ユナとヒューディ、ヨルセイスとデューの四人は、ヒューディと蛇行する川沿いに緑したたる渓谷を走ったあと、古い石橋を渡って南へ向かった。真っ青な空を流れる雲が、丘の上に深緑の影をくっきりと落としながら、光と影のコントラストを描いてゆく。
 ヨルセイスの葦毛に続いてローレアを飛ばしながら、ユナは全身で風を感じていた。馬で駆けるのは久しぶりで、心が空に放たれてゆくようだ。
 渓谷の南のはずれ、広葉樹の森を抜けると、行く手に、そびえ立つような丘が見えた。
「あの丘だよ」しんがりを走っていたデューが声をかける。
「まさか、あれに登るの?」
「だいじょうぶですよ、ユナ」ヨルセイスが振り向く。「難なく登れます」
 ふもとの湧き水で喉をうるおしたあと、ユナは半信半疑で彼に続いた。
 木々が新緑の枝を広げる木漏れ日のなか、ヨルセイスは、さらさらの金髪と流れるような衣装をひるがえし、急な斜面を軽やかに駆けてゆく。ユナは夢中であとを追った。
 ローレアの全身から、もうもうと湯気が立ちのぼる。勾配がいっそう急になり、不安が胸をよぎった次の瞬間、その勾配が緩やかになり、光が降りそそいだ。
 思わず息を呑む。
 頭上には真っ青な空。風が吹き抜ける草地の果てには、その大空から続くかのように、鮮やかな青を湛えた世界が広がっている。ユナに馬を寄せて、デューがいった。
「南アルディス海だよ」
 
 丘の頂きは広々として、海を望む南側は切り立った崖になっていた。眼下には緑の森が広がり、その果てに、小さな入り江と村落が見える。建物の屋根はオレンジ色で、青い海に美しく映えている。
 ユナは馬を降り、言葉もなく崖の縁にたたずんだ。
「すごいな……」ヒューディが彼女と並んでつぶやいた。
「ええ」海を見つめたまま、吐息まじりにうなずく。
 海がこれほど青く、これほど広いとは。クレナの音楽堂には、ウォルダナの東海岸を描いた絵が飾ってあるが、絵で見るのとこの目で見るのとでは、天と地ほども違う。
「彼の思いつきだよ」デューがヨルセイスとやってくる。
「白銀の谷まで来て、海を見ない手はありませんからね」ヨルセイスはほほえんだ。「もっと遠出して海岸にもお連れしたかったのですが、万が一のことを考えて断念しました」
 万が一のこと||。一瞬、ユナの脳裏に灰色の騎士の姿が浮かぶ。けれども、デューが次のようにいい、その姿はすぐに消えた。
「この丘の方がずっと眺めがいい。ユナ、きみの故郷はクレナだったね?」デューはヒューディのいる左手のほうをさし、「ここからだと、ほぼまっすぐ東。ちょうどそっちの方角だよ」次にヨルセイスのいる右手を指し、「ぼくの故郷は、海岸沿いに西にいったところだ」
「海辺で生まれたの?」
「ああ。スリン・ホラムという港街だよ。白銀の川の河口の近くで、エルディラーヌとは目と鼻の先だ」
「スリン・ホラム……」ユナはささやく。どことなく、なつかしい響きがした。
「古い言葉で美しい港という意味で、きみの故郷のように、古代の遺跡が残っている。ヨルセイス、きみは何度か行ったことがあるといっていたね」
「ええ」とヨルセイス。「本当に美しい港です。景観もさることながら、料理の美味しさでもつとに知られています。新鮮な魚介類や海藻は、都では味わえないでしょうね」
「なんだか、急に腹が減ってきたな」ヒューディがいう。
「そうですね」ヨルセイスは笑った。「お昼にしましょうか」
 青空の下、真っ青な海を眺めながら、ジョージョーが作ってくれた昼食に、みんなでしたつづみを打つ冷たいレモンの飲み物に、チーズと野菜を薄い生地で包んだ料理、新鮮ないちごとヨーグルト、干し林檎と胡桃くるみの焼き菓子など、どれもとても美味しかった。
 心ゆくまで食事を楽しんだあと、木陰で思い思いに横になる。そよ吹く風と、子守歌のような鳥たちのさえずりが心地よかった。
 
 まばゆい光に、ユナは目を覚ます。木漏れ日が、顔の上で揺れていた。
 ヒューディは、まだぐっすりと眠っている。デューも眠っていたが、ヨルセイスの姿がない。彼の葦毛はのんびりと草をはんでいるから、ひとりでどこか散策しているのだろう。
 立ちあがってのびをすると、ユナは海の青さに惹かれるように、崖の方へと歩いていった。白い帆をいくつもひるがえした豆粒ほどの船が、ゆっくりと海をすべってゆく。崖に近づくにつれ、入り江とオレンジ色の屋根の街が見えてきた。
 崖の縁にたたずみ、そよ風を全身に受ける。眼下には新緑の森。崖の縁から両足を投げだして座ると、少し下に、岩場が突き出していた。落ちてもあそこで助かるかな。でも、こんなところをイルナ伯母さんに見つかったら、ひどくお小言をいわれるに違いない。
 胸がきゅっとしめつけられた。イルナ伯母さん、どうしているだろう。自分が突然いなくなって、ロデス伯父さんと、どれほど心配しているだろうか。それに、レアナ……。
 そうして彼女のことを思ったとき、ユナはふと不思議な感覚を覚えた。いつかレアナとこんなふうに崖の縁に座って、こんなふうに緑の森を見おろさなかっただろうか。
 と、目の前の光景に、故郷の丘陵と壮大なウォロー山脈の姿が重なった。ああ。レアナとは、クレナの遺跡の崩れた壁に並んで、緑豊かなウォルダナの大地を眺めたっけ。
「ユナ」下の方から声が響いた。
 真下の岩場から、ヨルセイスがこちらを見あげている。
「ヨルセイス! そんなところでなにしてるの?」
「薬草を探していたんです」ヨルセイスはバスケットを掲げてみせる。
「さっき見たときはいなかったけど?」
「少し降りたところにいましたから」彼は軽やかに崖を上がり、隣に座った。バスケットからは、薄緑のきらきらした葉がのぞいている。「南のぶきそうです。南アルディス海沿岸の日当たりのよい崖に自生し、傷ついた筋肉をよみがえらせ、怪我の回復期によく効くんです」
「たとえば、いまのルドとか?」
「ああ。それはいい考えですね」
 ユナは笑う。そのために探したのだろうに。
 ヨルセイスはバスケットを置き、彼方に輝く海を見つめる。風の音と野鳥の歌声だけが聞こえている。彼はふところから銀色の横笛を取りだし、くちびるにあてた。
 笛の音が静かに流れると、鳥たちは歌うのをやめて聴き入った。遠い星から聞こえてくるような、美しく、どこかなつかしい調べだった。
 笛の余韻が木々や岩のあいだをただよい、そして、消えていった。ユナは吐息をもらす。
「きれいな曲ね……」
「フィーンに伝わる古い歌です」
 ユナは、金髪を風にそよがせているその美しい横顔を見つめる。
 初めて会ったときから、ヨルセイスはやさしかった。薄い水色の瞳は涼やかで、同時にとてもあたたかだった。けれど、ほんの時おり、その瞳がかげることがある。彼は自分のことはほとんど話さない。エレタナの従兄というけれど、ずっと年長のようだった。
「あなたは、ルシタナを知っていたの?」
 一瞬、淡い水色の瞳が揺れた気がした。
「残念ながら、会ったことはありません。でも、エレタナからいろいろと聞いていました。明るくて勇敢で、やさしく一本気で||。そうそう。もうひとつ。かなりのお転婆だったと」ヨルセイスはユナを見てにっこりする。「誰かさんと似ていますね」
「最後のところだけね」ユナは笑い、海を見つめて小さくため息をついた。
「ユナ。世の中そのものが当時とは違いますし、あなたはいまのあなたのままが一番です」
 ユナは、ありがとうというようにうなずく。それから、デューが話してくれたことを思いだし、少しためらったのち、こう聞いた。
「昔はずっと文明が進んでいたというけど、どんなふうだったの?」
「二千年前は、技術の進み方がずっと急速でした。そのため、さまざまなひずみが生じて||武器もずっと恐ろしいものがありました」
「いまいろんな国が開発しているような?」
「ひとつには」ヨルセイスはこたえ、少しのあいだ口を閉ざす。「でも、当時の戦争には、いまより人間的な面もありました。敵味方の将校が一騎討ちをするときには、ほかの者はいっさい手出しをしないのです。わたしの親友は素晴らしい戦士で、最後の戦いは、誰も見たことがないようないっ討ちでした。相手も恐ろしく強かった」
「どちらが勝ったの?」
「どちらもそれで命を落としたのです」ふたたび短い沈黙があった。「さて。そろそろ行きましょうか。こんなところで座っているのをデューに見つかると、なんていわれるかわかりませんからね」いたずらっぽくいうと、彼は立ちあがって手をさしのべる。
「そうね」ユナは笑い、彼の手をとった。
 
 ルドウィンの回復はめざましかった。ヨルセイスが摘んできた南の息吹草の効果もあったのだろう。日に日に長く歩けるようになり、初めて階下に降りてテラスで朝食をとってから一週間あまりで、ヒューディと木刀で軽い手合わせをするまでになった。
 テタイアから密使が戻ったとの知らせが入ったのは、ふたりが手合わせをしたその午後のこと。果樹園のはずれにある池のほとりで、ルドウィンがユナたちと、お茶のひとときをのんびり楽しんでいるときだった。
 一瞬、お茶の席が静まり返る。
「明日の朝、作戦会議が開かれます」知らせを運んできたヨルセイスが、言葉を継いだ。
 ヒューディが、そっとユナの腕を取る。風がさわさわと吹き、やや満開を過ぎたりんの花びらが雪のように舞って、彼らのまわりや池のおもてにはらはらと落ちた。