第17章
出発の日、ユナは夜明け前に目が覚めた。左手から、かすかなさざめきが伝わってくる。手首に目をやると、暗がりで息づくように、ダイヤモンドが淡く青い光を放っていた。
ルシタナの形見。わたしへの
エレタナはルドウィンとヒューディのほか誰にも知られないよう、袖口をボタンで留める
まったく、つまらない男ね。ユナはかぶりを振り、ひんやりとした床に降り立つ。いよいよこの居心地のよい館を発つのだと思うと、胃の奥がきゅっと痛んだ。
新鮮な空気を吸ってこよう。ユナはさっと着替え、素足のまま廊下に出た。
ここ数日、セティ・ロルダの館はものものしい雰囲気に包まれていた。
各地からの援軍がランカやその他の駐屯地に到着したという知らせが次々と届くなか、大勢の将校が出入りし、会議の翌日には、ルドウィンの側近サザレも、ウォルダナからの進軍の途上、いったん隊を離れて駆けつけた。
水車小屋のセイルは事件の記憶を失っており、襲撃は無法者の仕業とされ、村人も協力して、ユナの捜索が行われたという。伯父と伯母を思い、すぐにでも飛んで帰りたかったが、ユナはその思いを封印した。
サザレはその日のうちにヤンと発ち、ヨルセイスもその夜、デューに先んじてランカに向かい、館では、総力戦に備え、テタイアの連合軍司令部へ移る準備が進めている。
けれど、未明のいまあたりは静かで、
回廊を通って広大な裏庭へ抜けた。芝の夜露が素足を濡らし、木々の葉が淡くきらめいている。歩きながら振り返ると、館の上、欠けゆく月が銀色に輝いていた。
この広い敷地を散策するのもこれが最後。そう思うと、名残惜しかった。花の終わった
果樹園を抜け、池のほとりを通って花園へ向かう。東の空がゆっくりと白み始め、風が夜明けのにおいを運んでくる。
誰かの声に、ユナは、はっと足を止めた。デュー?
胸の鼓動が速くなる。
「二千年のあいだ、ほかに誰も愛さなかったのですか?」デューがいう。
「愛を捧げた人は、ただひとりです」
「これからもずっと?」
凍てつくような沈黙。
「亡くなった人を忘れてほしいとは思いません。ただ、知ってほしいのです。ここにも、あなたに想いを寄せる者がいることを」
ユナは、心臓が石になったような気がした。身体が指の先まで冷たくなってゆく。
「エレタナ。初めてあなたに会ったときから||」デューはエレタナに歩み寄って、ふれようとした。
「ごめんなさい」エレタナはささやき、彼の腕をすり抜ける。
ユナはそっと茂みを離れた。池のほとりを走り、果樹園を駆けぬける。訪れた夜明けの素晴らしい風景も、彼女の目には入らなかった。
「だいじょうぶかい、ユナ?」
ユナはわれに返った。中庭のテラス席。ヒューディが心配そうに彼女を見ていた。
「だいじょうぶよ」朝食の最中だったことを思いだし、ユナは笑顔を作る。
テーブルにはふたりきり。いつもの面々は朝食を兼ねた会議に出ており、ルドウィンはそこで旅の最終確認をしているはずだ。いつものようにデューやエレタナと一緒に朝食をとるなど、とてもできそうもなく、ユナは密かに会議に感謝した。
半熟卵をスプーンですくって、口に流し込む。ジョージョーのゆで加減はいつも絶妙だが、今朝はどんな味もしなかった。部屋に戻るとき、ヒューディがいった。
「先に行って荷物の準備をしておくから、少し休んで、ゆっくりおいでよ」
ユナがホールに降りてゆくと、陽気な笑い声が聞こえ、ヒューディとルドウィンが冗談を飛ばしあっていた。
「よお、おちびちゃん。おはよう」ルドウィンがいう。
ユナはぼんやりと挨拶を返し、ため息をもらす。ルドウィンは軽く眉を上げてユナを見たが、なにもいわなかった。
やがて、見送りの者たちが広い階段を降りてきた。デューとワイス大尉も、話しながら降りてくる。彼らも、このあとここを発つのだ。その後ろ、トリユース将軍とエレタナの姿が見える。デューがユナの視線をとらえ、彼女の方に歩いてきた。
「ユナ」いつも不思議な感覚で彼女の心の奥にふれた声。やさしく、どこか寂しげな瞳。エレタナに思いを告げたときの激しさは、もうどこにもなかった。「だいじょうぶ。きみなら、きっとできるよ」彼はユナを抱きよせる。「気をつけて」
甘く切ない感覚に、全身がふるえた。
「あなたも」ユナはささやく。
「ありがとう」デューは身体を離し、エレタナが、まだふるえている彼女を抱きしめる。
「自分を信じて、ユナ。神さまはいつも、あなたとともにあるわ」
深いすみれ色の瞳に見つめられ、思わず目をふせた。こたえたいのに、声も出ない。
「ユナ」ワイス大尉が歩み寄り、ユナの気まずさを救う。「無事を祈っているよ」
かたわらでは、デューとヒューディが抱擁を交わし、トリユース将軍がルドウィンの肩にがっしりと手をかけて、こういっている。
「テタイアの司令部で待っていますぞ、ルドウィン殿下。くれぐれも気をつけて」
フォゼとジョージョーが走ってきた。
「ジョージョーの弁当、持ったよな?」
「きっとまたすぐ会えるよね……」
朝の
彼らは白銀の谷を川沿いに西へ進み、渓谷を抜け、川の支流をさらに西へと向かった。やがて、傾いた日が、騎乗の旅人たちの長い影を岸辺に落とした。
ユナは沈みがちに馬を進めていた。花園で目にした光景が脳裏から離れない。デューのエレタナへの熱い想いが胸をしめつけ、あのときのふたりの声が耳にこだまする。
もしもそんな状態でなければ、彼女の鋭い感覚は、とうになにかの気配を感じとっていただろう。けれど、いまの彼女には、どんな音も耳に入らなかった。
彼らは、日がとっぷり暮れるまで馬を進めた。そのあとを音もなくつける黒い影には、誰も気づかなかった。