15

 セティ・ロルダの館に着いた翌朝、ヒューディはひとり、館の中を所在なげに歩いていた。ルドウィンのことが心配でならなかったが、ユナはデューに弓の指導を受けており、ほかに話す相手もいなかった。
 そんなとき声をかけてくれたのが、エレタナの従兄ヨルセイス||デューが乗っていた美しいあしあるじだった。薄い水色の瞳をした長身のフィーンで、前日は出かけていて、歓迎の晩餐会が終わるころ戻ってきたのだが、長い金髪をなびかせてヒューディたちのもとにやってくると、長いあいだ会っていなかった友にするように、ひとりひとりをあたたかく抱きしめたのだった。
 この朝も、彼は澄んだ瞳でヒューディを見つめ、ルドウィンはきっとだいじょうぶだと請け合い、愛馬で広大な敷地案内してくれた。そして、いくつもの池や果樹園をめぐって戻ってくると、ルドウィンが目を覚ましたという知らせが飛び込んできたのだった。
 それから毎日、ヨルセイスはヒューディとともに白銀の谷を馬で駆けめぐり、時には、剣術の手ほどきをしてくれるようになった。あるとき、エレタナがいった。
「本人は認めないでしょうけれど、彼はフィーンの中で最も優れた乗り手なの」
「剣の腕も一流です」ヒューディがいうと、彼女はにっこりした。
「弓の名手でもあるのよ。デューと勝負したこともあるの」
「デューと?」
「ええ」
「どちらが勝ったんですか?」
「どちらも一歩も譲らなかったわ。暗くなるまではね」
「暗くなってからは?」
「フィーンは、夜目が利くの」
 
 館に来て七日目。ルドウィンがヨルセイスの肩を借り、初めて階段を降りてきた。中庭のテラスで、ユナたちと朝食をともにする。思ったよりしっかりした足取りで、ユナは心からほっとした。ヒューディもいつになく明るい笑顔で、ほんのり目をうるませる。
 フォゼが飛んできた。
「ルド! 元気そうだね!」香ばしい香りのするパンが入ったバスケットをテーブルに置き、「どっさり食べて。ジョージョー特製栗麦くりむぎ粉のパン。絶品だよ」
 ぱりっとした上衣に身を包んだフォゼの姿に、ルドウィンは目を丸くする。
「どうしたんだ、いったい?」
「へへ。俺、ここで働いているんだよ」フォゼは得意げにいった。「待ってて。すぐに卵料理を持ってくるから」
 ルドウィンは、厨房へと戻ってゆくフォゼを、呆然と見送る。
「わたし、館の厨房と掛け合ったの」ユナがいった。
「なんだって?」ルドウィンは彼女に向き直る。
「ジョージョーは料理上手で、フォゼは手先が器用だから、物を運ぶのが得意だっていって。それで、ジョージョーは料理見習い、フォゼは給仕として立派に働いてるってわけ」
 ユナは、ヒューディが、あいつらここでうろうろしていたら、ろくなことをしでかさないぞといったことは黙っておいた。そのヒューディが横からいう。
「フォゼの方は、立派というにはちょっとばかりへいがあるな。始終つまみ食いをしてるし、どういうわけか、よくポケットに、銀のフォークなんかがまぎれてるようだから」
 彼の言葉に、みんな笑った。
「ユナ」エレタナがこう呼びかけたのは、そのなごやかな朝食が終わるころだった。「ヨルセイスはいろんななまりを話せるの。彼にテタイア訛りを習ったらどうかしら?」
 心臓がドキンとした。エレタナは続ける。
「ここにはテタイアの将校もいるけれど、どなたも忙しくされているし、ヨルセイスは何度かテタイアに行ったことがあるの。完璧な訛りを話せるわ」
「テタイアの方々は、他の国が訛っているというでしょうけれど」ヨルセイスは笑い、それからやさしくユナを見る。「あなたは耳がいいから、きっとすぐ習得できます」
「そいつは楽しみだ」とルドウィン。「上達したら、いつでも練習相手になってやるよ」
 その偉そうな態度に、ユナは思わずむっとする。
「あなたは話せるの?」
「ああ」ルドウィンは軽く眉を上げ、テタイアの将校が話しているのと同じ抑揚よくようでいいそえた。「十代のころ、テタイアに遊学していたからね」
「面白そうだな」ヒューディがいった。「ぼくも一緒に教わっていいですか?」
「もちろん」ヨルセイスはこたえる。「ユナもひとりより楽しいでしょう」
 そうして誰もがごく気安く話していたが、それがなにを意味するのか誰もがわかっていた。
 旅たく。テタイア人に身をやつし、テタイア王国を旅するための準備だ。密使が戻ってきたら、彼女はここを発たねばならない。預言を成就じょうじゅすべく、光の剣を求めて||
 この旅に出た当初、ルドウィンに腹を立て、こう宣言したことがよみがえる。
 ||そのなんとか本部ってとこに着いたら、一歩も動きませんからね||
 しかし、彼女を狙った灰色の襲撃で、ルドウィンはもう少しで命を落とすところだったし、ヒューディは故郷に帰りそびれた。運命の歯車は、とうに動き始めているのだ。それに、二千年も待っていたエレタナや、熱心に弓を教えてくれるデューをがっかりさせたくはない。だからこそ、少しずつ伝説を受け入れ、使命を受け入れようとしてきた。
 けれど、本当に覚悟はあるのか? ルシタナがそうしたように、使命を果たすため、旅立つ覚悟はできているのか?
 一度、エレタナにたずねたことがある。ルシタナはどんな少女だったのかと。
「森で育ったからでしょうね。自然が大好きだったわ。まっすぐで、情熱的で、ちょっと頑固で」エレタナは笑い、それから、真顔になってユナを見た。「ユナ、いまのあなたがすべてなのよ。あなたの中にルシタナもいるのだから。それを忘れないで」
 ||いまのあなたがすべて||
 本当にそうだろうか? 伝説の中のルシタナはきらきらと輝き、非のうちどころがない。いつかルドウィンにいわれた言葉が、何度となく耳の奥で鳴り響く。
 ||きみのような娘がルシタナの生まれかわりだなんて、どこでどう間違ったか、天に聞きたいよ。もっと謙虚で聡明で、真の勇気と優しさを兼ね備えた女性であるべきなのにね……||
「ユナ」誰かが腕にふれ、ユナは我に返る。
 ヒューディだった。
「ヨルセイスが、一緒に遠乗りに行かないかって」
「たまには羽を伸ばそう」デューが笑顔でいう。「とっておきの場所があるんだ」