夏にかけての季節の変わり目には、ストールも服も、砂漠の砂で黄色く染まるとのことだった。
内戦が
「万が一、警備兵に敵の密偵がまぎれていたら
「え?」フォゼがぎょっとしたようにいう。「それって、馬で渡るってこと?」
「おまえが泳いで渡るつもりじゃなければな」
ルドウィンは橋と逆の方向へ馬を進め、中州のある浅瀬を見つけて渡り始める。ヒューディはユナと並んで、あとに続いた。流れは思ったより早い。フォゼは手綱にしがみつき、ジョージョーに励まされながら水に入る。
このあたりも、大異変のあと地形が大きく変わった地域だ。リーズ川流域の広大な台地は、かつては険しい山で、シャナイ山脈の南端だったと伝えられている。ヒューディは、渡りながら右手を仰いだが、北の空は厚い雲に覆われ、シャナイ山脈は影も形もなかった。
水は深いところでも馬の腹ほどで、フォゼもどうにか渡り終えた。ルドウィンがいう。
「山ではすでに降り始めているな。じきに
西へ進むにつれて、緑の大地は、ごつごつとした岩だらけの荒野へと変わっていった。荒野には低い
「マレンだ。熟した実は蒸留酒に漬けて酒にするが、生だと強い毒がある。特にこうした若い実は」ルドウィンはフォゼを見て、「間違っても食うなよ」
そのマレンの荒野に、追っ手の気配はなかった。途中小さな農村を通った際も、ドロテ軍や灰色の騎士の噂を耳にすることはなく、平穏な道中だった。エレドゥ
日没が近づくと、岩場が多くなってきた。右手には荒涼とした森も見える。ヒューディは隣を行くユナを見た。その顔はひどく
ヒューディ自身、昨夜は、テタイア入りを前にほとんど眠っていない。
そのときだった。突然、重い金属音が聞こえた。全身が総毛立ち、瞬時に目が覚める。
「奴らだ!」ルドウィンが叫んだ。
身構える間もなかった。前方の岩陰から灰色どもが姿を現し、襲いかかってくる。フォゼとジョージョーが悲鳴を上げた。
「逃げろ!」ルドウィンが先頭の灰色を相手にする。
はっとして隣を見たが、ユナの姿がない。一騎が、剣を向けて突進してきた。
「うわっ!」ヒューディはのけぞる。
身体が宙を舞い、次の瞬間、背中に衝撃が走った||。
ヒューディは目をあけた。草と夕暮れの空が見える。起きなくては。ユナを助けなくては||。そう思ったとき、あたりが妙に静かなことに気がついた。
「ヒューディ」ユナの声がして、彼女の姿が見えた。
「ユナ||。無事だったのか?」
「ヒューディ」心配そうに彼をのぞきこむ。「それはわたしの台詞よ。怪我はない?」
「え?」どういうことだろう。「奴らは?」
「奴って?」ユナは
上半身を起こして見回す。ユナの馬がすぐ先にいて、彼の馬が申し訳なさそうに戻ってくるところで、フォゼとジョージョーが馬上でこちらを見おろしていた。
「どうした?」フォゼがさも
「だいじょうぶかい?」とジョージョー。
ヒューディはようやく、自分が夢を見ていたことに気がついた。
「だいじょうぶだ」ユナがさしだした手をとって立ち上がる。「ありがとう」
ルドウィンは、そんな様子をただ
「ヒューディ。ユナの使命は重い。それを一番助けてやれるのは、幼なじみのきみなんだ。どんなときも目を離さないで、そばにいてやってくれ」
「もちろんだよ」なぜいまさらそんなことをと思いながら、ヒューディはこたえる。
ルドウィンはうなずくと、彼の肩をぽんと叩いてこういい、草の上に長身を横たえた。
「しっかり番しろよ。昼間みたいに寝ぼけないようにな」
第17章(2 / 2)に栞をはさみました。